責任


 式の後、重い足取りで王太子執務室に入る。


 その部屋は、しばらく誰にも使われていなかったらしく、湿っぽい空気に満ちていた。カーテンを開けると、舞い上がった埃がキラキラと輝く。


 そのカビ臭さに、ウルリカは少し胸をなで下ろす。もし、ウルリク元王太子の匂いを少しでも感じたなら、ウルリカは冷静ではいられなかっただろう。


 椅子の埃を手で払い、そこに腰掛ける。


 その瞬間、ウルリカは重責に押し潰されそうになった。まるで両肩に国の将来がすべてのしかかっているかのように思えた。前王太子は、生まれながらにこの重圧に耐えていたのだろう。その重圧を知ろうとしただろうか。分かち合おうとしただろうか。きっと、婚約破棄はその答えなのだろう。


 王太女の座を拝任したからには、もう甘えは許されない。


「ご就任おめでとうございます。ウルリカ王太女殿下」


 アンナは深々とお辞儀する。


「ありがとう。早速だけれど、アンナ、貴女をわたくしの王女付き女官レディ・イン・ウェイティングに任命するわ」


 少しの間を置いて、アンナは慌てた様子で反論した。


「いけません殿下、私は平民にございます」

「だからこそ、今しかないのよ。わたくしが王太女になることに比べれば、女官の人事なんて些細な問題だわ」

「それでも、私は殿下に忠誠を誓った身。王太女殿下の政治的汚点になることは望みません。この時代の価値観にそぐわない人事は、必ず汚点になります」


 もちろん、ウルリカは知っている。この貴族社会を理想論では生き抜けない。一周目の世界ではレイクロフト家は没落し、最期は暴徒の犠牲となった。その原因は、両親やウルリカ自身の結婚や恋愛への価値観が、貴族社会とは全く相容れないものだったからだ。今なら分かる。平民に身を落として、平民と結ばれる方が幸せだったと。


 けれど、権力者となった今、悪習にただ服するのは任務懈怠にんむけたいである。


「アンナ、わたくしは権力に溺れたくはないの。汚点の一つや二つぐらいあるくらいがちょうど良いわ。それに、支持基盤の全くない今が最初で最後の機会なのよ。お母様……女王陛下も了承済みよ」

「それでも――」


 ウルリカは身を乗り出して、言葉を遮った。


「このオファーを受け取って頂戴。わたくしは貴女の献身を良く知っているわ。合計で十五年になるかしら」

「いいえ、殿下。一部はスキップ進行いたしましたので、殿下にお仕えしたのは実質三年と少しです」

「ふふっ、貴女の若さの秘訣はそれだったのね。けれど、わたくしの体感では、十五年だわ。だからこそ、貴女と少しでも対等な関係に近づきたいのよ」

「……対等、でございますか?」

「ええ。王女付き女官は、ほぼ対等な立場での発言を許されているのは知っているでしょう? もちろん、完全に対等とはいえないけれど、友として、異世界を知る者として、わたくしを導いてくださいまし」

「……そこまで仰っていただいて、お断りするのは不義理でございます。謹んでお受けいたします」


 そう言って跪くアンナは、少し頬を赤らめていた。


 ウルリカは一つだけ確信していた。


 この世界がすべて幻だとしても、アンナとの信頼関係は本物である。そこに物質的な実在性は意味を持たないのだと。


 ウルリカの目論見通り、貴族達は新体制下での自らの地位を守ることに必死であり、アンナの人事が大きく問題となることはなかった。むしろ、女王陛下が先着順で下級貴族に役職を与えていることのほうが、彼らにとってはよほど大きな問題であった。


────


註:


この作品では、設定をシンプルにするため「使用人」を性別を問わない使用人全般の呼称、「メイド」を女性使用人全般の呼称、その中でも身の回りの世話をするメイドを「侍女」、主に特定の個人に仕える侍女を「専属侍女」としています。


スムサーリン王国の一般貴族家庭においては、家政婦長(ハウスキーパー)を除く女性使用人全員が雑役女中(メイド・オブ・オールワークス)であり、侍女や専属侍女も例外ではありません。これは、基本的に王宮においても同様です。


同国における、女王/王女付き女官(レディ・イン・ウェイティング)は官吏(国家公務員)として勤務する公的な付き添い女性です。役割の境界は曖昧ですが、私的な「専属侍女」と明確に異なるのは、公的な行事に表立って同伴することが求められる点です。ステータスとしては主人の少し下程度とみなされており、ほぼ対等な立場で主人に助言することができる唯一の役職です。同国の歴史では親しい友人が就任する例が多いとはいえ、平民が就任した例はありませんでした。

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