第3話 人でなしのアイと、人ではないアイ

 仮設収容所正面の時計が九時五十五分を指す直前、アイはこちらに歩いてくるトシの小さな影を見つけた。青みがかった朝の空気はすでに熱を帯び、鳴き出した蝉の大合唱が諷経ふぎんを思わせた。トシはあの日のように目の縁を赤くし、何かをこらえるに嚙み締めた唇を震わせながらこちらに歩いてきた。アイの前に立った彼は、今にも彼女に掴みかかりそうな手を抑えるように拳を握りしめた。


「……どういうことだ」

「私だって抗議したよ。でも、司令部の結論は変わらないって。あいつの裁判は無し」


アイは旧友にそう答えながら、目線だけを動かして時計を見た。九時五十六分。アイの熱意に欠ける様子に怒りを煽られたのか、トシは半歩彼女の方に詰め寄った。


「十六人殺した奴だぞ。カイだけじゃない、平地の病院に移送中だった民間人もみんな。そんな奴が、どうして裁判にもかけられない? こんな馬鹿な話があるか」

「実行犯はあいつ一人じゃなかった。検視報告聞いたでしょ? 複数犯しかありえない。そして、あの集落の年齢構成と血縁集団の状況を考えれば、あいつは決定権を握れるような立場には無かったはずだ。生き残った下っ端に全責任を負わせて殺すなんて、ただの茶番」

「何が茶番だ。少なくともあいつがカイを」

「大きい声出さないでよ。そう言ってるのは私じゃない、司令部の建前だから」


九時五十八分。アイは前に落ちかかってきたキャップを一度外し、取り付けられた小型カメラの電源を入れた。一挙手一投足を見逃すなと、上官は彼女に言った。これは君にしかできない仕事だ。そうだろう? と。


「内地からせっつかれてるんだよ。生きた新峡人のデータを寄こせって。釈放しても仕事を覚えないし、ルールは守らない。力だけは強くてすぐ暴力沙汰を起こす。そんな連中の中に、狙撃なんていう複雑な技能を習得した奴が現れたと聞いたら、大学も企業も情報を欲しがるさ。そっちにデータを売った方が、軍も儲かる。兵隊の復讐心を満足させるために、拷問して殺すより有益だと思ったんだろうね」


キャップを被りなおしたアイが顔を上げると、トシは血の気の引いた白い頬をまだ震わせ、自分の足元を睨んでいた。ひと月も前に死んだ戦友のことでこれほどに怒れるのは、彼自身の性格のためか、それともやってきた仕事の性質のためか。アイは先ほど起動させた小型カメラの録画機能を一時停止し、陽光の照り返しで白く浮かび上がる収容所の建物に顔を向けた。彼女と同じ名前の新峡人が、そこから出てくる気配はまだない。


「大丈夫。私だってこのまま引き下がる気はないよ。あいつが釈放されることはない」


アイの言葉は、妙に確信めいていた。トシにだけ不穏な言葉を聞かせて、何食わぬ顔で録画を再開させようとした旧友の手首を、彼はとっさに押さえた。


「……事故に見せかけて殺す気か。だから俺を」

「え? いやいや、私たちが一緒に居た時点で絶対ばれるから。ていうかトシ車替えたばっかでしょ? 捕虜殺害で懲戒処分くらってもローン払えるの?」


手首を掴まれたアイは、トシの顔のこわばりを緩めようとするかのように軽口を叩き、肩を小突いて手を外させた。金の話に気をとられたトシは返答に詰まって目を泳がせ、少しの間考えたが、結論はあまり格好のつくものでは無いようだった。彼は掌に残ったアイの肌の冷たさを握り込み、振り払えない悪寒に突き動かされるようにして、さらに彼女に問いかけた。


「それで、何する気だ」

「別に大したことじゃないよ。とりあえずトシは、テストシューターに専念しててくれればいいから。あ、十時過ぎた。呼びに行こっか」


アイは旧友が言い知れない不安を感じていることはよく分かっていたが、それを解消してやるつもりは無く、取ってつけたような愛想笑いを、隈の定着した目元に張り付けただけだった。トシの脇をすり抜けたアイが収容所の方へと歩き出した時、すれ違いざまに、トシのごく小さな呟きが彼女の鼓膜を震わせた。


