第10話 五夜目*悲しみのキス



「なんで私を押し倒してるの……静之くん?」



その問いに、しばらく時間をかけて。静之くんは、やっと口を開いた。



「それは……こっちのセリフだ。どういうことだよ、朱音」

「どういうことって、何が……?」

「”最後だから”って。どういうことだよ」



学校からの帰り道。たまたま出会った静之くんとの、秘密の会話。その去り際に言った言葉が、きちんと届いていた――その事に、心のどこかで安堵を覚えた私がいた。息を吐きながら「そのまんまの意味」と答える。



「付き合うのが最後。彼氏彼女でいるのも最後。こうやって夢の中で会うのも……最後、にしたい」



最後の事は自分の意志でどうにか出来そうにないから、小声になる。だけど静之くんにとってはどうでもいいようで。尚も怒ったような表情を浮かべながら、「ハッ」と失笑を漏らす。



「俺に枝垂坂を押し付けて、お前は沼田と引っ付いて。それで無事にハッピーエンドってわけか?」

「は?何言って、」


「幸せそうな顔してたもんな、朱音。沼田と帰ってる時」

「!?」



幸せそうな顔……?私が、静之くんへの想いを噛み締めていたあの時……?



「……バカに、しないで」



沼田くんへの想いじゃない。あの時抱いていた気持ちは、あなたにこそ、分かってほしかった。私の全てなのに。



「教室で私を助けなかったのは静之くんでしょ?私より枝垂坂さんが良いから、あっちの味方をしたんでしょ?なのに”押し付ける”ってなに?自分の足で、枝垂坂さんの方に歩いて行ったのは……静之くんの方でしょ!?それに沼田くんは、そんなんじゃない。沼田くんに、失礼な言い方……しないでよ」

「!」



怒った気持ちと、悲しい気持ちと、切ない気持ちと。もうグチャグチャで、何が私の本当の気持ちなのか、分からない。ただ、静之くんには分かってほしかった。私の気持ちを。



「(あぁ、上手くいかないなぁ……)」



自分の気持ちを伝えて、それで終わりにしようって。そう思ってただけなのに。「ごめんな、ありがとう」って、そう言ってもらえたら、私はそれだけで満足だったのに。



「(どうしてなの……?)」



どうして、こうも上手くいかないんだろう。二人共、喋れる口があるのに。言葉を交わせるのに……。どうして理解し合えないのかな。


脱力して、抵抗していた手をダランと床へ投げる。静之くんは、まだ私から降りる気はないようで、尚も私を組み敷いていた。



「……沼田と付き合ってんのかよ?」

「だから、付き合ってない」


「じゃあ、俺とは?」

「え……」



変な質問だった。静之くんが、何を考えているか、全く分からない。けど、いい機会だ。私の気持ちを、伝えよう――



「静之くんとは付き合ってる。今は。だけど、今日で終わり。私たちの関係は、ここまで」

「!!」



言い終わった瞬間。静之くんがカッと目を開いて、私に顔を近づける。そして何の躊躇もなく。静之くんの唇で、私の唇を塞いだ。いつか、明るい外でしたような、激しいキスだ。息も忘れ、何かを考える事も、忘れていく。


その行動が。まるで静之くんが、私に何かを忘れてほしそうに思えた。だけど私は、その「何か」をくみ取る事は出来ない。



「やめ、てっ」

「嫌だ、やめない」

「……っ!」



静之くん、今、あなたは喋れるでしょ?

じゃあ喋ってよ。

今、私にキスをしている理由を、あなたの口から聞かせてよ。



「俺はお前が、嫌いだ。俺の事、何も分かってないくせに」



そう言いながら――私の頭を撫でながら、指をからませながら。まるで愛しい恋人にするように、静之くんは私にキスをし続けた。何度も唇を優しくなでられ、何度も愛おしそうな瞳で見つめられ。私の頭は、時間が経過するごとに。混乱と、快楽に落ちていく。



「(嫌いって言っておいて。なんでそんな悲しそうな顔で、こんなキスするの……っ)」



静之くん。私、あなたが好きだよ。そして、大嫌い。もう終わる恋って分かっているのに。私の中で、静之くんへの好きを加速させるあなたが、大嫌いだ。



「う、ぅ~……っ」

「! ……悪い、やり過ぎた」

「ひっ、ぅ……っ」



パっと。私に弾かれるように、静之くんは私から退けた。そして、息も心も苦しくて泣いてしまった私の背中に、ジワジワと手を回す。そして抱き上げて、抱きしめる。静之くんは、自分の腕の中にスッポリと私を納めた。そして尚も優しい手つきで、私の髪を撫でる。上から、下へ。何度も、何度も。



