貧民街


「……それはお勧めしません。あそこは、貧民街と呼ばれてるんですが、汚いですし、臭いもアレで、しかも治安も悪いんで、とても貴女のような方には――」

「構わないわ。今日は町娘リッカですもの」

「あの、さっきから言いたかったんですが、平民は町の娘のことを町娘なんて言いませんよ。ましてや自分のことを町娘なんて。中央市場の商人なら、お貴族様の腹芸として通用しますけど、貧民街はガチで通用しないんで、マジで気をつけてください」

ガチ・・で気をつけますわ」


 しかし、近衛兵は反対した。


「いけません殿下、路地裏で囲まれればお守りできません」

「アンナはどう思う?」

「現状をその目に焼き付けるべきです。目を背けるのはリッカらしくありません」

「分かったわ、参りましょう」

「賛成できません!」

「これは命令ですわ。異議があるなら、日誌に記録なさい。それで、憲兵はその場所を巡回しているのかしら」


 憲兵は頷く。


「はい。さすがに彼らに憲兵を襲うような馬鹿はいません」

「ならば、わたくしとアンナも憲兵の制服を着用し、帯剣いたしますわ。憲兵の巡回に同行させてくださいまし」

「リッカ様は、剣術を?」

「憲兵レイピアですわよね。それなら少々。といっても護身術という名の剣舞ですけれど」


 憲兵レイピアとは、レイピアすなわち細剣を予算の都合でさらに軽量化・小型化したもので、スムサーリン王国国家憲兵隊特有の標準装備である。ウルリカは一周目の世界での王妃教育で、憲兵レイピアを用いた護身術を習得していた。もっとも、身を挺して王太子を守るためのものであるが。


「いえ、扱えるなら問題ないんです。憲兵レイピアは儀仗みたいなものなんで、護身や一対一の決闘ぐらいには使えますが、実戦には向かないんです。下手に剣の扱いを知っていると、丈夫な剣のつもりで使ってしまって危ないんですよ」


 そういうものなのね、とウルリカは頷いた。


 一行は国家憲兵の駐屯所に立ち寄り、ウルリカとアンナは国家憲兵の制服に着替えた。


「で、なんで私だけこんな装備なんですか?」


 半目で抗議するアンナ。その手には刺股があった。


「剣は危険な武器なのよ。扱いを知らずに使えば怪我をするし、敵に奪われでもしたら、かえって危険だわ」

「納得いきません」


 ぶーぶー文句を言うアンナを引き連れて、一行は貧民街へと向かった。


 貧民街と呼ばれる場所は中心街の路地裏である。通り一つ隔てただけなのに、そこは薄暗く物々しい空気に包まれている。強烈な生臭さが鼻腔を突いた。


「んぐ」


 ウルリカは小さな悲鳴を上げながら、王妃スマイルを保った。王妃教育では、五感にあらゆる不快な刺激を受けても微笑みを保つことが求められた。しかし、そのウルリカでさえ、気を抜けば卒倒してしまいそうな悪臭である、