「……アイのそういうとこ、やっぱ少し怖いわ」


俺たちとは違うから、しょうがないけどな。トシの言葉にそんな続きが付いていた錯覚を、アイは覚えた。彼女は聞こえなかったふりをして先に進み、仮設収容所の門衛に挨拶して扉を開けさせた。自分が人でなしであることは、誰よりもアイ自身が一番よく知っていた。


収容所の中は蒸し暑く、すれ違った捕虜も看守も全員が熱気に頬を紅潮させていた。トシは顔見知りに敬礼を返したその袖で汗を拭い、先を行くアイに追いついてぼやいた。


「ここ、エアコンついてないぜ。蒸し殺す気か」

「せいぜい十人しか収容できないし、ハコだけで良いと思ったんじゃない? どうせ内地の収容所が空くまでの仮置き場みたいなもんだし」

「気の毒なのは看守だよ。今日の最高気温、三十三度って聞いたぜ」


アイも首筋に垂れてきた汗を袖で拭い、正面の扉に手をかけた。朝食の時間はとうに終わり、独房にはいま清掃業者が入っているはずだ。となれば、残る場所は一つしかない。


凹みだらけのアルミ扉を押し開けると、熱い風に染み込んだ砂とゴム製品の臭いが正面から顔に吹き付けてきた。アイとトシは手を翳して太陽の白い光から目を守り、その奥にさらに進んだ。逆光になった運動場のネットに、一拍おいて緑の色がつき、そこに佇む四、五人の捕虜たちの作業着を染めたどぎつい橙色が二人の目に突き刺さる。揃って上を見上げている彼らの視線を辿ると、ネットを支える支柱の上部に片手でぶら下がる一人の男が見えた。彼の靴先から地面までの高さはおよそ三、四メートル。男は地面で待つ他の男たちと談笑しながらネットに引っかかった何かを取り外し、外したそれを下に投げた。音もなく地面に落ちたそれは、バドミントンのシャトルだった。シャトルを拾った男たちがネットの傍から離れ、ぶら下がった男に手を振りながら去っていく。残された一人は肩越しに地面を見回し、下に誰もいないことを確かめたようだった。おざなりな安全確認の後、男はいきなりぶら下がっていた手摺から手を離した。落ちる、と、アイは思った。


「何して……っ!」


アイよりも先に走り出しかけていたトシは、だが次の瞬間に足を止めた。落下の途中で目の前の支柱を掴んでは離し、勢いを殺しながら地面に降りてくる男の姿を見たためだった。彼が地面に降り立った拍子に、彼のTシャツの襟の隙間から白い欠片が飛び出て、その首元に垂れ下がった。アイはその欠片を見て、片目を眇めた。彼女の視線に気づかない男は、ペンダントヘッドにしているらしいその欠片を服の下に押し込んだ。顔を上げた男はここでようやくアイに気づき、ズボンのポケットに親指をひっかけながらこちらに歩いてきた。トシはその悪びれない態度に、あからさまに舌打ちした。


「なに偉そうにしてんだよ。猿野郎が」


その「猿野郎」を咄嗟に助けに行こうとしたことなど無かったように、彼は悪態をついた。アイはこちらに向かってくる男の胸の辺り、服の下に隠されたものから目を離せずにいることを誤魔化すために、のんびりとした口調でとりなした。


「まあまあ、人間だって猿の仲間なのは一緒だから。でもあの握力いいなあ、木にも岩にもすぐ登れるじゃん。隠れる場所いくらでもあるよ」

「今のお前は隠れる用事ないだろ。それより奴らの社会性の無さだよ。これだから新峡人は」


トシはアイを押しのけるようにその前に出て、目の前にやってきた男を睨みつけた。男はトシより頭一つ分小柄だったが、いきなり詰め寄って来た大柄な相手に怯む様子はない。トシは構わず、そのまま男を怒鳴りつけた。