「(好き。嫌い。でも……やっぱり好き)」



例えあなたが枝垂坂さんの事を好きでも。それでもいい。私を虜にする静之くんが。何考えているか分からない静之くんが。そして、私を変えてくれた静之くんが――私は、やっぱり大好き。



「なんでかなぁ」



その瞬間、静之くんが呟いた。まるで独り言のような口ぶりだった。



「夢の中でなら、俺の思う通りになるって。そう思ってたのに。なんで上手くいかねーんだろうな」

「……欲深いから?」

「ふ、確かに」



聞こえないような声で言ったつもりだけど。密着している今は、お互いの心臓の音までも、クリアに聞こえていた。



「朱音の心臓、うるせぇ」

「静之くんこそ。私を襲っておきながら、こんなに心臓バクバクさせちゃって。情けなー」


「うるせぇ。また襲うぞ」

「(フルフル)」



お互い、顔は見えない。けど、きっとお互いが笑った気がする。いつもの、夢の中の私たちに戻った気がした。静之くんも、そう思ったのか。普通に話を始める。口にする話題は、学校の事だ。



「お前、なんで言われるがままになってんの。クラスの皆に。めちゃくちゃ悪い噂たってんぞ」

「そっちこそ。枝垂坂さんに言われっぱなしになってるんじゃない?」


「話をすり替えるな。俺のせいでお前が孤立してると、気分悪ぃんだよ」

「……放っといて」



別に静之くんのせいじゃない。分かっている。私が皆に弁解を求めないのが悪いんだ。どうせ言っても信じてもらえないから、言わないだけ。最初から諦めている私のせい。だから、静之くんのせいじゃない。絶対に。



「もうさ、気にしなければいいじゃん。私も、気にしてないし。学校では見ないで。私のこと」

「彼女のする発言じゃねーな」


「うん。いいんだ。だって、もう”彼女役”も終わりだから」

「……」



静之くんは、それから何も言わなくなった。しばらく考える素振りをして、何か言うのかと思いきや。何も言わなかった。ただギュッと、私を抱きしめる力を強くしただけ。それだけ。


なのに――



「(泣くな、私。泣くな……っ)」



静之くんを、もうこんなに身近に感じる事はないのかと思うと、涙が出てくる。これで最後。今日で最後。そう思うと、涙が溢れて止まらない。



「(好きだよ、静之くん。本当に短い間だったけど、支えてくれてありがとう)」



ダメだ。こんな事、とてもじゃないけど、直接言えそうにない。直接、伝えられない。口にしただけで、泣き崩れてしまう。まだ静之くんの彼女でいたいって、叫んでしまう。私を選んでって、縋りついてしまう。



