第11話 手も声も届かない人
――俺はお前が、嫌いだ。俺の事、何も分かってないくせに
緋色、どうしてそんな事を言うの?
私、緋色の何を知らないの?
――緋色は〝何〟から逃げたいの?
――!
あの時、どうして「図星」みたいな顔をしたの?
教えて、緋色。
私まだ、緋色の事を、全て理解できてないから。
全てを知りたい。
あなたの、全てを――
ブー
「……あ、さ」
目を開ける。そこには、涙を流した私が、ただ自分の部屋で横になっているだけだった。
「緋色……っ」
今、何となく分かってしまった。もう夢の中で緋色には会えない。二人きりで話す事は出来ない。
緋色の声、話し方。そして――私の名前を呼んでくれる時の優しい息遣い。もう全部、ぜんぶ。さっきの夢で最後だったんだ。最後の夢で、最後。本当に、終わり。
自分で望んだことのはずなのに。自分で緋色に「今日で最後」って言ったはずなのに。その通りになると絶望した。私は今こんなにも、あなたに会いたくてたまらない。
緋色、ごめんね。私はとんでもなく、身勝手だ。
「緋色……緋色。ごめんね、緋色。でも、こんな終わり方ってないよ……っ」
私はまだ、あなたに聞きたいことがたくさんある。問い詰めたいことも。だけど一番聞きたいのは、緋色の心のこと。何の悩みを抱えているのか、私に教えてほしかった。
「だけど、私はもう、きっと話すことさえ叶わない……」
最後に私を見た、あの緋色の表情。あの顔を見ただけで、何となく分かってしまう。きっと緋色は、現実世界でも私に近寄らない。手を握って帰ることもない。目を合わせることも、きっと敵わない。
――じゃーな、朱音
緋色が、私を暗闇に落とした瞬間に、全てを察した。緋色は、私とは、もう関わってくれない。って。
「緋色~……っ」
あんなに優しく抱きしめておいて。
あんなに激しいキスをしておいて。
あんなに忘れられない夜を共に過ごしておいて。
熱の冷めることのない心臓を、私に寄こしておいて。
どうして、勝手に私から去ろうとするの。
ねえ、緋色。
「私、ろくにお礼も言えてないよ。話したりないよ。もっともっと、私の隣にいてよ……っ」
とめどなく流れる涙は、まるでダムが決壊したようで。最初こそ拭いていたけど、無駄だと思ってやめた。ティッシュの無駄だ。労力が無駄だ。全部ぜんぶ、無駄だ。
「私の想いも、無駄だったのかな……」
そんな事、思いたくもないけど。
でも、終わったんだ。
私の恋は、ここまで。
緋色との思い出も、ここまでなんだ。
「学校……行かなきゃ」
流れる涙はそのままに。私はベッドから身を起こす。そう、行かなきゃいけない。だって、今日は沼田くんと一緒に帰る二日目の日だから。私を信じて待ってくれている沼田くんの顔が、どうしても頭に浮かぶから。休むわけにはいかない。
「顔、ひどくなければいいけど……」
泣いた後の顔なんて、大抵ヒドイものだ。ヒドイ顔で沼田くんと会うと、絶対に「うわ、何その顔」って言われる。どうか、グチャグチャになってませんように――
「うゎぁ……」
祈りを込めながら覗いた鏡に映っていたのは、かなりヒドイ私だった。目のクマはクッキリ出ているし、瞼は赤く腫れあがっている。目の中さえも充血していて、顔はなぜかパンパンにむくんでいた。
「いいこと、ないな……」
こんなこと言ってごめん、と心の中で沼田くんに謝る。沼田くんは、たぶん私と帰ることを楽しみにしてくれているから。そんな日に「いいことがない」なんて言葉を言い放ってしまう自分が、ひどく嫌に思えた。
「いってきます……」
準備をして家を出る。お母さんは今日はもう出勤していたらしく、「いってらっしゃい」という声は聞こえない。そんな些細な事さえも、私の心の内を、どんどんと黒く染めていくのだった。
◇
やっとのことで止まった涙。だけど、泣きはらした目は、どうにも誤魔化せるものではなかった。特に、沼田くん相手だと。
ガラッ
「おは……って、何その顔。いつにも増してヤバいよ?帰ったら?幽霊みたいな奴の隣で授業受けたくないんだけど、俺」
「はは……沼田くん、おはよ」
朝から元気な沼田くん。予想通りの辛辣な言葉が、もういっそギャグに聞こえてきて。少しだけ笑えた。
「ねえ……もしかして、俺のせい?」
「沼田くんの?なんで?」
さっき眉間に寄せたシワを解きながら、沼田くんは俯き加減で私を見た。
「だって、気づかせちゃったじゃん。昨日、別れ際に。静之と枝垂坂が一緒に帰ってるって事実を」
「あぁ……その事ね」
――横、絶対見ないでね。見たら許さないから
確かに。あの言葉のせいで、二人が一緒に帰っている事実を知ってしまった。だけどね、沼田くん。それは私にとっては、どうでもいい事なの。
「違うよ。あれは別に、気にしてないから」
「気にしてないって……。言う割には、チラチラと静之を気にしてる感じだけど?」
