第2話 離別
一度寝てしまえば朝は存外すぐに訪れてしまう。意識が無い状態だとこちらは時間が経過しているのを認識できない。時間は卑怯だ。生憎太陽は既に昇ってしまっているが、今までと比べると善戦したといっていいだろう。
「おや、お嬢様。今朝は随分と早起きなのですね。今まではずっと布団を引っぺがされるまで嫌でも起きようとしませんでしたのに」
ラクーシャが感心したように言うが、私には残念なことに皮肉にしか聞こえない。心の何と貧相なことか。ラクーシャは私にそう一言告げると、こちらのことなど最初から存在しなかったかのように扱っているのに、私はベッドに腰掛けて頬を膨らませている。私はどう考えても貴族に向いていない。
「今日は朝食を摂り次第、執務室に来るようにとリーベルト様から伝言を授かっております」
「昨日お父様から直接聞きました」
ラクーシャはその後一言も言葉を発しなかった。少し八つ当たりが過ぎただろうか。ここ数日で私の悪いところがひたすら明るみになっている。自分で自分を叱りつけてしまいたい。
朝食はパンと芋。質素だとは思いませんか?お父様曰く、『没落したときに口に合わなかったら致命的だぞ?』らしいです。私は芋が質素で平民が口にするものだと言いたいわけではないんです。もっとバリエーションが欲しいんです。
芋を優雅に胃へ流し込んで今日の朝食を終える。…この組み合わせ、食事の最中は退屈ですがやけに腹持ちがいいんですよね。そのおかげで昼の間食がなくなってこの体系を維持することが出来ているんですけど。
廊下を歩く。昨日とは違い、ラクーシャが私の一歩後ろを歩きながら。やっぱり怒ってるよね?後ろから注がれる視線にはどう考えても私怨が混ざっている。
「姫様、昨日のような粗相を犯しませんように」
「はひ…」
ラクーシャが扉を四回叩く。少し待って返事が無いことを確認すると、ドアノブに手をかけて扉を開ける。
空気が廊下に向かって流れてきた。暖房が付いているようだ。確かに、今日はまだ九月だというのに肌寒い。暖房を一度つけてしまえばもう、戻れないだろう。
「ご苦労。ラクーシャは下がれ」
ラクーシャは一礼すると扉を閉める。室内には私とお父様の他に、軍服に身を包んでいるまさに青年将校という言葉が似合う青年が身を固くしながら座っていた。
お父様に視線を合わせると、どうやら私も座っていいらしい。お言葉に甘えて青年将校さんの反対側に座る。視線が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
書類がきりの良いところまで終わったのか、お父様が執務机から立ち上がり私の横に座る。これが小説で読んだ面談というものなのだろうか。すこし口角が上がってしまうが、すぐにお父様に凄まれたので咄嗟に表情筋に力を入れる。
「ロンター、こいつが件のアレクトだ」
「リーベルト様、まずはご挨拶を…」
「やめろ。こんなところまで礼儀作法を気にしていたら身がもたない」
「ですが…」
青年将校さんが私とお父様を交互に見ながら申し訳なさそうに言う。まあ、急にお貴族様と一対一になってしまってはまともな思考ができなくなっても仕方がない。
「あんまり強張るな、ロンター。ここには作法を叱るようなしつこい奴はいない。こいつも一応貴族の端くれだが、私の血を濃く継いだようでそういう堅苦しいことには興味がないらしい」
「ちょっと、実の娘を『これ』呼びはどうなんですか?」
私が勢いよくお父様を小突くと、ロンターは「ふふっ」と声を出してにこやかに笑った。
「お父様、ロンターさんはかなり度胸のある方なのですね」
「ほぅ、ヤツを気にいるのか」
「はい!私、ロンターさんのような人がいるなら安心できそうです」
貴族だからといって無条件で恐縮するわけでもなく、言いたいことはきちんと言い、そして貴族の会話を遮る度胸もある。私、こういう人が好きです。恋愛的な意味ではなく。
「だ、そうだが?」
お父様は愉快そうにロンターへ視界を戻した。ロンターはすっかり萎縮してしまったようで、縮こまってプルプルと小刻みに震えている。お労しや。
◆
どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、よくよく考えてみたら最初から計画通りだったのだろう。十数年前の部下すら必要になれば使って見せるリーベルト様には一周回って感服してしまう。
おっと、そんなことに時間を使っている暇などなかった。
「そう命じられるのでしたら、軍人として断る訳にはいきません」
リーベルト様の顔を見てはっきりと言い切ってみせる。ここで返事を渋るようでは出世街道など歩くことはできない。困惑もできるだけ顔には出さずに、全てが終わった後酒と一緒に吐き出す。それが厳しい社会を生きる自分なりの術だ。
「だそうだ。よかったじゃないか」
「ええ、とっても」
「…私はカデークまでの護衛をすればよろしいのですね?」
認識の共有は大切だ。ほんっとに大切だ。これを怠ると大抵ろくなことにならない。それは、たとえ畏れ多い上司に対しても変わらない。これしきの緊張、重大なミスをして人生が終わってしまうことと比べたら些細なものだ。…はぁ
「それで構わん。レーリッヒのところまで送ってくれれば、お前の役目は終わりだ」
お前の役目は終わりなどと、一見物騒な言葉が聞こえてきたが、これにはリーベルト様の口下手なりに労いの意味が込められていたりする。
「今日は車か?」
「はい。エラストラスフルトからの帰りで」
「よろしい。今日、セリナから列車が出る。そこからランカラ経由でカデークだ。困ったら私の名前を使って構わない」
リーベルト様の声色が少し優しくなった気がした。
◆
