第3話 無力な私
翌日、いつ逃げ出すかわからない私は、妻としての仕事である領政の補佐をさせてもらえず暇を持て余していた。
執務室に入るのを断られた際に見えたユリウス辺境伯は、右半分だけの黒い仮面を付けて傷跡を見えないようにしていた。きっとあれが普段の姿なのだろう。
暇になってしまった私は、とりあえず今後の参考のためにも街の視察へ出掛けることにした。平常通りの街が見たいため、なるべく貴族とわからないような装飾のない質素な紺色のガウンを着て、髪も飾りを付けずに後ろで巻き、白い日傘を差して街に出た。
護衛もおらず、街を見るための馬車もない。たった一人の視察だ。
望まれて婚姻を結びに来たはずなのにーー。
不安と虚しさが押し寄せてくる。自分の存在価値もわからなくなるけれど、今は耐えるしかない。
街は昨日見たときと同じで、やはりドーレン男爵領よりずっと広くて活気があった。商人が簡易の出店を出し、種族様々な住人や旅人が行き交い賑わっている。
しかしところどころに貧富の差も感じられた。
東門の近くを通ると、じろじろと通り行く人に不審に見られることも多く、少し入り込んだ路地の暗がりを覗くと、今度は孤児と目があった。
と思ったら、どこから湧いたか数人の子どもたちに囲まれ、食べ物が欲しいと群がられる。戸惑っているうちに服をまさぐられ、背の高い子どもがジャンプして差していた日傘をもぎ盗っていった。
途端に全員がいなくなった。あっという間の出来事だった。
「あんた、貴族だろ」
呆然としていると、後ろから声を掛けられた。
振り返ると、珍しい南方の商品を扱った出店の主人だった。褐色の肌にこの領では珍しい真っ黒な長い髪を一本の三つ編みにして、濃い凛々しい眉と切れ長の目をしていた。南方の民族衣装を身に纏い、北方のこの領地ではそれだけだと寒いのか厚手のストールを羽織っている。
「初めまして。どうしてわかったのですか?」
「持ってるものが良い。あと姿勢が良すぎる」
南方の商人は笑顔だけれども、何か警戒させるようなニヒルな雰囲気があった。
「何か他にも盗られてるんじゃないか」
言われて服を触りながら、盗られていそうなものを思い浮かべる。鞄を見ると、中から財布が飛び出そうになっていた。日傘を持つ手にずっと掛けていたのに、誰かが手だけでも伸ばしてまさぐったのだろう。ポケットにも手を入れてみるとハンカチが無くなっている。
「盗られてしまってますが、幸いにもハンカチだけでしたわ」
ハンカチとはいえ、たった数秒での手際の良さに感嘆の息が漏れる。
「それは良かった。この辺りは孤児が多い。別の所を通ったほうが良い」
ニヒルな雰囲気は誤解だったかのように、商人は親切だった。
「ありがとうございます。あなたもこの通りは危ないのではないですか」
「あいつらとは仲良しだからな」
親切だと思った商人は、まるでイタズラを隠すようにやはりニヒルに笑った。
「最近アンヌはどうしてるかねえ」
東門から離れて南門へ向かって歩いていく途中、そんな声が聞こえてきた。ここの辺りは農場が多く、ドーレン領のような田舎っぽさを感じる。
「私も旦那が死んでから見てないけど、街で朝から晩まで働いてるって話だよ」
「農場はどうしたのさ」
「牛ごと売ったって話だよ。だって働き手がいないんだから」
「息子がいたでしょ」
「あんなのまだちっちゃくて牛の世話なんかできないよ!」
誰とも知らない農場の柵の際で、ご婦人が2人で話していた。
私は足早に過ぎ去りながらも、小さい息子がいるアンヌのことが気になった。もしかしたらあの裏路地で盗みをしている中に息子がいるかもしれない、と思い返す。前世での仕事柄、事故や病気で夫を亡くした方も多く見た。中には亡くなってはいないが寝たきりになって、奥さんが働きづめになって鬱になってしまった人も見た。
「いっそ、死んでくれてたほうが……」
