第二章 危ない誘惑に誘われて
「あら、もう何年も?」
翌日の午後。沙緒里はスーパーでのパートが昼過ぎまでだったので、職場の友人達と喫茶店に来ていた。
「声が大きいわよ」
そうたしなめるのは古橋
一方の古橋はまだ三十一と二人よりやや若いが、それでももう三年以上一緒に仕事をしていて気が合ったので、よくこうやってパート上がりにお茶などをしていた。彼女はどちらかというと引っ込み思案で最初は人見知りするのだが、一度打ち解けると意外と明るい。髪はストレートで背中まで届くロング。少しブリーチをかけているのか、それとも生来のものかやや明るい色をして、それが年相応に似合っている。切れ長の目に小さな鼻、小ぶりの口と上品な顔立ちをしている。
沙緒里はこの場で夫にここしばらく夜の夫婦生活を断られ続けていることを打ち明けたのだ。二人にはそういったことも相談できるほど信頼している。
「でもそれだと、結構溜まってるんじゃない?」
武村が幾分声を抑えて沙緒里に聞いてくる。
「それは、まあ」
昨日のことを思い出して沙緒里はうつむいて小さな声で答えた。顔は火照っていないだろうか。
「でも御厨さんもそのルックスで女を諦めるのはまだ早いと思うなあ」
そういう古橋のプロポーションは、二人に比べると幾分見劣りはする。ややメリハリに乏しく、バストも控えめなのだ。そのため彼女は二人に対して憧れのような感情を持っている。
「それなら、こういうのやってみたら?」
武村がバッグからスマホを取り出すと、何やら操作して沙緒里に見せた。横から古橋ものぞき込む。
「え、これって……」
画面に表示されていたのは何枚もの男性の顔写真と簡単な自己紹介のような短い文章。つまりマッチングアプリだ。
「もちろん褒められたことではないけど、風俗に行くようなものと割り切ってしまえば案外いいものよ」
「まさか武村さん……」
「たまによ。たまに」
そう言ってまるでいたずらっ子のようにはにかむ。
「もう旦那もいい歳だし、家の中だとたとえそれが夜でも、いろいろと、ねえ? その点、若い子は元気だし、ホテルなら音も声も気にすることないから」
「あの、実は」
おずおずと古川がスマホを取り出して画面を沙緒里に見せてきた。
「……ウソ」
そこには武村のと同じ画面が表示されている。おとなしそうな古川がこんなことをしているとは沙緒里にとっては衝撃だった。
「だって古川さん、あなたまだ結婚して……」
「そういうのって関係ないのよ」
武村が割って入る。
「新婚だろうがなんだろうが、結婚したら旦那としかデキなくなるのって、我慢できる人はできるんでしょうけど、そうはいかない人もいるってことよ」
「深入りはしないわ。相手の本名も素性も知らないし、こっちも教えない。その日限りの関係よ」
あの古川が熱弁することに沙緒里は圧倒される。
「いろんな人と経験するとね、知らなかったことがいっぱい経験できるの。あたし、これで本当のオンナの歓びを知った気がするの」
衝撃だった。そもそもこんな話に発展するとは思ってなかったし、それ以前に二人がそんなことをしているとは沙緒里には全くの想像外だった。
でも、興味はある。彼女は学生時代に夫と知り合ったせいか、彼以外の男性をまったく知らずに今まで来た。そういうものだと思っていたのだが、違う世界は案外身近にあるようだ。
「な、なんてアプリ……?」
「あ! それならね」
武村が嬉々として自分のスマホを操作して画面を沙緒里に示す。
「これ! ここならそんなに怪しいヤツもいないし安心よ。古川さんもこれ使ってるの」
古川はうれしそうな顔でうなずいている。
「……やってみようかしら」
そう言いながら沙緒里はアプリをダウンロードする。あっさりインストールできてアプリを立ち上げ、登録を進めると写真を求められた。
「あ、写真はね、結構大事よ。あんまりはっきり顔がわかるのは危ないけど、雰囲気はしっかりわかるものでないと向こうも選んでくるから」
そう言ってからちょっと微笑む。
「ま、そうは言ってもアタシのはちょっとイジってるんだけどね」
加工しているということだ。まあ三十代後半というだけでもハンデだろうからそこは駆け引きというか、そのくらいはしなければならないんだろう。とはいえ、沙緒里にはそんな技術もない。
「御厨さんなら、そのままで十分じゃない?」
そうねえと武村も沙緒里の顔をまじまじと見て呟く。今さらそんなふうに見られて沙緒里はドキドキしてしまい、スマホに目を落とす。実際彼女は年齢の割にはかなり若く見える。子持ちとはとても思えないほどだ。
「でも目元を隠すくらいはやっといたほうがいいわよね」
ネットでは写真は何に悪用されるかわからない。特に女性の写真は注意しなければならないことも踏まえると当然の意見だ。
「写真、どうする? いいのある?」
武村がコーヒーをすすりながら尋ねた。沙緒里は自分単独の写真などずいぶん撮っていないから心当たりはない。
「じゃあ今撮っちゃおう」