ロンターが席を立ち上がると、部屋から手際よく出ていっていってしまった。けれどまだ、私はだめらしい。お父様は私の隣を離れると窓の方を見ながら、まるで独り言を話すかの口調で再び喋り始めた。
「昨日は言い忘れたが、お前の軍役は新大陸からの撤退が終わった後、解かれる予定だ。上手く事が運べば一か月もかかることはないだろう。だが、軍というのは男性社会だ。これまでに貴族の女性が形式的に指揮官の地位に就いたことは何度かあるが、やはり女性の立場というのは弱い。そこでだ。お前にはこれを持って行ってもらおうと思う」
お父様がそう言うと、ロインが机に一振りの剣を置いた。一対一での決闘の機会が無くなった現代では剣は人間を傷つけるための道具としての役割は終わり、自身の富を示すための装飾品としての役割が強くなった。けれど、机に置かれているこの剣は鍔の部分に僅かな彫刻が施されているのみで、今の流行りを思うとどうしても質素に見えてしまう。
「我々リーベ家は五大貴族の一角に数えられていることは知っているな?」
「リーベ、オルクレイヴェル、ラ=ハルバトラ、グテラス、ヘレルグウライナの五つの家のことを指しているのですよね?」
お父様は窓から外の風景を眺めるのを止め、執務机に座ると腕を組む。
「そうだ。そして、今はあまり使われなくなったが、原初の五大貴族というものもある。オリューク、カシュル、リーベ、レヴィーエルベ、ヘルラトゴテラスフルトの五つだ」
「初めて聞きました。オリューク、カシュル、リーベ…リーベ!?」
私の反応にお父様はニヤリと笑う。私の心の何もかもが見透かされているようで、悔しい。けれど、お父様の人生はそんなことをしなければならないほど苦難の道のりだったのだろう。それは日々の言葉を通して、私にもひしひしと伝わってきたから。
「そうだ。つまり、リーベ家は帝国成立当初から皇帝に対して変わらず忠誠を誓い続けている。それと、建国神話に五にまつわる単語があるだろう?」
「…あ、剣神アルテーヌが創り出した剣のヤツですよね。確か名前は…」
「原初の五剣だ。馬鹿、覚えておけ」
やっぱり暗記は苦手だ。建国神話を最後に読んだのはいつだろうか。私がまだ10にも満たない年齢のときだったと思う。
「ということはつまり…?」
「そうだ、これが原初の五剣の内の一振り目。ケトゥーヴァだ」
建国神話の内容を頑張って思い出してみたが、剣神アルテーヌが五本の剣を作ったのは四千年前のはずだ。到底、この目の前に置かれている剣がその五本の剣の一つとは考えにくい。あまりにも手入れが整いすぎている。流石にお父様の言葉でもこれが四千年前に作られものとは信じられない。
「その剣を持つということは、リーベ家の次期当主となる意思表明にもなる。こんな家に婿に来たがる家はおそらくないだろうから、時期が来たらグテラスから余ったのを婿に貰えばいい」
「私ってリーベ家の後継ぎなんですか?」
「なにを今更。ネスィールはお前を生んでこの世を去った。それに私は新しく嫁を迎えるつもりはない。ならばこの家を継げる者はお前しかいないに決まっているだろう?」
私はどうやらうっかりしていたようだ。そうなれば、私は必ず生き帰ってこなければいけないではないか。どうやら、知らないうちに私の命には大きな責任を背負っていたらしい。
「最後に。適性があるからといって決して無茶な真似はするなよ?」
「もちろんです。でも、お父様はもう少し別れを惜しんでくれてもいいとも思うんです」
「ふん。どうせしばらくすれば、いつも通り家に戻ってくるんだ。心配するだけ無駄だ」
なんと楽観的な思考なことか。けれど、まあ、私もそう思う。
─────────
「ラクーシャ、わざわざお見送りご苦労様です。貴方も忙しいでしょうからもう戻って結構ですよ」
「お嬢様の見送りに誰もいないというわけにもいきませんし、何より私も最後に一度、アレクト様のお顔を拝見しようかと思っておりましたが、迷惑でしたでしょうか」
そう言って下がろうとするラクーシャを、自分の贖罪の意を込めて手を握って引き留める。ラクーシャは引き留めてくれたことがうれしかったのか、少し口角が上がっていた。
「迷惑なんてそんなことありませんよ。とてもうれしいです。お父様とは会えなくてもいいですけど、ラクーシャと会えなくなるのは寂しいですもの」
私が皮肉交じりにラクーシャを褒めると、ラクーシャはそれを知ってかころころ笑う。やはり私よりも貴族らしいのではないだろうか。メイド服ではなくきちんとした服を着れば貴族社会でもやっていけただろうに。
「ご主人様もお嬢様のことを心配なさっているのですよ。お嬢様が不当な扱いを受けることがないようにずっと、ずっと、裏で方々手を回しておりました。しかも、お嬢様はネスィール様が残していった唯一の宝なのですから、手放さなければいけないのはお辛いものです。心配させないためにもあまりお嬢様の前ではそのような素振りは見せませんが」
「ええ、わかっていますよ。少しからかってみただけです。男手一つで私を育ててくれたのですから、それだけでも十分愛情は感じ取れていますから」
「アレクト様、そろそろお時間です」
ロンターが後ろから声をかけてきた。ついにこの館としばらくのお別れになる。私は必ず帰ってきてみせる。そう心の中で誓い車に乗る。私が乗ると車はすぐに動き出し、館はだんだんと小さくなってゆく。
産業革命の産物に揺られながらナイゼ川沿いを進む。しばらくすると景色はだんだん故郷のものとは異なるものになってきた。胸の奥にざわめく気持ちを決して表に出さないようにして、私はトラキスタンとオリビア海を隔てる雄大なヤーヴェリア山脈をひたすら眺め続けた。
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