 近衛兵もアンナも放心状態である。


「リッカ様はすごいですね。俺たちもこれに慣れるには数年掛かるんですよ」

「どんな事態にも動じないことが求められますのよ」

「さすがです」


 しかし、ウルリカは泣きそうな気分だった。


 得体の知れない液体に濡れた道に、座り込む者、寝転ぶ者。一行に向けられた、恨みや妬みに満ちた無数の視線に、ぞっと背筋が凍る。


「路上生活者は『美化政策』でこういう場所に追いやらているんです。元々はちゃんとした職を持っていた者ばかりですよ。よう、サム爺」


 と、憲兵が老人に声を掛けた。


「……おう。見ねえ顔だな。新入りか」

「おう、こいつらの訓練をしてるんだ」


 サム爺と呼ばれた老人は、ウルリカとアンナの顔をまじまじと見る。


「やめとけ、憲兵なんて。お国のために身体を張った結果これだ」


 その老人には片腕がなかった。


「まあ……!」

「おい、サム爺、新入りに何てことを言うんだ」

「お嬢さんは没落貴族か何かかい」

「……ええ。そんなものですわ」

「悪いことは言わねえ。憲兵なんかやめとけ。お国は命になんて報いてくれねぇからよ」

「お察しいたしますわ……」


 憲兵が会話を強引に打ち切る。


「お前ら行くぞ。じゃあな、サム爺」

「おう。憲兵なんてやめとけよ~!」


 サム爺は大声でそう言いつつ、手を振った。


「……すみません。サム爺はいつもあんな感じなんです」

「あの方は元憲兵ですの?」

「はい。俺の元教官です。浮浪者狩りから住民を守って片腕を失ったんです。まあ貧民街の皆は彼に恩があるんで悪いようにはされてないみたいですがね。理由をつけて恩給すら支給されず、国には恨みを持ってるんです」

「お詫びする他ありませんわね」

「……お詫びなんか腹の足しにはなりません。ハンスのように罪を犯すものもいれば、サム爺のように真っ当に生きている者もいます。それだけは覚えていてください」


 しばらく歩くと、比較的身なりの整った母子が、敷物の上に座り込んでいた。


「憲兵さん! 夫は! 夫は見つかりましたか?」


 その母親は憲兵に縋り付く。


「申し訳ない」


 そして、ウルリカに囁いた。


「この二人がハンスの妻子です」


「夫は! 私たちのために! 仕方なくやったんです! 優しい人なんです。どうかご慈悲を」


 ウルリカは膝をつき、ハンスの妻に視線の高さを合わせた。


「……わたくし、この度、新たに着任いたしましたの。事情を伺えますかしら?」


 ウルリカの問いに、ハンスの妻は憲兵から聞いたのと概ね同じ話をした。


「どうしても分からないことがありますの。それは、わたくしが無知故のもので、貴女を責めるわけではありませんわ。職を失って、どうして、すぐに家を失いますの? 貯蓄はないのかしら?」

「……我々平民には貯蓄をする余裕なんてないんです。賃貸の住処なので、お金を払えなくなればすぐに追い出されます。家がなければ、新しい就職先には就職できません。一度路上生活に堕ちれば、絶望するしかありません」


 ハンスの妻は、ウルリカに丁寧な口調で説明した。


「ありがとう。わたくしは無知を恥じますわ」


 ウルリカの言動からすべてを察したのだろう。ハンスの妻は肩を震わせて、すすり泣く。


「……夫はもう帰ってこないのですね」


 ウルリカは、彼女の耳元に囁く。


「わたくしは、ウルリカ・レイクロフト。この国の王太女ですわ。彼は王宮で盗みを働き、勾留されています。彼の刑罰がどうなるかは分かりませんが、楽観はできません。けれど、事情は分かりました。必ず陛下に伝えると御約束いたしますわ。最後の時まで、希望は捨てないでくださいまし」

「……はい」


 こうして、一行は貧民街を出て表通りに戻った。


 気が抜けたのか、近衛兵とアンナはその場にへたり込んだ。


「近衛兵があれでいいんですか?」


 と憲兵は鼻で笑う。


「彼も下級貴族。相当、衝撃的だったのでしょうね」

「リッカ様。いえ、殿下。あなたを見込んでお伝えしたいことがあります」


 憲兵は姿勢を正し、ウルリカに耳打ちした。


「クーデターが近いかもしれません」

「そうね」


 ウルリカは取り乱す様子もなく、ただそう言った。


「ご存知だったのですか」

「察しただけですわ」


 実際に国家憲兵によるクーデターが起きるのは飢饉の後、今から約八年後である。ウルリカは、まさか未来の知識があるとは言えなかったが、この現状を見て、彼らがクーデターを起こすだろうと改めて確信を深めた。


 そして、もう一つ理由がある。


「もしそれが起きたら、わたくしに刃を向けるのは貴方の気がするわ」


 一周目の世界で、最期の瞬間に見たのは、確かに、暴徒の中にいた彼の顔だった。その時彼が制服を着ていなかったということは、クーデターでクビになった後に暴徒になったのだろう。


「俺がそんなこと――」

「貴方は市民想いの良い方とお見受けしましたわ。けれど、それ故に正義心は暴走するものよ。これからわたくしは、貴方が刃を向けずに済むような社会を目指しますわ。冷静に見極めてくださいまし」



 そして、駐屯所で再び服を着替え、一行は王宮へと帰った。

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