と虚ろな目で言われたのを覚えている。
なんとなく歩みを街ではなく農場が多くある方面へと向けていく。舗装されてない荒れた道を通ると、粗末な小屋たちが目に入る。とても裕福とは言い難い家々が立ち並んでいる。その脇では牛や山羊が呑気に柵内で草を食んでいた。
「何か御用ですか」
そこへ木桶を持ったエプロン姿の女性に声を掛けられた。白髪の多く生えた髪を後ろで纏めてスカーフを被り、顔は泥なのかシミなのか見分けのつかないものが付いている。目の下には皺とクマが刻まれて一層老けて見えた。
「すみません、最近引っ越してきたもので散歩をしていました」
「あんた、貴族かい?」
また見破られてドキッとしてしまう。特にバレても困ることは無いのだが、見破られてしまうとつい身構えてしまう。
「はい、初めまして。アイリアと申します。よろしくお願い致します」
私はそれでも失礼のないようにスカートの裾を持ち、丁寧に頭を下げる。女性は貴族に丁寧にお辞儀をされたことが無いかのように戸惑い、挨拶とも判断しづらい程度に首を下げた。
「私はアンヌ。別に見ても面白くはないよ」
先程聞こえてきた名前と同じ名前で内心静かに驚く。
「ここはあなたの農場ですか?」
噂を確かめるように自然を装って尋ねる。
「昔はね。旦那が死んでから世話できなくなったから牛ごと売ったのさ」
アンヌは寂しそうに牛たちを眺める。
「でも買った人が知り合いの農家でね。私を気の毒に思ってそのまま農場で働けるように雇ってくれたのさ」
「それは……良かったですね」
「良くはないさ! 安い給料のまま良いように働かされてる。でもまあ、街の仕事だけじゃ足りないし、牛にも愛着があったから良いんだけどね」
すぐに否定したものの、アンヌの目は何かを懐かしむように遠くを見ていた。
「他にもお仕事をされてるんですか?」
「ああ、息子の分も稼がなきゃだから、夜に酒場で給仕をしてるよ」
「農場はあまり高く売れなかったんですか?」
「売れないよぉ! 買う方だって貧乏してるんだもん。牛を死なせないためにタダ同然で渡したようなもんよ」
噂を知ってか知らずか否定するように大きな声を出される。知らなかった現実に言葉が詰まる。
「ほんと、あの人ももっと売れるものを遺してくれてたらねえ」
アンヌの諦めに近い溜め息が耳に残った。
夕方、アンヌと別れた帰り道、私の盗られた日傘を持っている男の子と出会った。粗末な服に似つかわしくないほど汚れなく綺麗で白く刺繍の細かい日傘だった。
「ねぇ、ちょっと……」
つい、確認したくなってその男の子を呼び止めた。6歳くらいだろうか、日傘をもぎ盗るには身長が足りないようにも思える。
「なに?」
男の子は少し警戒するように振り向いた。
「あのね、その日傘どこで買ったのかなって。お姉さんも同じ店に行きたいなって」
私はなるべく警戒を解くように目線を合わせてしゃがみ、日傘を狙っていないこともアピールした。すると、男の子はぱぁっと目を輝かせた。
「あのね、これは兄ちゃんにもらったの!」
「兄ちゃん?」
「兄ちゃんはいつも遊んでる兄ちゃん。本当はこの傘も兄ちゃんの母さんのだったんだけど、兄ちゃんがきっと売れるからあげるってくれたの! でもね、綺麗だからうちの母さんにあげることにしたの!」
男の子はずっと自慢したかったのだろう、うきうきと話してくれた。その兄ちゃんが、日傘をもぎ盗った子どもだろうと察しが付いた。必死に盗った戦利品を年下の子どもに分け与えて、孤児たちはきっと心根は悪い子どもでは無いのだろうと同情心が湧いた。
しかし、今の私にはどうしようもできない。
「そっか。お母さん、喜んでくれると良いね」
無力さに苛まれながら、男の子を見送るので精一杯だった。
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