え? 今? 沙緒里が目を白黒させている間に話はどんどん進み、持っていた道具から化粧をちょっと直し、ヘアブラシで軽く髪を整えるとポーズまで指示され、あれよあれよという間に数枚の写真が撮影されてしまった。どの写真も手などで目元や顔の上半分を隠しており、個人の特定は難しいものの、雰囲気は伝わるものとなっている。沙緒里は二人の技術に驚いた。
そのままさらに登録を進め、最後に身分証明に免許証の写真を送って確認を待つだけにまでになった。
「あとは確認できたらメールが来るから、それから掲示板に書くか、直接いい人を探してメッセージ送るかすればいいわ」
「あ、ありがとう……」
終始圧倒されっぱなしだった気もするが、ともかくこれで登録は済んだ。
しかし、本当にこれでよかったんだろうか。沙緒里はかすかな罪悪感を感じていた。
その日、自宅に帰った沙緒里はリビングで一人スマホを見つめていた。メールを待っていたわけではない。罪悪感に苛まれていたのだ。
あの場は二人の雰囲気に飲まれてアプリに登録してしまったが、やはりこれはよくないことだという思いが時間を経過するごとに増していく。まだ登録されていないとはいえ、使えばそれはほぼ不貞行為なのだ。それなつまり夫や娘を裏切る行為でもある。
だけど。
彼女はアプリを開いてトップ画面を見る。そこにはさっそく若い男の子達が爽やかな笑顔をこちらに向けてくれていた。中には結構体格のいい力強そうな人もいる。
こんな人に抱かれたらどんな気分なんだろう。
そこではっと我に返る。今、自分は何を考えていたの? 二人に毒された?
そうではない。沙緒里にはわかっている。ここ最近、夫と夜の関係がなく、その前もずいぶん淡泊で彼女は満足できていなかった。人一倍性欲が強いことは自覚しているのに、事実上の学生結婚をしてしまったせいでまったく夫以外の男性を知らないまま今まで来てしまった。それを後悔はしていないが、やはりオンナとしての歓びを感じてみたいとは思う。
沙緒里は募集の掲示板を開いてみる。そこはさらに細分化されており、『今日会いたい』や『明日以降に会いたい』、『ミドル・シニア』、『アブノーマル』などいろいろある中の一つに彼女の目は吸い付いた。
『既婚者』そこにはそう書いてある。衝撃だった。武村や古川の話からそういう人がいるだろうとは思っていたが、まさか一ジャンルを形成するほどいるとまでは思っていなかった。
恐る恐るその掲示板を開いてみる。意外にもそこに乗っているのは若い男性ばかりだった。募集内容を読んでみると年上の女性が好みなのでここに書き込んでいる人もいるようだが、ほぼ全員が結婚しているか、相手に既婚者であることを求めているようだ。
一人の男性の募集を見てみようと画面をタップする。一覧ではアイコンになっていた写真が少し見やすいサイズで画面に現われた。しかしそれは鼻から下で口元は笑いの形になっている。個人はわからないが雰囲気は伝わってくる。
こういうことか。沙緒里は自分の写真の時のことを思い出して納得した。当たり障りのない、けど毒にも薬にもならに程度の個人情報だけでのやりとり。もちろん調べようと思えば調べられるのだろうけど、表面上は安全性が保たれた環境で出会いを探す。今はそういう時代なのかとふと年寄りじみた考えになってしまう。
次の書き込みを見てみる。今度は正面からで顔全体が写っている。しかしその目元はフェイスマークで隠されていた。しかし髪型や顔全体の輪郭はわかる。ここまでだと知っている人なら誰だかわかるのではないだろうか。他人事ながら沙緒里は心配になってきて思い出す。本来こういう場はあくまで単純に出会いを求めて利用する場なのだ。彼女のように後ろめたい気持ちで利用する方が本来間違った使い方であって、この青年がそういうつもりでなければ何ら問題はない。
別の書き込みを見た。
「あ」
思わず声が出る。
写真にきちんと顔が写っていたのだ。名前もフルネームで書かれている。シルバーの細リムの眼鏡をかけたこの青年は狩谷
もちろんこれらの情報は本当かどうかは疑わしい。特に年齢や職業は当てにならないが、後者はともかく年齢は顔を見る限りそう大きくは違っていないだろうと思えた。
それより沙緒里の目を引いたのはその顔だった。ぱっと見は真面目そうなのだが、その目つきはどこか野性味があって危険な感じがする。夫の玲一とはまったく違うタイプに彼女は惹きつけられた。
ピロン。
その時メールが届いた。沙緒里の身分証明書の確認が終わったのだ。
彼女はそのメールに背中を押されたような気がした。
マッチングアプリの画面に戻ると、先ほどの狩谷の募集にメッセージを送る。武村から聞いていた。まずはお茶かせいぜいランチぐらいで相手がどういう人物か確認した方がいい。今回はお茶でも一緒にと誘う文言を書く。
かすかに躊躇いを見せたのちにメッセージ送信のボタンをタップした。
その日も朝から天気がよかった。まだ夏の名残を思わせる強い日差しが降り注ぐ中、沙緒里は駅から一歩外へと踏み出した。
「暑……」
