第6話 四夜目*キスで帳消し


青いノートを静之くんの机の上に置いた。計画はバッチリ。「なんだこのノート…?」って迷惑がる静之くんを見られた。皆が見ている手前、必死に笑顔を振りまいてごまかしていた静之くんだけど……。私には分かる。


静之くんは、私がノートを渡したあの時。確実に焦っていた。



「(静之くんの、あの反応。皆が見ている中で、どう振る舞おうか悩んでいる姿。ふふ、面白かったなぁ)」



満足げに自分の席に帰ると、隣の沼田くんが「今のなに?」と不可解な顔で私を見る。私は少し沼田くんを一瞥した後、考えた。


あのノートは……ただの仕返しの道具。だけど、そんな事を言えるわけはないので、いつもの沈黙よろしくで乗り切った。


隣で「おいまた無視かよ」なんて小言が聞こえるけど、もういいや。今は静之くんへの思いでいっぱいで、沼田くんの言葉は、私へのナイフにはならなかった。



「(楽しみを見つけるって、大事なんだなぁ。今まで沼田くんの言動をいちいち気にしていたけど、今は全然気にならない。静之くんが私と関わってくれてるおかげだな)」



もちろん、静之くんへの仕返しだけが、私の「楽しみ」ではない。静之くんと過ごす夢の中は、驚きの連続だけど、でも……嫌な事ばかりじゃない。学校で喋れない分、夢の中で静之くんと喋ることが出来てるのが、素直に嬉しかった。



「(誰かと話すって、大事なことなんだな)」



今まで気にもしてなかったけど、静之くんと話すようになって「話す力」という、目に見えない力を感じる。


静之くんと話すと、楽しい。ばかりじゃなくて、生き甲斐が増えてる気がする。学校が楽しみに思えてきている。今朝も、久しぶりに「登校したい」って思えた。これは、静之くんナシでは、考えられないことだ。



「(でも”生き甲斐”なんて言うと、きっと静之くんは”重たい・うぜぇ”の一言で終わらせるんだろうけど)」



だけど、その言葉を聞いても、きっと私は凹まないと思う。だって、一緒に夜を過ごすようになって、少しずつ、静之くんの事を知れて、理解できているような気がするから――


と、思った時だった。


放課後。静之くんに、珍しく枝垂坂さんが話しかけた時に、静之くんの表情が曇ったのを、偶然にも見てしまう。枝垂坂さんの声はよく通る声で、何て言ったのか、離れて立っていた私にも聞こえてしまった。


そう、確かに彼女は言ったのだ。

静之くんに、一緒に帰ろう――と。


チクンッ



「(ん?チクンって、なに?)」



自分の胸の内が、少しだけ音を出したのに気づく。だけど、その音の正体を探ろうとする前に、私は静之くんにメールを送ってしまっていた。



――その人と一緒に帰らないで。静之くんの彼女は私でしょ。



今思えば、何という恥ずかしい内容を送ったんだって思った。現に、あの静之くんが、メールを見て少し驚いた顔をしていたくらしだし。だけど、静之くんは行ってしまった。枝垂坂さんに手を引かれて。



「(ま、待って……ッ!)」



急には出ない私の声は、自分の口から外に出ることはなかった。私の焦った様子を見て、沼田くんが「どうしたの変な顔してる」と指摘してくる。あぁ、だけど。そんなことはどうでもいい。沼田くんの言葉は、今の私の足かせにはならない。



「(行かなきゃ!)」



気づいたら、走っていた。教室を飛び出して。沼田くんの「おい!?」という声にも振り向かないまま。走って走って、二人の後を追いかけた。そして、追いついた。



「(はぁ、はぁ……止まってる?)」



二人が話をして止まってくれているのは、私にとっては好都合だった。今のうちに――と上履きから靴に履き替えて、急いで距離を詰める。だけど――



「それに、ホラ。静之くん喋れないから、ちょうどいいよね?うっかり口が滑って本当の事を言っちゃうって事もないし。私さえ上手く回せば、絶対元カレのこと騙せるかなって!」



ズキンと。ビリリと。私の心に亀裂が入る音が聞こえる。さっきまで沼田くんに小言を言われても何も動じなかった私の心が、静之くんの心に同調するように「悲しい」と私の脳に訴えかけてくる。



