第5話

「着きました」

 3区画過ぎて郵便局に差し掛かり、その一つ奥の交差点を左折した所で目的地に到着したらしい。友人宅は二階建てのアパートの二階にあるようで、カツンカツンと外階段を登っていく。

 夏の暑さのせいではない汗を拭う。

 意を決し、顔を上げてアパート周辺の民家の様子を伺う。垣根や透かしから視線は感じられない。はあぁと大きく息を吐いて、彼の後に続いて階段を登り一番奥の扉の前で止まる。表札には最近書き直したのか、黒の油性マジックで【藤】と奇麗な字で書かれている。

「ゆいとー、大丈夫や―?」

 薄い水色のカーテンが照明で照らされており、中に誰かがいるのは間違いないようだ。甲斐君の行動から察するに、廊下側のこの部屋が彼の部屋の様だ。チャイムを鳴らしても反応が無くよもやまた居留守かと思われたが、小さく鍵の開く音がして藤君の部屋の窓が数センチ開いた。

「…………甲斐?」

 聞き逃しそうなか細く弱弱しい声だった。再度体調を心配すると

「体調は大丈夫…………本当に甲斐なん?」

「え、何ば言いよっと? まだ調子悪いんじゃにゃーと?」

「いやそうじゃなくて……さしより中入る? ちょっと話さんや?」

「俺はいーけど……」

 言葉を濁して甲斐君が私を見上げる。

「藤君? 覚えてるかな、何日か前に道端で話したテレビ局の」

「あ、はい、えっと、どうしよ。今親仕事行ってて俺しかいないんですけど、あんま人あげんなって言われてて」

 その判断はとても正しい。肩書があろうがなかろうが、他人を家に招くのは危機感を抱くべきだ。勿論、それを上回る危機があれば話は変わってくる。故に藤君は数秒黙ったのち

「……多分七時半には帰ってくると思うんで……それまでだったら」

 と、了承した。

 すぐ開けますと一旦窓が閉まり、足音が移動してドアの前にやってきた。一瞬、開けるのに躊躇したであろう間があったが、チェーンの擦れる音に続いて鍵が開けられ、甲高い音を立てて古臭いドアが開いた。公園にいた内の一人である黒髪の男の子が顔を出した。  

 彼を藤唯人ふじゆいとと仮称する。

 藤家はどこにでもありそうな全く普通の家だった。久しく他人の家に上がっていなかったのもありちょっとした緊張感を覚える。手洗い場の場所を聞き、言われた廊下の突き当り右手のドアを開けると目の前に洗面台が現れた。あまり生活空間を侵す真似はしたくはないのだが、と思いつつ蛇口を捻ると

 ドタドタドタ!

 と、荒々しく足音を立てながら藤君がやってきて

「や、や、やめてください!」

 そう大声をあげて私を注意し、蛇口を閉めた。何故かと聞くが要領を得ない答えしか返って来ず、仕方なく謝り何気なく電気を消すと今度は電気を点け直された。

 彼の目には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。手洗い場も浴室も、思えば入ってすぐの部屋とキッチンの蛍光灯も点いていた。後ろから甲斐君が心配した顔で現れて部屋に戻ったので確認出来なかったが、トイレも奥の部屋も電気が点いているのだろう。

 それの意味するところは聞き出すしかないが、まず悪い話になるに違いない。

「藤君……何があったか、教えてくれるかな?」

「……ど……どうせ信じてくれんけん……話しても意味なかもん」

「だからなんば言いよっとやって。はよ話せって、時間にゃーとばい?」

「そんなん言ってもさ、だってお前…………お前、あれ見とらんけん、そぎゃんこつ言えるとぞ」

「あれってなん?」

「それは……」

 急に黙った藤君と、それを見てため息をつき私に目配せする甲斐君。気持ちは大いに察せられた。

「『あれ』って、久保君がいなくなった事に関係してるんだよね。例えば……幽霊を見た、とか」

「いや幽霊ってそんな事ある訳ないじゃないですか。あんなんくぼっちの……まじ?」

 一体何を見ればこんな恐怖に体が震えるのだろうか。がちがちと歯の根が嚙み合わず、涙がズボンに大きな染みを作っている。

「あの、俺……俺」

「大丈夫、ゆっくりでいいから話してくれる? ちゃんと聞くから」

「…………こんなん、話しても信じて貰えないと思うんすけど……昨日の放課後、学校にくぼっちがいたんです」


 授業が終わって校舎内から生徒がいなくなり、部活生がサッカーやバスケに勤しんでいる頃、彼は校舎裏を歩いていた。殆どの生徒は何かしらの部活に入部しているが、藤、甲斐、久保は親の方針もあってか入部しておらず、残りの二人は外部での習い事に時間を取られていた。久保が行方不明かもしれないと甲斐から聞いてはいたものの、やはり信じる事など出来ず、おかしくなったか、あるいは二人してふざけているのではとすら思っていた。

