開業
開業の日がやってきた。
玄関の前には、既に大勢の人が集まっていた。貴族、ギルドの関係者、商人、そして周辺住民。中にはまるで歴戦のグラディエーターのような人物もいる。食生活の改善で元気を取り戻した貧民街のサム爺だ。ハンスの一家もその隣にいた。そして、人混みの中にルーカスの顔を見つけたウルリカは、口元を緩めた。
この日のために、モーナとウルリカは知る限りの人に招待状を送ったのである。
ここは元離宮。玄関の前には数段の階段があり、演説の舞台としても使えるようになっている。ウルリカがそこに上がると、皆が静まった。
「皆様、本日はお忙しいところ、お集まりくださり感謝いたします。わたくしは、スムサーリン中央銀行総裁のウルリカ・レイクロフトと申します」
ウルリカは、声を張る。
「本日、南離宮は『スムサーリン中央銀行本店』として生まれ変わります。これは国の存亡を賭けた一大プロジェクトとなります。今日は歴史に残る日になることでしょう。ぜひ、今日のことを目に焼き付けてくださいませ。それでは、営業を開始いたします」
軍楽隊のファンファーレとともに、扉が開かれる。
「いらっしゃいませ」
ウルリカが頭を下げると、二手に分かれて整列した職員達も声を揃えて頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
平民は、王族やその使用人達が頭を下げて自分達を迎え入れるという光景に、驚きを隠せなかった。
係員に誘導され、暖房で暖められた建物内に入ると、皆、ほっとした表情を浮かべた。
これも、モーナの計略のうちである。寒空の下の式典を簡潔に終わらせ、暖かい店内に招くことで、安心できる場所というイメージを植え付けるという狙いである。この日のためにわざわざ通路にもレッドフォード式の鋳物薪ストーブを設置したのである。
多くの貴族にとっても、見る機会はそう多くなかった荘厳な通路。皆、天井の彫刻を見上げて感嘆する。そして目に入るのが、矢印とピクトグラムを主体とした案内板であった。文字の読めない平民でも理解できるよう配慮されている。
「こちらが、本店営業部の窓口ですわ」
ウルリカが先導し、窓口カウンターの前に辿り着いた。案内係が皆にウルリカを取り囲むよう促す。
「銀行は国民の皆様が誰でもお金を預けられる大きな金庫のようなものですわ。貴族も平民も、そして団体も使えます。生活費の貯金から商取引の資金に至るまで。といっても、想像できませんわね。これからわたくしが第一号の口座を開設いたしますわ」
そう言って、一枚の書類を窓口の職員に渡す。
「窓口を担当するのは『テラー』と呼ばれる職種の担当者ですわ。預金に関する様々なお手続きはテラーが承ります」
以前に、異世界で杏菜が破壊したATMとは、Automated Teller Machine、機械仕掛けのテラーのことであったのである。まだ機械仕掛けのテラーは実現できないけれど、その役割は人間が担うことになっている。
しばらくして、テラーから預金通帳が手渡される。店番〇〇一、口座番号〇〇〇〇〇一、ウルリカ・レイクロフト様、と記載されている。
「この手帳が『銀貨預金通帳』ですわ。預けたお金の預かり証となる大切な手帳です。皆様から預かったお金の入出金記録は、この手帳と銀行の帳簿に記録されますわ」
ウルリカは、再びテラーに向き直る。
「では、このスムサーリン銀貨百枚を預かってくださいまし」
ウルリカは麻袋をドンと机に置き、ジャラジャラと銀貨をトレーに入れる。
テラーは硬貨の枚数を丁寧に数え、きっちり百枚あることを確認すると、入金を通帳に記載し、後方事務の職員に回す。後方事務の職員はその内容を確認し、帳簿に転記する。そして上席者が照合したのち、通帳はテラーの手元に戻ってくる。こうして、通帳には銀貨百枚の入金と残高が記載されて、ウルリカの手に手渡された。
ウルリカは通帳を開き、皆に見せる。
「この一ページ目には、どなたでも数字が読めるように、数字の読み方が簡単に図示されておりますわ。そして、今の手続きにより、二ページ目に入金記録と残高が記載されました。ぜひよくご覧になって」
そういって、ウルリカは観衆の端から端までゆっくりと通帳の明細を見せて行く。
「これで、あの重い銀貨を持ち歩かなくて済みますわ」
その時、突如、黒い影がさっと飛び出し、ウルリカから通帳を奪った。観衆はざわめく。
「うっしっしっ、殿下の通帳は、このオレが奪ってやったぜ」