「(枝垂坂さん……最低な人だ。最悪な人だ。静之くんの事を考えて言ってるの?)」



そう思い、呑気に笑う枝垂坂さんから視線を外す。そして、静之くんへと目を移した。だけど、



「(静之くん……?)」



目の前の彼は、あんな酷いことを言われても、さっき教室でしていたのと同じような笑みを浮かべて、枝垂坂さんの話を聞いていたのだった。



「(~もう!静之くんの馬鹿!!)」



何の前触れもなく、私は駆け出した。勢いよく。何かに怒りを込めながら、力強く地面を蹴った。そして――


グイッ


静之くんの手を掴んで、思い切り引っ張る。枝垂坂さんではなくて、私の方に。こっちに来いと、そんな意味を込めて。



「ちょ、ちょっと!静之くん!?」



背中に、枝垂坂さんの大きな声がぶつかる。あの声色は、驚いている。そして、怒っている。だけど、怒りたいのはこっち。静之くん。そして、私。



「(はぁ、はぁ……あ、あれ?)」



走っていると、私が引っ張っていたはずなのに、いつの間にか静之くん引っ張られていた。立場が逆転している。それは、私が顔を下げた時の、ほんの一瞬の事だった。



「(静之くん……)」



広い背中。高い身長。枝垂坂さんには、静之くんが「何を言っても傷つかない、心も体も大きい人」にでも見えているのだろうか。そんなわけない。静之くんは、そりゃ夢の中ではダラダラしてるし、何に対しても無気力っぽくて、性欲オバケみたいに見えるけど……でも、違う。


違うの。ちゃんと見て。



「ま、って。息、しんどく、て……」

「……」


「静之、くん……」

「(……なに?)」



ちゃんと見て。枝垂坂さん。静之くんの目に宿る、光の儚さを。きちんと、その目で見てほしい。



――――あてもなく走った私たちは、その後、やっぱりあてもなく、さ迷い歩いた。繋いでいた手は、いつだったか外れた。フッと、まるでお互いの力が抜けるように。


そして、ここがどこで、今が何時で……とかは全く気にならなかった。そう、私が気にしているのは、静之くん。その人の事だけ。



「……喉、乾いたな」

「……」



ポツリと。なんとなしに言うと、静之くんは私の肩をトントンと叩き、近くにある自動販売機を指さした。「買う?」というと、静之くんは頷く。二人の足は、自ずと自販機に向かった。



「私、炭酸がいいな。シュワ―って、ブクブクしたい気分」

「(……ぷ)」

「あ、笑ったな」



静之くんの顔が、綻んだ。私は、そんな彼を見て、ようやく自分も笑う事が出来た。



「(今の静之くんは、氷細工だ。全身が氷で出来た静之くんだ)」



ふいに、そんな事を思った。



「(撫でたら熱で溶ける。近づいても熱気で溶ける。かといって、放置してても暑さで溶けてしまう。静之くんは、繊細な氷細工だ)」



さっきまで青いノートを使って「静之くんに仕返しが出来た」なんて笑っていた私が、態度を百八十度変えるのも変な話だけど。だけど、そんな事を考えていたからか。体と心に、無意識に力が入ってしまっていた。静之くんからジュースを渡された時に手が滑り、地面をコロコロと転がってしまったのだ。



「あ」

「(……いいよ)」



大きな歩幅で、静之くんはジュースに近づき、拾い上げた。私のせいで転がったから私が行こうとおもったけど、静之くんに手で「ストップ」のジェスチャーをされると、迂闊に拾いにいくわけにもいかない。静之くんは今、近づきすぎても遠くにいすぎてもいけない存在だ。



「(だって静之くんは今、繊細な氷細工なんだから)」



改めて、自分にそう言い聞かせた。



「ごめん、ありがとう……」

「(どういたしまして)」

「あ、お金!」



慌てて財布を出そうとすると、静之くんは私の手を掴んで、フルフルと頭を左右に振った。そして、ゆっくりと。私が読み取れるくらいの速さで、同じ単語を何度も口にした。口パクで読み取れるか自信はなかったけど、それでも分かった。


だって、それは、夢の中で私に衝撃を与えた言葉だから――



「彼女って、そう言ってる?」

「(うん)」


「彼女だからお金は払わなくていいって……そう言ってくれてるの?」

「(……うん)」



少しだけ照れ臭そうに頷く静之くん。サラサラした黒髪が、風に舞って揺らめいた。その時に、髪の隙間から静之くんの目が見えた。黒い目。綺麗なくらい、漆黒の色。その吸い込まれそうな黒と、瞳がぶつかる。