 一度帰宅して一人でゲームをしていたところ、電話が掛かってきた。母からだった。どうせ暇してるだろうからスーパーで卵と豆腐を買って来てくれ、とお使いを頼まれたのだ。一度断りはしたものの、余りをお小遣いにしていいと言われ了承し家を出た。

 スーパーに向かうには民家の隙間を縫って、学校の裏手を通ると近道だった。登校時には使用しないが、下校時にはよく使用している慣れた道だった。学校に近づくとサッカー部の掛け声が聞こえてくる。特に代わりの無いいつも通りの学校の風景だった。

 ある一点、一階の廊下に久保の姿が無ければ。

 彼は久保に声を掛けたが、ガラスが閉まっていて聞こえていない様だ。母からのお使いがある事は分かっていたが、追いかけずにはいられなかった。裏口から正面玄関へと向かう間に、久保が階段を登って行くのが見え彼は足を速めた。

 正面玄関に着き時間を確認すると、17時57分を指し示している。先生に怒られるかもしれなかったが、彼は引き返さなかった。靴箱に靴を投げ入れて階段を一段飛ばしで駆け上がる。階段の途中で会えるかと思ったが、出会う事無く三階に到着した。

 すぐさま教室への角を曲がると、机で作られたバリケードの先、開かずの廊下に立つ久保の姿が目に入った。使う廊下は差し込んだ夕陽で赤赤と染まっていたが、バリケードに阻まれた開かずの廊下はその光が届いていないのか異様な程真っ暗で、白い服を着た久保だけがぼんやりと姿を確認出来た。

「おいくぼっち! 皆心配しとったとに、大丈夫なん?」

 今度は明らかに聞こえる距離にいるのに、教室の方をじっと見つめているだけで全く反応が無い。

「そこ入ったらいかんて先生に言われとるやん、はよこっち来いて」

 何度も呼びかけるが無視しているのではなく完全に聞こえていない様子で、それどころか虚ろな目でブツブツと何かを呟いている。するとどこからか、カチャン、と鍵の音が恐ろしく小さく彼の耳に届いた。六時になり、玄関の鍵が閉められた音だと思ったがそうではなかった。久保の目の前の扉が音も無く開き、止めようとしたが彼は吸い込まれる様に中に入って行く。

 女の子の幽霊に名前を呼ばれ、教室に引き摺り込まれる……想像したくはなかったが、例の怪談が頭を過った。

 噂はただの噂で怪談などある訳が無い。きっと何かに参っているだけなんだ。そう信じて机のバリケードを潜って久保の後を追った。


「がぼっ、がっ、ぐっ……おご、がっ」


 窓には新聞紙が所狭しと貼られ、教室の後ろ側に乱雑に積み上げられた机や椅子。一歩踏み入っただけで吐き気を催す程の凄まじい湿気とカビ、腐った肉の様な匂いが入り混じった教室。

 その真ん中に立ち尽くす久保の真上の天井から、真っ黒いドロドロとした液体が止めどなく降り注ぎ、彼はそれを飲み干そうと溺れていた。

 真っ暗な教室でどうして姿が見えるのか、天井から降り注ぐ液体が何なのか、久保の話は本当だったのか。それらの疑問を吹き飛ばすあまりの異様な光景に彼は腰を抜かし、久保が黒い水をがぶ飲みする姿をただ見ているしかなかった。

 そして天井から流れる水が滴る程度に落ち着いた時、いつの間にか久保のすぐ隣に女の子が一人立っているのに気が付いた。女の子は天井を見上げていた。

 怪談に出てくる女の子だ。直感的にそう思ったそうだ。

 その女の子が天井から久保へと視線を移した瞬間、ぱしゃりと音を立てて彼の体が崩れ落ち、床一面に黒い液体が散らばった。

 その後どうやって家まで帰り着いたか、よく覚えてはいない。着ている服が着物だったか制服だったか、仔細も全く思い出せない。しかし、すぐそこにあったはずの命が消える感覚と、教室から逃げ出す際に背後から自分を呼ぶ何人もの声だけは今もはっきりと思い出せる。