思わず呟いて片手で日差しを遮る。駅前の歩道を歩いて待ち合わせ場所の広場へと向かった。
今日は初めてマッチングアプリで知り合った狩谷と会う。週末だと夫の目があるのでなかなか出かけにくいのだが、幸いにも狩谷は平日に時間と取ってくれた。まずは今日はお互いに顔合わせ程度にお茶でもということで沙緒里も少し気が楽だというのもある。武村や古橋の話では会ったその日にそのままホテルへ行くこともよくあるそうだが、さすがに沙緒里にそこまでの度胸はなかった。
時間にはまだ少しあるなと歩きながら考えていたが、待ち合わせに指定していたバスの行き先案内板の前には、すでに若い男性が立っていた。言うまでもなく狩谷だ。
「あの、狩谷さんですか?」
「え、あ、御厨さん? いや、早いですね。まだ待ち合わせにはなってないと思うけど」
そう答える狩谷は写真より若く見えた。人懐っこい笑顔にやや垂れ目気味の目が眼鏡越しに見える。沙緒里より頭一つくらいは背も高いだろうか。
「こう暑いとお待たせしたら大変ですし」
「確かに暑いですよね。もう九月も終わりだっていうのに。ここで話してるのもなんですし、喫茶店でも入りませんか」
そう言って二人は近くの喫茶店に向かった。近くといっても駅前のメジャーなチェーン店ではなく、ちょっと奥まったところにある落ち着いた雰囲気の純喫茶だ。
「こういうところ、よくご存知なんですね」
「いや、打ち合わせなんかでね。チェーン店でもいいんだけど、たいていは賑やか過ぎて」
二人は店の一番奥の席に座った。ここだと日差しも入らず空調がよく効いて涼しい。狩谷はアイスコーヒーを、沙緒里はレモンティーを注文する。
「でもちょっと驚きましたよ。御厨さんがこんなに若くて」
「嫌だ。もうおばさんよ」
「そんなことないですって。ご主人がうらやましいなあ」
その狩谷の言葉に沙緒里の胸はわずかに痛んだ。だが彼の言葉はここしばらく忘れかけていた沙緒里の渇いた心を潤すかのように染み込んでくる。
「あのアプリに書いてあった年齢って本当ですか。とてもそうは見えない」
沙緒里は顔が火照ってくるのがわかった。容姿を褒められることは同性からはあったが、こんな若い男性から言われることはなく、それがこんなに恥ずかしくもうれしいものだと初めて知り、彼女自身も新鮮な感覚だった。
「おばさんをからかわないで。狩谷さんより十も上なのよ」
「とてもそんなふうには見えませんよ。肌なんて今時の若い子よりキレイだし、顔だってちょっとしたモデル並みだと思いますよ」
「やだ……」
沙緒里はテーブルの上に出していた手をそっと膝の上に移す。そのタイミングで注文していた飲み物が運ばれてきた。しばらく会話が途切れる。
「御厨さんって、もしかしてこういうのは初めて?」
「え?」
狩谷はアイスコーヒーのグラスにミルクを注ぐとストローで混ぜながら言う。
「いや、反応がいちいちかわいいなって思って。こういう会話に慣れてないんじゃないかなって」
そう言って優しく笑う。
「そんなに緊張する必要ありませんよ。僕だって初対面の、それも結婚されてる女性にどうこうしようとは思ってませんから」
狩谷は少し身を乗り出すとやや声を抑えて続ける。
「御厨さんとは、これからもお付き合いしたいなとは思ってます」
「!」
思わずカップを持つ手が止まる。一瞬のことで理解が追いつかないが、それより早く頬が火照ってくるもがわかった。
そんな沙緒里を見る狩谷の目つきが一時変わったのだが、彼女はそこまでは気がつかない。
それからしばらくは他愛ない話が続いた。普段は何をしているのか。好きな食べ物は。最近見た映画は。
半時間ほどしゃべっただろうか。時にユーモアを交えてこちらの話もちゃんと聞いてくれる狩谷に沙緒里もすっかり気を許すようになっていた。
「もうちょっと御厨さんと話がしたいから、場所を変えませんか」
テーブルの上に出していた手に狩谷の手が重なる。沙緒里のそれより大きくて暖かいその感触に彼女は男を感じてしまう。
飲み物はすでに空になっていた。
二人は連れ立って喫茶店をあとにすると、ゆっくりと駅から離れる方へと歩き始めた。
「無理にとは言いませんが、御厨さん、いや沙緒里さんのことが知りたい。二人っきりになれる場所へ行きませんか」
「それって……」
沙緒里が顔を上げると、一見するとお洒落な、しかし入り口がややわかりにくい建物があった。
「ここは」
その時、狩谷が沙緒里の肩を抱いてきた。
「僕のことも知ってほしいし、何より沙緒里さんをもっと見ていたいんだ」
耳元で囁かれ、沙緒里の頭は霞がかかったように考えられなくなった。
彼女は狩谷に導かれるままにそのラブホテルへと入っていく。
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人妻の危険な遊戯 龍牙 襄 @ryugajoe
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