「っ!」



私は途端に恥ずかしくなって、静之くんから再び受け取ったジュースを「ありがとう、飲むね!」と勢いよく開けた。


その時に、静之くんが慌てた表情で、私の腕を掴む。なにかを止めようとした動きだったけど、一歩間に合わず……。私は、缶を開けてしまった。すると――


ブシャアアァァ……


噴火のように目の前に湧き出るジュース。二人の制服が平等に塗れた時に、やっと、



「そうだ、これ……炭酸ジュースだった……」



と、助けを求めるように、静之くんを見つめたのだった。



「……」

「……」


「……」

「……」


「……」

「……ぷ」



どちらが先に笑ったかは分からない。でも、たぶん、同時であったと信じたい。私が声を出して笑った時は、静之くんもお腹を抱えて笑みを浮かべていたし。静之くんがお腹を抱えた時は、私も笑みを浮かべていた。


バカみたいな事で、制服を濡らした高校生二人。メロンソーダ味のジュースだったから、独特の甘い香りが、二人の間に充満していた。緊急事態なはずなのに、その匂いを嗅いでいると、不思議と可笑しくなってくる。


さっきまで静之くんの事を「氷細工」なんて思っていたけど……なーんだ。氷細工な彼自身は、自分が傷ついて壊れる事も恐れずに、大きな体を揺らして笑っているのだ。



「(変に壁を作っていたのは、私の方だったかな)」



枝垂坂さんの事を悪く言っていた自分を咎めたい。私も彼女と同じ立ち位置で、彼を見てしまっていたのだと。こっちから歩み寄らなければ、静之くんは振り向いてくれないと思う。なら、歩み寄ってみたい。


私は、静之くんの事がもっと知りたい。

だって私は、静之くんの「彼女」だから。



「聞いても、いい?」



改めて口にした私を見て、静之くんがピタリと笑うのをやめる。だけどギクシャクして空気になるわけでもなく、静之くんは、まるで観念したような笑みを浮かべて、肩をちょいと上げて「どうぞ」とジェスチャーしたのだった。



「さっき枝垂坂さんが静之くんに話している内容を聞いちゃったんだ。その……”聞こえないからちょうどいい”って言った時」

「(ふぅん)」


「それで、その後の静之くんを見た。笑ってた……でも、悲しそうだった。とても」

「……」



静之くんは何も言わなかった。というか、何も反応を示さなかった。だけど、ここで止めてはだめ。私は、自分の濡れた制服を、静之くんの濡れた制服に近づけた。そうして、手が、また繋がれる。



「私は、静之くんには、あんな顔をしてほしくない。困った時は困った顔をして、面白い時にはさっきみたいに歯が見えるくらいに笑って……。ありのままの静之くんを見せてほしい」

「……」


「だけど、静之くんが、笑顔を絶やさないのには、きっと訳があると思って……。だから、今は、それを聞きたい。その理由を聞きたい。ねぇ、静之くん。どうして教室の中でも、あんな暴力的な言葉の前でも、ニコニコ笑っているの?」

「……」


「む、無理にとは、言わないけど……」



でも、彼女だし?知る権利があってもいいかなぁって思って?


今更な言い訳を、モゴモゴと口を小さく動かして、静之くんに届ける。私の言葉と、想い。彼に、きちんと届いているのだろうか。



「静之くん。私は、あなたの事を……もっと知りたい、です」

「!」

「だから、きゃ!」



それは、突然のことだった。繋いでいた二人の手は、均衡を保って微動だにしていなかった。だけど、急に片方に力が加わり、片方が引っ張られる。引っ張られたのは、私だ。



「わ、ぶ!」



ブレーキの効かなかった私の体は、ドンという音と共に動かなくなる。「何が起きたの?何がどうなってるの?」訳の分かっていない私は、とりあえず顔を上げる。


すると、顔を上げた先にいたのは、静之くんの顔。顔と顔の距離が、とんでもなく近い。近すぎて見えずらいくらいに、静之くんと私は、至近距離にいた。



「ご、ごめ!」



慌てて退こうとする。だけど、その時に静之くんの漆黒の瞳と目が合った。そして、同時に彼の形の良い唇も目に入る。そして、その唇が動いた。それは、こんな言葉を話していた。



「(行かないで、朱音)」

「っ!」



どうして、だろう。なんで、私は静之くんの話している言葉が分かるんだろう。読唇術が出来るわけでもない。経験があるわけでも、資格を持っているわけでもない。加えて、今静之くんは初めて私の事を、名字ではなくて名前で呼んだ。「朱音」と。