 今もまだ目の前にいるかの様に。


 だからか、と私は納得した。家中の電気が点けられ水の音に怯えているのは。話を終えて泣き震える彼は昨日夜から一歩も家を出ておらず、家族に説明のしようも無い為に仮病を使って部屋に閉じこもっていたそうだ。

 人が消える現場を目撃し、名前を呼ばれ女の子の姿が見えてしまった。次は自分の番かもしれない。いや、きっとそうだ。外の暗闇に廊下の隅に、あの女の子がやってきて久保君と同じ目に遭ってしまうんだ。そして藤君は一睡もせずに朝を迎え、陽の光が部屋に差し込み母親が朝ごはんの支度を始めると同時に眠りについた。

 現在彼は何も見聞きしてはいないがそれも時間の問題だろう、というのが私の見解だ。彼に伝えるか否か判断が難しい所だが、例のあの匂いが、この家に入ってからずっと鼻を刺激していた。隣に座る甲斐君が感じている様子は無かったので私の勘違いかと思っていた。しかし、この淀んだ匂いを嗅いだその翌日に今聞いたばかりの惨状になるとしたら、藤君にはあまり時間が残されていない理屈になる。迷っている暇は無い。

「甲斐君、率直に教えて欲しいんだけど藤君って今匂う?」

 質問の意味を分かっていないのか怪訝な顔をする二人。昨日風呂に入っておらず臭いのは重々承知しているが、大事なことだからと念押しし匂いを嗅がせる。

「え、くっさ。お前どこ行ったん」

 額に皺を寄せて顔を背け、ドブみたいな匂いだと比喩した。

 出来れば外れて欲しかった予想が当たった……例え更なる恐怖を彼に与える結果になったとしてもここ数日の話をしなければ。いや、むしろするべきなのではないだろうか。久保君はただ目の前に現れ、いつの間にか教室まで誘われてどこかの世界に連れ去られてしまった。藤君が発見するまでに何が起きたのかは知りようが無いが、まず間違いなく教室の出来事をきちんと見たのは彼だけだ。現状一番恐怖の現場を見た彼ならば、親の協力を得られるのではないか? 時間を確認すると十八時三十分過ぎ。親が帰宅するまであと一時間……。

 公園での出来事と久保家周辺の住民の行動、それに私の家族の不可思議な言動を事細かに説明した。既に泣いていた彼だったが、説明が終わる頃にはもう涙も出尽くして過呼吸を起こしかけていた。近くにあったティッシュの箱がもう空に近い。病気ならまだしもなどと口が裂けても言えないが、ほぼ即日の死刑宣告をただの小学生が受け止められるわけがなかった。

「俺どぎゃんしたら……? 何でも、言う事聞きます。あんな死に方したくない……何か、あれから逃げる方法は何かないとですか? き、昨日から水が……黒い水が」

 霊から逃げる方法なんてあるなら教えて欲しいくらいだが、そんな弱気な事を言っていられない。物理的に殴って解決が可能なら手っ取り早くて助かりはするが、そんな上手い話は無いだろう。きっと帰宅後すぐに実行したであろう盛り塩は期待出来ない。結界を張るなんて高度な技は持ち合わせていないし、お祓いも同じくだ。滝方面への道半ばにある宮若神社で頼めるかどうか怪しいが、選択肢には入れておいてもいい。後は真帆に頼る他ない。彼女であれば私よりも有用な解決策を出してくれる。一つ提案はあるが了承が得られるかは分からないし、藤君の親の協力が不可欠でもある。……先に了承を取っておくべきか?

「二人とも、ちょっと電話してくるから待っててくれる?」

「え、え、どこ行くんですか?」

「大丈夫、もしかしたら力になってくれる人がいるから、試しに聞いてみるだけ。すぐ戻るよ」

 外に出、ガラス越しに二人の姿が見えるが話している様子はない。それぞれが信じられないと考えているのだろうが、真意は若干違う所にあるだろう。

 外に出ると未だ太陽は町を照らしていた。建物の影は横に伸びきって町に張り付き、生命力に物を言わせた蔦系の植物が覆っていく様に見える。一度根を張った蔦はそうそう根絶やしには出来ず、コンクリの壁の隙間に入り込んで壁を割って行くらしい。ぱっと見古民家に張った蔦はお洒落に見えはするが、その実、最終的に処理しようとすると大変なのだ。少しでも残っていればまた根を伸ばし始める。やるなら徹底的にやらねば根を断つ事は出来ない。

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