「(それは、ダメ)」



静之くんを困らせたくない。だから――何も言わず、この恋の幕を閉じよう。そう、心に決めた。その時だった。何の脈絡もなく、静之くんは、こんな事を口にする。



「なぁ、名前で呼んで」

「へ?」


「俺の名前。まさか知らねーとか?」

「し、知ってるよ!緋色、でしょ?静之緋色」


「……ん、そう」



嬉しそうに、ふわりと笑った、その顔が。私の脳裏に焼き付いた。


緋色くん。緋色、緋色――

最初で最後の、名前呼び。

今日だけ。今夜限り。

限定的な、私たちの関係。



「緋色くん」

「ん、なに」


「緋色ー」

「だから、なんだよ」



はは、と笑う私たちの声。今日は出番がなさそうな寝室にまで、虚しく響いている。



「なぁ、緋色って何色だと思う?」

「んー。灰色?緋色がそんなイメージだから」

「お前は、俺をどんなダークな奴だと思ってんだよ」



「ごめんごめん」と軽く謝る私に、緋色はため息交じりに呟いた。



「赤だよ、お前と同じ」

「私と、同じ?」


「朱音の朱は、朱色(しゅいろ)の朱だろ。俺と同じ、赤だ」

「そっか……緋色と同じか」


「微妙に違うけどな。まあ大体は、一緒ってことだよ」



少し、嬉しくなった。まさか共通点があるなんて。だけど、緋色は「けど、おかしーなぁ」と自嘲めいて笑う。



「昔から”朱に交われば赤くなる”ってことわざがあんのに。俺ら、混ざんねぇな」

「……」


「混じらなかったな。なんでだろうな」

「……そうだね」



それだけ返すのが、精一杯だった。


朱に交われば赤くなる――


白い画用紙に、赤い絵の具を垂らすと赤く染まっていくように。人は、周りの人や環境から影響を受けやすい、ということを意味する、昔からあることわざだ。


簡単に言うと「付き合う人によって、自分が良くも悪くもなる」ということ。



「俺、お前と関わって、どうなった?」

「え」


「俺、少しはお前みたいに変われたかなーって。なんてな」

「(そんなの……)」



変わったのは、私の方だ。



「緋色は、私を変えてくれたよ。良い方に。すっごく、良い方に」

「そんなにかよ」


「そんなに、だよ。いつも逃げたばかりいた私が、逃げなかった。枝垂坂さんからも、教室からも。緋色からは、私に無かった強さを、教えてもらった」

「逃げる、か……。でも、それはある意味、朱音の特技だろ」


「へ、特技?」



緋色は、私を胸からソッと離す。私を見る目は、とても優しかった。



「人は誰でも逃げれない。逃げるにも、すげー勇気がいるんだ」

「そう、なのかな……」


「そーだよ。むしろ”立ち向かうのが正しい”って事の方が少ねぇ。嫌な物からは、目を背けちまえばいーんだよ」

「(そう言えば、沼田くんも言ってたなぁ)」



教室で、私を噂する皆を、私が見ていた時。気分が悪くなるなら皆を見なければいいと、確か沼田くんはそう言ってくれた。確かに。その通りだ。



「(時には逃げる事も必要、か。私の逃げ癖は、全てが悪い事じゃなかったんだな)」



少しだけ、自分に自信が持てた。反対に、緋色の事が気になった。さっき話す時。私のことを、羨んでいるような口ぶりだったからだ。



「緋色は〝何〟から逃げたいの?」

「!」



意表を突かれたような顔。緋色のそんな顔を見るのは、初めてのことだった。



「緋色、何か悩んでるんじゃ、」

「いや、何でもねーよ」



スッと、音もなく立ち上がった緋色。何をするかと思いきや、玄関扉の前に立つ。そして、足を大きく上げたと思ったら、ドアノブのないドアを、力いっぱいガツンと蹴った。



「きゃ!?」



凄い音がした。と同時に……今までそこにあったドアは、影も形もなくなっていた。



「え、開いたんだね!」



ビックリして、緋色の傍に駆け寄る。だけど、部屋の外を見てみると――そこは、一面に真っ暗な世界が広がっていた。



「なに、これ……っ」



ブラックホールのような。落ちたら最後のような。そんな恐怖を思わせる「黒」。言いようもない怖さが、私を襲う。



「緋色、危ないよ。下がろう!」



怖くなって後ずさる私。だけど緋色は――そんな私の手を、グッと握って、そして。ブンと、音がするまで、思い切り回した。私の体は、緋色の手に沿って大きく動く。


そして行き着く先は――



「わ、ひ、緋色!おち、落ちるよ!?」



間一髪。片足のつま先だけで、何とか部屋の中に入っている。言えば、つま先だけで自分の体を支えていると同じだ。今、緋色が私の手を離すと、私はすぐに闇の中に落ちるだろう。



「ひ、緋色、たすけ……っ!」



怖くて、ガタガタ震えて。緋色に助けを求める。だけど、そんな私を見て、緋色はいつものニヤリとした笑みを浮かべるだけだった。その表情を見るに、私を助ける気は微塵もないらしい。



「緋色!遊んでないで、お願い……っ」



懇願する私。すると緋色は観念したように、グイッと手を自身の方へ引き寄せた。途端に近くなる私と緋色。良かった、もう安心だ。助けてくれたことに安堵して「ありがとう」と言いながら、顔を上げる。


すると、その瞬間。

チュッと。

緋色は私の唇に、触れるだけの短いキスをした。



「ひ、いろ……?」

「朱音、ありがと」


「ありがと、って……何に?」

「内緒だ」


「え、なに。どうしちゃったの、緋色……?」



その時。緋色は、自分の手が外れんばかりの勢いで、ドアの方へ思い切り肘を伸ばした。それに倣って、緋色の手と繋がった私の体が、玄関へ大きく傾く。


そして態勢を崩した私が、今にも闇の中に落ちそうになった。その光景を、緋色が確認した瞬間に。


パッと。

私と繋がった手を、緋色は躊躇なく離した。



「え――」



すると、何のつっかかりもなく、私の体は闇の中に落ちていく。闇に触れた瞬間、足の先からどんどん自分が消えていくような、そんな感覚を覚えた。



「まっ、て。待って!緋色!!」



闇に呑まれる中、必死に緋色の名前を呼ぶ。あがいて必死に手を伸ばす。だけど、私を見下ろす緋色から、意に沿わず私はどんどん下がって行った。二人の距離は、離れていくばかり。


そして、



「じゃーな、朱音」

「ひ、い……ろ――」



緋色の最後の言葉で、私の意識がなくなる。見上げていた部屋も、いつの間にか。姿を消していた――

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