「本当に違うよ。ただ……視界に入ってるだけ。私の目に移りこんでいる、景色の一つに過ぎないよ」
「景色って……」
確かに、教室に入った時に、私は見てしまった。もう緋色を見ないようにしようと、登校中に散々、自分に言い聞かせたのに。
結局、一秒ももたなかった。
既に登校していたらしく、緋色は教室にいた。渦中の枝垂坂さんと一緒に。昨日と同じく、二人はスマホで会話をしているらしかった。楽しそうにクスクス笑う枝垂坂さん。
「はぁ……」
何を話しているんだろうか――私は無意識のうちに、二人の方をジッと見てしまう。すると、噂好きな女子が「待ってました」と言わんばかりに、私の事を話し始めた。
「うわー、桃ちゃんの事を睨んでるよ」
「こっわー。最低だね。誰が悪いんだっての」
「ねー。喋れないから睨むって。子供だね」
「(はぁ……もうやめて、今は聞きたくないのに)」
私の行動を、ずっと観察でもしていたのだろうか。きっと、そうなんだろうな。じゃないと、私の事を悪く言えないもんな。暇人は、いいな。そんなくだらない事を考えて、あてもなく見境なく、気に入らない人に向かってナイフを飛ばせばいいんだから。
「それに比べて桃ちゃんは、本当に一途だよねぇ~」
「ねぇ、静之くんの傍から離れないんだもんー」
「健気よねぇ、可愛すぎる」
「……」
グサッと。言葉というナイフが、私にどんどん刺さっていくのを感じた。枝垂坂さんの容姿は、正直まったく羨ましくない。そりゃ可愛いし綺麗だけど、それだけ。私は、彼女になりたいとは思わない。
だけど――緋色の隣にいれることだけは、すごく羨ましい。心から。
変わってほしい。私だって緋色と喋りたい。一緒に笑い合いたい。もう、それが出来ないと知ってから、余計にそう思うようになった。楽しい思い出を二人で作れないかと思うと、余計に。
「(けど、緋色がそれを望んでないんだから……どのみち、無理か)」
「うわ、見て。ため息ついたよ」
「本当~あからさま過ぎ」
「自分が一番被害者ですってアピール?」
今日も、この陰口をバックサウンドにして。一日を過ごさないといけないのか――そう憂鬱になりながら、鞄の整理をした。カバンから出した教科書やノートを、机の中に移動させる。
だけど、
コツン
机の中に入れる際に、何かに引っかかって、上手く入らない。何度か試みたけど、やっぱり途中までしか入らない。おかしいな。私、机の中に、何も残してないはずなんだけど――そう思いながら、身を屈めて、机の中を覗き見た。
すると――
「(青い、ノート……!?)」
いつか学校で緋色に渡した青いノートが、今、私の机の中に、入っているのだった。
「(え、なんで!なんで、緋色が……緋色が、入れてくれたの?)」
目の前の光景が信じられなくて。震える手で、ノートに手を伸ばした。頭の中で「誰かがイタズラで私に入れたのかもしれないし」と期待にブレーキをかけてみる。だけど、震える手はもう緋色の事しか考えてなくて。
キーンコーンという、チャイムの音にも気づかなかった私。必死にノートを手に取り、そしてパラパラと。何か書かれていないかと、目を皿のようにしてめくった。
私がノートの、真ん中のページの方に書いた「仕返し」という言葉はそのままだ。ペンでグチャグチャに上から塗られているわけでもない。消しゴムで消されているわけでもない。
ただ、ノートが戻ってきただけ?そうなのかな?
焦る気持ち。落胆する気持ち。期待する気持ち。全ての気持ちを総動員した私の手が、先を急いだ。すると――
「(これ……は……?)」
最後のページに近い箇所で。見つけた。ノートの右ページ。下の方に、小さな字で書いてある。一言でもない。一文字でもない。冒頭に「同じ赤を持つ君へ」と書かれている。それは間違いなく、緋色から私への手紙だった。
「(緋色……っ!)」
抑えきれそうにない涙が、私の目いっぱいに溜まる。視界はぼやけて、何も見えない。涙が邪魔をして、何も見えない。
「起立ー」
日直の号令がかかる。皆が立ち上がる中、私は足を動かせないでいた。そして、同時に緋色を見る。皆が起立しているから、きっと緋色も立ってる。だから視線を上げて緋色を見ようとした、その時。
「……」
「……あっ」
私と同じ、座ったままの緋色が。怒っても笑ってもいない静かな表情で、私を見ていたのだった。
「ひ、いろ……!」
思わず口に出た彼の名前は、皆が着席する時に鳴った椅子と床の摩擦音にかき消される。と同時に、緋色と交わっていた視線も、私が瞬きをした瞬間に、フイとあっけなく逸らされてしまった。
「(見間違い……だったのかな……)」
私と目を合わせるために、座っていてくれた?「そのノート読めよ」って、そう言ってくれたのかな?私の都合のいい解釈をしても、罰はあたらないよね……?