「新峡人は時計も読めないのか。人と十時に会う約束しておいて、こんなところで何してやがる」

「は? 誰だお前。俺が会う約束をしたのはその女だけだ。お前に関係ないだろ」


トシと男はおよそ友好的とは言い難い声音で言い合いながら、徐々に距離を詰めていく。上背と場数でいけばトシの方に分があるが、力は明らかに相手の方が上だ。アイは二人が掴み合いになる前にその間に割って入り、男たちの顔を交互に見ながら互いが互いのリーチに入らないよう牽制した。


「まあまあまあ。一時間遅れたわけでもないし、お会いできたんだからこちらは構いませんよ。アイ、こちらは私の同僚のトシです。私の助手をお願いしました。ご覧の通りちょっと融通の利かないところはありますが、腕は確かですから」


アイが笑って見せると、男はいちど小さく舌打ちして目をそらし、彼女が上腕に乗せてきた手を振り払った。そのまま彼が背を向けたのを見届けて、アイは次にトシを宥めた。


「トシもほら、正論言ってるのは分かるけど、今回のメインは観察だから。ちょっとは大目に見てやって。ね?」

「甘すぎるんじゃないか? 新峡人なんて猿と一緒だ、舐められたら終わりだぞ」

「うん、舐められても何でもいいよ。今あいつを檻に入れてるのは私達なんだから」


アイは肩越しに男を振り返り、彼がまだこちらに背中を向けていることを確かめながら、抑えた声で答えた。トシは返す言葉を探して口を開きかけ、結局なにも言わずに小さくいちど頷いた。掌で触れるトシの肩からこわばりが消え、アイはようやく手を離した。思わずため息をついたことを悟られないうちに、彼女は軽い足取りで男の正面に回り込み、にこやかな表情を作って彼に話しかけた。


「では、射撃練習場の方に移動しましょうか。こっちですよ」

「……」


男はアイから目をそらしたまま、彼女の後ろについてきた。一面だけのコートを回り込んで進むと、先ほど彼からシャトルを受け取った捕虜たちがこちらに気づき、二人ほどが手を振ってきた。アイが背後を振り返り、キャップのつばを回してカメラを向けると、男がほかの捕虜たちに手を振り返し、友人同士のように挨拶をして別れる様が見えた。少し離れて追いかけてくるトシとの距離を確かめた彼女は、歩調を緩めて男に話しかけた。


「あの方たち、ご友人ですか? 確か隣の集落の方でしたね」

「知らない。お調子者がシャトルを打ち上げた時に、通りかかっただけだ。あいつら脚を怪我してただろ」


男はまだ機嫌を直してはいないようだったが、ぼそぼそとした口調で返された答えは充分にアイの興味を引くものだった。彼女は自分より十センチほど背の高い男の顔がカメラに映るように距離感を調整し、会話を続けようと試みた。


「気づきませんでした。それで自分から手助けを申し出たんですか? 知らない人なのに?」


アイの問いかけにしつこさを感じたのか、男は僅かに眉をひそめた。彼は少しばかり皮肉げにこちらを見下ろし、答えた。


「何だよ、そんなにおかしいか? お前ら人情なんて無さそうだもんな。怪我人が居たら殴りつけて物を盗って行くくらいが関の山か」

「え、私たちってそう見えます? そんな無法地帯いやに決まってるでしょう。ふつうに助けますよ。そっちこそ、隣の集落の人の顔を知らないってどういうことですか? どうせ二十人ちょっとしかいないのに」

「季節ごとに人が入れ替わるのに、いちいち覚えていられるか。平地に出稼ぎに行く奴らと、冬の間だけ一緒に住んだりするんだよ。春になったらそいつらはまた他所へ行く。冬が終わるまで助け合えば充分だろ」


普通の人間が男の言ったような共同生活をしていたなら、軽率でいい加減な輩だと思われたかもしれない。アイは自分の感情を差し挟むことなく男の話を聞き、運動場の扉を押し開けて彼を連れ出した。人のまばらな廊下を通り抜け、収容所の外に出た瞬間、砂埃まじりのざらついた風が彼らを掠め、アイは思わず翳した手の影からその向こうを見た。立ち並ぶ何棟ものテントと、行き交う男女の影が視界の端をかすめた。忙しい時間帯であるから人は多いが、大混雑というほどでもない。霞む空気のさらに奥へと進もうとしていたアイは、半歩うしろを歩いていたはずの男が急に足を止めたのに気付いた。ひるんだように後ずさりかけた男の様子に気付かないふりをして、彼女は彼を振り返り、話しかけた。


