虚ろな存在


「――つまり、貴女はこの世界の創造主で、わたくしたちは虚ろな存在なのね」


 ウルリカはティーカップを置いた。その瞬間、カチャカチャと小刻みに音が鳴ったので、自分の手が震えていることに気がついた。


 もしアンナの言葉が正しいのなら、この丁寧に淹れられた紅茶の味も香りも、それを感じた舌や鼻腔も、そしてウルリカ自身でさえも、すべてが幻だという。ウルリカにとって、突然、虚無に投げ込まれたかのような衝撃だった。


 アンナはウルリカの横に立ち、淡々とした口調で補足した。


「一つ訂正すると、私は創造主ではなく開発者です。この世界を形作っている技術は、人類の英知の結晶です」


 それは謙遜なのかしらと顎に手を当てる。この手さえも幻なのだと思うと、ウルリカは気が滅入りそうになった。


「では、貴女には『一周目』の記憶があるのね」

「はい」

「今朝、なぜ今の貴女が『青の髪飾り』のことを知っているのか気になっていたのよ。わたくしは『髪飾り』としか言わなかったのに」

「失礼いたしました。別に隠すつもりもなかったので」

「最期の日、貴女が見えなくなるまでずっと見送ってくれたのをはっきり覚えているわ」


 アンナが目に涙を浮かべる。


「これだけは信じてください。私がお嬢様に誓った忠誠に嘘偽りはありません。あの時も今も」

「それは微塵たりとも疑ってはいないわ。だからこそ、今日、殿下との接触を思わず避けてしまったのよ。殿下への想いを断ち切ることにしたわ」

「……!」


 アンナはそのブラウンの瞳を大きく見開いた。ショートボブの黒髪がふわりと揺れる。


「意外だったかしら」

「それは……予想外でした」

「一瞬、貴女の涙を思い出したからよ。アンナ、貴女には、もう二度と同じ思いをさせないわ。けれど、いくらわたくしに忠誠心があるからといって、王族を追放するのはやり過ぎではなくて?」

「お嬢様。それには少々誤解がございます。まず、あれは開発中の一般ユーザー向け課金誘導機能の案の一つです。あれに間違って触れた者にバーチャルコインを課金するもので、お嬢様のためのものではありません」

「よくわからないけれど、それは詐欺ではありませんの?」

「……反省します。もうしません」


 アンナは、親に叱られた幼児のように、口を尖らせて項垂れる。


「それでも、わたくしが、あの『立太子』に触れたのは事実ですわよ」

「だとしても、お嬢様の責任ではございません。王族の不正は遙か昔から行われておりました。先王は南離宮の建設にお金を使い過ぎたのです。いずれ露見することでございましょう。それに、気安めになるか分かりませんが、実装上、『立太子』と告発に因果関係ございません。あのボタンは、数ある世界線……つまりベースシナリオの中から立太子シナリオに乗り換えて、世界を再構築するだけなのです」


 ウルリカはアンナの言葉を咀嚼するため、少し考え込む。つまり、ウルリカが世界を変えたのではなく、ウルリカの存在が別の世界に移動したということなのだろう。それならば、確かに因果関係はない。


「けれど、寝覚めが悪いわ。元には戻せないのかしら」

「申し訳ございません。立太子のせいで予想以上にデータの一貫性――つまり世界が壊れ、今は修復するので手一杯なのでございます。その上、今は他にもプレイヤー……つまり異世界からの来訪者がおりますので、安易にロールバックもできません」

「そう……仕方ないわね」

「申し訳ございません」


 ウルリカには、それでも一つ懸念点があった。


「殿下はどうなるのかしら」


 一度は心から愛した人である。彼がこれから一週目のウルリカのような仕打ちを受けることを想像し、どうしても心が痛んだ。


「クストランド帝国の東部領に移住し、それなりの待遇で迎え入れられるでしょう。まあ、島を売った裏切り者ですから、政府役職に就くことはあり得ませんが、高望みしなければ安寧がありましょう。少なくとも一周目のレイクロフト家のようにはなりません」

「今日一番の良い話ね。今日は色んな事がありすぎたわ。休ませて頂戴」

「承知いたしました」


 アンナは一礼して、部屋を出て行く。その後ろ姿に問いかけた。


「これから貴女にどう接すれば良いのかしら」

「私はこれまでもこれからも、ウルリカ様に忠誠を誓う、いち侍女。アンナ・フオミネンでございます。どうぞ、いつもどおりに」


 そう言って、アンナはスカートの裾を持ち上げ、丁寧にカーテシーをして見せた。


「……努力するわ」


 ウルリカは、こめかみを撫でながら天を仰いだ。

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