緋色への思いが抑えきれなくて、胸がいっぱいで。ノートが涙で濡れないようにハンカチを敷き、隙間から緋色が残してくれた文字を見る。
「(緋色、ノート。読むからね……っ)」
緋色からの最後の言葉。その文字たちに、私は目を移した。そこに何が書かれているのか。私は震える心臓を必死に押し殺し、そして必死に宥めながら。はやる気持ちを抑えて、文字を追った。
◆
同じ赤を持つ君へ
仕返しなんてされたら、俺も、仕返さねーと気が済まねーから。
だから、書いてる。めんどくさがらずに、最後まで読めよ。
今、教室でこれを書いてる。英語の授業が始まったばかりだ。今日は課題が出てる。
お前は、今必死に物書きしてる俺を見て”課題を頑張ってるんだろうな”とでも思ってんだろ。
ちげーよ。あの時の俺は、必死にこれを書いてたんだよ。ごめんなって、一言謝りたくて。
あの日の放課後。枝垂坂を無視して、俺の手を握って走ってくれたお前。あの時のお前は、枝垂坂から俺を庇ってくれたのに。俺のためにしてくれた事なのに、教室で矢面に立っているお前を、俺は助けなかった。
恩を仇で返すってのは、こういう事なんだな。すげー気分が悪ぃよ。って、自分でしてる事なのに、何言ってんだって話だよな。悪ぃ。
俺はお前を尊敬してる。すげー尊敬してる。
きっとお前は気づいてねーけど。俺は、お前こそ強いと思う。
お前は立派なヤツなんだよ。
だから、もう俺から解放されろ。
俺の事なんて忘れちまえ。
その方がお前は幸せになれるから。
俺だってもう懲り懲りなんだよ。
世話になったお前が、クラスの奴らに悪く言われるの。
だから、俺と関わるな。
俺に、近寄るな。
俺を、目で追うな。
お前を楽にしてやりてぇんだよ。
お前を守ってやりてぇんだよ。
恩を仇で返したままじゃ嫌なんだ。
俺が最後にしてやれることは、お前を守る事だ。そして、お前を守る方法は一つしか思いつかねぇ。
それは、俺と別の人生を歩むことだ。
だからお前と離れる。そう決めた。
夢の中でも、現実でも。お前と決別するって。
世話になったな。
同じ赤を持つお前。
決して交わらなかった俺たち。
でも、きっとそれが正しかったんだ。
交わらない方が、正解なんだ。
俺は、身をもって知った。
このノート、燃やそうと思ったよ。何度も。
でも、お前にどうしても仕返ししたかったからな。
だから、お前に託す。
俺からの手紙を読み終わったら、
このノートを燃やせ。
全ての縁を断ち切るように、
真っ赤な炎で焼いてしまえ。
赤い俺ららしい最後だろ?
じゃ、頼んだぜ。
同じ赤を持つ者より
◆
カサッ
手紙は、読み終わった。ノートを静かに閉じる。このノートには、確かに、緋色の気持ちが全て入っている。だからこそ、
「(燃やせるわけないじゃん、ばーか……っ)」
胸にノートを抱きしめる。そうすることで、少しでも緋色を近くに感じる気がした。
「(緋色、好きだったよ、緋色……。ありがとう)」
大好き――この気持ちは、やっぱり消せない。すぐに消せるわけない。私の力で消せるものじゃない。時間が消してくれるだろうか。私の中の赤い炎が、いつか、緋色への思いも消してくれるだろうか。
「(いや……いいんだ。消えなくたって)」
それが私なんだから。緋色を好きな気持ちを含めて、私なんだから。
「……ぅっ」
抑えきれない涙が漏れる。ずっと下を向いていたためか、ついに先生が不振がり「じゃあこの問題を澤田」と指名される。だけど、なかなか顔を上げない私。すると、沼田くんの声が、教室に響いた。
「腹痛いらしいです、澤田は今日パスで。代わりに俺が答えていい?」
私たちを犬猿の仲だと思っていた先生が「お、おぉ……」とどもりながら返事をする。クラスの皆の空気がゆらっとうごめくのを、肌で感じる。きっと、また何か言われる。何か悪い事を噂される。言いようのない不気味さが、私を襲う。
だけど、いいんだ。沼田くんへの感謝と、緋色への恋心と――今の私は、この気持ちだけがあれば、それでいい。
「(ありがとう沼田くん。ありがとう緋色)」
ただ涙を流す授業は、とても長く、だけどなぜだか短くも感じた。だけど、時間の流れさえ乱す力が、恋にはあるのだと。私はその時、初めて知ることが出来たのだ。
「(緋色、私、また一つ知らないことを知ることが出来た。緋色のおかげだ)」
顔を伏せたまま、瞬き一つ。速いスピードで落ちた涙は、机に置いたハンカチに、音もなく。静かに染み込んでいくのだった。
そして、その夜。ブザーは、鳴らなかった。夢の世界に行くことも、緋色に会うことも。何一つ、私の願いは叶わなかったのだった。
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