棒読みでそう言うのは、黒ずくめの格好をしたアンナである。何故か頭には緑の唐草模様のスカーフを巻いている。余りにも下手な茶番劇に、観衆は失笑した。
泥棒(アンナ)は、窓口カウンターに態度悪く肘を突いて、テラーに言う。
「おい、嬢ちゃん。オレオレ。オレだよ」
「……どちらさまでしょうか?」
「あー、オレだよ。えっと? オレは、ウルリカ? レイクロフト?っていうんだけどな、銀貨百枚引き出してくれよ」
「それでは、出金依頼書の記入とサインもしくは押印を」
泥棒(アンナ)はペンを走らせる。
「ほらよ」
「ありがとうございます。これより口座開設の際のサインと筆跡と照合いたします」
「は?」
テラーは大げさに筆跡を確認した後、憲兵に目を遣る。すると、憲兵が駆け寄り、泥棒(アンナ)を取り囲んだ。
「筆跡が違います!」
テラーが棒読みで泥棒(アンナ)を指さすと、憲兵も棒読みで応じる。
「中央銀行法違反の罪で逮捕する」
こうして、泥棒(アンナ)は引き摺られていき、通帳はウルリカの手に戻ってきた。観衆は拍手する。
拍手が止むのを待ってから、ウルリカは続けた。
「――このように、預けた銀貨を引き出すにはサインもしくは押印が必要となりますのよ。不正出金を完全に防げるものではないのだけれど、一定の抑止策にはなりますわね。このサービスは、貴族でも、平民でも、どなたでもご利用いただけますわ。ご質問は?」
手を挙げたのは平民である。
「……あの、銅貨は預けられるのでしょうか?」
「ええ。ただし、一セント単位で銀貨に両替してから入金いたします。出金時にも銀貨から銅貨に両替することになりますわ。もし入金時と出金時で銀と銅の両替レートが変わっていたら、引き出せる銅貨の枚数は異なる可能性がありますわね」
他の者が手を挙げる。
「私は平民で、貯金できるほどの生活の余裕はありません。銀貨一セントだけでも利用する価値があるんでしょうか?」
「ええ。もちろん。これから紹介する、もう一つの重要なサービス、口座振込がございますわ。これは、口座間でお金を送るもので、給与の受け取り、ご家族への仕送り、商取引の代金決済にご活用いただけるかと存じますわ。実演してご覧に入れましょう」
同様に寸劇で、ウルリカの口座から、口座番号〇〇〇〇〇二の女官アンナの口座に給金を振り込み、記帳され、アンナが銀貨を引き出すところまで実演した。
観衆は再びどよめいた。今度は商人達である。従業員への支払いのために現金を手元に置かなくて良いことに気がついたからだ。
そして、ウルリカはカウンターの中に入る。
「――そして、今日、この場で口座開設していただいた皆様には、わたくしがこの手で通帳を発行いたしますわ。さらに、わたくしから、謝礼として、もれなく銀貨十セントを振込みます。ぜひ受け取って帰ってくださいまし」
労働者階級の平民達は小躍りしながら口座を作り、商人、貴族がそれに続く。
ウルリカがテラーとして、その場の参加者全員の通帳を手書きで作成した。そして、ウルリカの口座からの振込手続きを行い、全員の口座に銀貨一枚が振り込まれ、摘要欄に送金者としてウルリカの直筆サインが付された。
「殿下のサインだ! 私の名前まで書いてもらっちゃった」
「銀貨よりこっちがうれしいかも」
と語り合う平民女性達。
「ありがたやありがたや」
と感涙する高齢の平民男性。
なぜなら、王族からの名入りサインを貰える機会など、一生のうちに一度もないからだ。
これこそが、平民に浸透させるためのモーナの計略であった。平民にはモーナのように結婚や出産を機に失職した者も多く、彼女達には独身時代にミーハーな趣味を持っていた者も少なくない。彼女達のステータスは、高級品の小説本を買い、作家にサインを貰うということであった。しかし、失職により趣味に打ち込む経済的余裕を失い、彼女達には大きな不満が溜まっている。真っ先に新しいものに飛びつくとしたら識字率の高い彼女達だろうとモーナは予想していた。そして、それが呼び水となり、他の層も負けじと口座を開設するだろうと。その予想は的中した。
噂が噂を呼び、ウルリカが在席しているときには、ウルリカの手書き通帳を求める列ができた。一般平民をターゲットにしたプロモーション戦略は功を奏し、その後の一年間で王都の平民の実に八割が口座を開設する結果となった。
それと引き換えに、ウルリカが慢性の肩凝りに悩まされるようになったのは言うまでもない。
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