「どうかなさいました? アイ」

「……別に」


答えた男の顔色は不自然に白く、まるでこれから拷問されると察した囚人のように見えた。ただの人混みに異常なほどの恐怖心を示す彼の横顔を見て、アイは声に出さずに呟いた。


ああ、ここで出るんだ。『人間』じゃないところって。


◆◆◆


四日ぶりに収容所の外に出たアイは、迷彩服姿の人間がこちらに溢れてきて自分を圧し潰すような錯覚を覚えた。一瞬感じた眩暈を抑え込んで再び正面を向いても、そこには同じ服装をした数千人の人間がひしめき、特に緊張した様子もなく歩き、会話している。背筋に走った恐怖とも戦慄ともつかない悪寒に耐えるために足を止めた時、斜め前を歩いていた女の声がした。


「どうかなさいましたか? アイ」


女の顔には昨日と同じく不健康そうな隈が浮いていたが、特に緊張や恐怖を覚えているようには見えなかった。とっさにアイは「別に」と答えたような気がしたが、再び正面を向いて人間の坩堝を通り抜けようと歩きだした小さな背中に付いていくのは、かなりの気力を必要とした。前後左右に他人のいる状態では、すれ違いざまに殴りかかられたとしてもまともな反撃はできない。だが女は平然としてその中に分け入り、自分よりはるかに大柄で武器まで持った男のそばを通り抜けていく。その途中で、女の腕がすれ違った男の荷物の角にぶつかった。殴られる、と、アイがとっさに女の方へと手を伸ばかけた時、男がこちらを振り返った。男は無表情に女を見下ろし、抱えていた荷物の角を引き寄せると、女にいちど会釈した。


「すみません」

「いえ、こちらこそ」


女が答え終わる前に男は歩き去り、彼女はまた何事も無かったかのように歩きだした。アイは変わらず警戒感に背筋がざわつく感触をこらえ、その後に続く。収容所の運動場のようにネットで囲われた一帯のそばまで来るとようやく人混みが途切れ、アイはTシャツの下に隠した首飾りを服の上から握り込んだ。息苦しさが和らぎ、頭の中に響く自分の鼓動が徐々に落ち着いていく。首筋にじっとりと滲んだ冷や汗を襟で拭った時、数歩先に佇んで彼を待っていた女と目が合った。人形めいた黒い両目と、迷彩柄のキャップに取り付けられたカメラ。三つの目が、瞬きもせずにこちらを見つめてくる。彼女が誰かに命じられて、アイを観察していることは明らかだった。その指示が彼女にどれほど強く伸し掛かるものなのか、アイには知る由もない。


『この中で、こいつらに家族を殺されなかった奴が一人でも居るか? 俺達は甘すぎたんだよ。殺すんだ。そうしなければ、こいつらは俺達を皆殺しにするんだから』


苦い記憶が不意に蘇り、アイは自分の足元にわだかまる円い影を見た。血まみれの手で脛の服地に縋り付いてきた男の表情と、子供の泣き叫ぶ声がまだ頭の中にこびりついている。思わず首を振ってその記憶を追い出そうとした彼の耳に、立て続けに小銭を入れる小さな音が聞こえた。いつの間にか近くの自販機の前に立っていた女が、財布を片手にしてアイを手招きしていた。


「アイ、好きなの選んでください。今日は最高気温三十三度だそうですよ」


声をかけられたアイはようやく我に返り、自販機の方へと歩いて行って、ランプの点いたボタンの一つを押した。取出口に落ちてきたスポーツドリンクのボトルを引き出して顔を上げると、興味深そうな女の黒い瞳と視線がぶつかった。


「……何だ」

「いえ。自販機よく使われるんですか?」

「そこらじゅうにあるんだから、使うだろう。何か悪いのか」

「とんでもない。ただ、新峡人は腕力も握力も私たちの一、二割増しと言いますから、力加減が難しそうだと思っただけです。自販機のボタンを壊した話なんていうのもあんまり聞かないし、どうやって使ってるのかずっと疑問で」