だけど、分かってしまった。私のことを呼ぶ唇が、私にそう訴えているって。手に取るように分かってしまうのだ。



「なに……?静之くん」

「!」



さっきも、このセリフを言った気がする。そう、枝垂坂さんから静之くんを奪ったあの時。走りながら、静之くんが私を呼んだ気がした。



――なに?静之くん



その時と、同じ言葉を返した。


すると、急に。静之くんの目の色が変わった。


グイッ


今まで近くにいた距離は、ますます近くなり、もう前髪と前髪が触れる。ばかりか、まつ毛同士だって触れそうな距離だった。私は恥ずかしさと、動悸で頭がテンパってしまって、ただワタワタするばかり。


だけど、静之くんは違った。さっきまで見ていた静之くんの目にはなかった、強い光。その光の中に、私の真っ赤にした顔が映っている。


今、私はそんな顔をしているのかと思うと。そんな顔を、静之くんに見られているのかと思うと、また、顔から火が出るくらいに恥ずかしくなった。


そんな私に、静之くんは情けをかけてくれなかった。私を最大限に近づけたのに、まだ足りないのか体をも密着させてきた。胸もお腹も太ももも、そこから下の、足さえも――


密着しすぎて、きっと私の心音なんて簡単に聞かれてしまっている。そんな想像も、私のドキドキを加速させた。


そして、ついに、その瞬間が来る。



「(朱音)」

「え、!?」



チュッ


なんて可愛いリップ音なんてしない。小鳥がついばむような、とか。そんな爽やかなもんでもない。静之くんは、自分の中の欲望を、これでもかというほど、私の唇に押し当てて来た。角度を変えて、強さを変えて。


私は、一体いつ息をすればいいんだろうと疑問に思う暇がないほど。ここが外という事も忘れて、私は彼を押し返すこともなく、ただ黙ってそれを受け入れていた。


静之くんが、私にキスをしている――


そんな驚きの事実が、私を蝕む。さっきまで静之くんの色んな事を考えていたけど、今は目の前の静之くんだけで手いっぱいだった。


チラリ


我ながら無謀だと思ったけど、呼吸が満足にできず意識が朦朧とし始めた時に、薄目を開けて静之くんを覗き見た。すると、そこにいた彼は、教室の中で見た彼とも、夢の中で見た彼とも違っていた。



「(どうして、そんな切ない顔をしているの?静之くん)」



眉間にシワを寄せて。だけど、垂れた目じりが、何だか泣きそうにも見えて。静之くんは大きいはずなのに、目の前の彼はとても小さく見える――そんなことを思った時に、ソッと唇は離された。



「はぁ、はぁ……」

「(……)」



肩で息をする私とは対照的に。静之くんは、涼しい顔で、膝に手をつく私を眺めていた。キョロキョロと周りを、今更ながらに確認している。そして、私に「OK」とジェスチャーをした。誰もいない、さっきの事を見られていないって、そう言ってるのかな?


それは、良かった……。だけど、そんな事を感じる暇はないくらい、目がチカチカするような衝撃的な時間だった。すごい疲労感だ。ふう、と一声かけながら、その場にしゃがみ込む。すると私に倣って、静之くんも隣にしゃがみ込んだ。



「……なんでしょう」



さっきの事があるから、油断大敵だ。彼のテリトリーに入ると、また、いつ唇を貪られるか分からない。ツツツと、つま先を少しだけずらし、気づかれないように、ゆっくりと彼と距離をとる。


すると、めざとくも発見した静之くんは、まるで呆れたようにため息らしきものをついて、見上げて空を見た。


こっちがため息をつきたいんだけどな――


と私が思っているのはどこ吹く風なのか。静之くんはいきなり立ち上がって「バイバイ」と私に向けて手をヒラヒラさせた。



「え、帰るの?」

「(うん)」


「……そう、じゃあ。また」

「(あいよー)」



キスが終わったら満足した、ってか?いや、そうじゃないか。だけど、あまりにも唐突過ぎる。一体、最初から最後まで、静之くんが何をしたかったのか、皆目見当もつかない。だけど、まあ、いいか。



「続きは、夢の中で――って事よね?」



そう、私たちの一日は、これで終わりじゃない。だから、じっくり話を聞こう。夢の中で。そして「なんで学校でニコニコしているのか」、「なんでキスしたのか」という事について。


彼の口から詳しく聞こうと思う。

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