「ふつうは親を見て覚える。俺は兄貴に教わった」


アイは掴んだボトルの蓋を親指で回し開け、冷たい飲み物を喉に流し入れた。自分の答えを聞いた女がどんな顔をしていたか、彼は一瞥さえもしなかった。平然として立ち上がったように見えた女は続けて二本飲み物を買い、まだ少し離れている『同僚』の男に向けて大きく手を振った。


「トシ、麦茶でいい?」


トシと呼ばれた男は女に向けて手を振り返し、了承の意を伝えてきた。二人の親しげな様子は他人とは思えなかったが、かといってきょうだいにも見えない。アイは女がボトルの一本をポケットにねじ込むのを待って、彼女に声をかけた。


「あいつ、お前の旦那か何かか?」

「いや、だから同僚で友達ですけど」

「男と女で? 生活圏が違いすぎて、よほどの理由が無かったら接点なんて無いだろう」


アイは子供の頃に死んだ母や、同じ集落の女たちの姿を思い浮かべて問いを重ね、ふと正面に立つ女の顔を見た。彼女は気まずそうな笑みを滲ませ、瞼の上側の縁をなぞるようにゆっくりと黒目を回した。その表情の意味は、アイにもよく分かった。遠慮がちな人間が、他人の見当違いを穏やかに正そうとする時の顔だった。


「まあ……言いたいことは分からなくもないですけど、そういう生活スタイルは私達の祖父さん世代までですね。今時、同僚が男か女かなんて気にしてたら仕事になりません」

「祖父さんの代と仕事のやり方が違うってどういうことだ? 男と女を混ぜたら、問題が増えて収拾がつかなくなるだけだろう。男女別にしたほうが上手くいく」

「それじゃどの仕事もずっと人手不足で予算不足ですよ。労働人口を増やさないと外国との競争に負けていくし、どの業種でも、これからは男女どころか高齢者や障がい者でも仕事ができるようにしないと、担い手がなくて潰れていきます。そもそも昔みたいに、丈夫な男の人しか金を稼げない世の中なんて嫌ですよ。みんな貧乏で不自由なんですから」


女の話には、これまで会った『人間』たちと同じ種類の確信が潜んでいることをアイは感じた。アイたちを『新峡人』として区別する彼らは、親や祖父母の代と違う生き方を何の拒否感もなく受け入れる。『国』だとか『みんな』だとかいうもののために男も女も親から教わったことのない仕事をし、より多くの人間が便利で豊かに暮らすことを『正しい』と信じている。その『みんな』とやらの殆どは親類縁者ですらなく、おそらく一生顔を合わせることさえないというのに。


アイは女との間に違和感を抱えたまま、彼女の迷彩服の襟元を見た。初めて会った時に持っていた分厚い本の表紙と同じ太陽のマークが、そこに縫い込まれている。この女の前にアイと面談した二人のチャプレンも、同じマークを付けていた。彼らが、さらにアイの理解の及ばない『信仰』を共有していることは明らかだった。アイは正面に立った女の横顔を見、彼より明らかに小柄で非力であるはずの彼女に言いようのない気味の悪さを覚えた。


お前は、何だ。


アイはとっさにそう口走りかけて、思わず唇を噛んだ。この女が持っている情報を聞き出すまで、彼女と決別するきっかけを作るわけにはいかなかった。そんなアイの目の前で、女は自分の分のペットボトルの蓋を両手でねじり、開けようと力を込めていた。だが結露で滑ったのか、彼女は何度か手を振って擦られた指先の痛みを誤魔化している。「麓のやつらは非力ぶって同情を買うのが習慣だ」と村の老人たちは冗談交じりに言っていたが、これまでアイの出会った『人間』は嘘でも演技でもなく、握力も腕力も大したことはないようだった。アイは女からペットボトルを取り上げ、親指で蓋を回すと、彼女の手にまた返してやった。少し驚いた様子でそれを見ていた女は、だがボトルを受け取ると、初めて愛想笑いではない笑顔を浮かべてアイの方をまっすぐに見た。


「あ、すみません。ありがとうございます」


嬉しそうな笑顔は、どう見ても普通の人間だった。








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