諦念にはキャラメルラテを

@aizawa_138

諦念にはキャラメルラテを

『あと15分くらいで着きます』


 地下鉄の駅を出て早々に赤信号に掴まった私は、待ち合わせている仕事仲間の酒井さんにメッセージを弾いて、スマホをポケットにしまう。煌々と照らす太陽。眩しく照り返すアスファルト。私は額からだらだらと溢れ出してくる汗をハンカチで拭う。


 久しぶりにスーツを着た日に限って三十六度の猛暑日なのは不運でしかない。おまけにスーツのサイズがあまり合っておらず、胸元が引き締まっていて苦しい。着心地を整えようと、スーツを伸ばしたりしていると、ポケットがぶるっと震える。スマホを取り出すと酒井さんから『了解です』の返事が。


 いつもなら何時間も未読でいる酒井さんだが、今日は返信がやたらと早い。というのも当然だろうか。私は今日、仕事を辞めるのだ。


 現在、大学三年生の夏。周りが就職活動で忙しい中、私だけは変わらずのんびりと大学生活ライフを過ごしていた。レンタルした映画をゴロゴロしながら観たり、レポートの提出期限が迫ってきたら締め切り間際に片付けるような体たらくな生活。たまに衝動的に何かに挑戦してみるもその習慣は三日坊主どころか、一日で打ち切りとなる。そして、ちょうど二週間前の出来事だった。


「来週からインターン行くことになったんだよね」


 私の大学での数少ない友達、美鈴みすずにそう言われた。限界大学生の私と美鈴は就職活動なんかギリギリになってからやればいいという考えを、無意識のうちに共有しているつもりだった。そう思い込んでいたときに彼女からの突然の報告。同じレベルに立っていると思っていた美鈴に、気づかぬうちに何歩も先を行かれていた。私は大学生の余裕に浸りすぎている危篤な状態だと気づかされた。


 そして、就職活動に専念しようと思った私は仕事を辞めに行く。仕事といっても地方局のテレビ番組にちょろっと出演するだけ。普通のバイトと変わらないほどの額しか稼げず、決してそれ一本で食べていけるような、たいそうなものではない。


 ようやく変わった信号に、皆が一斉に歩き出す。携帯を耳に当て、ビジネス用語を発するキャリアウーマン。徐々に私の視野角に入り込んでくる早足のサラリーマン。周りの人々のきびきびとした姿が、不格好でだらしない私をさらに強調する。


 人混みに飲まれながら、二区画先にあるオフィスビルのところを曲がる。日陰とは言えど、サウナに入れられたような蒸し暑さは変わることない。


「もしかして、小春さんですか?」


 就職活動でも暑い中、この服装にならないといけないのか、とダメな私ならではのことを考えていると、突然後ろから声をかけられる。ふと振り返ってみると、そこにはきらきらとした眼差しを私に向けて立っている女子高生がいた。


 しかし、私はこの女子高生が誰なのかも、なぜ私の名前を知っているのかもわからない。私が数年前に通っていた高校とは違う制服で、私だけが一方的にこの子を忘れているなんていうことはないはずだ。


「わあ、やっぱり小春さんだ!」


 陽気な口調の彼女は訝しんでいる私に近づいてくると、感嘆の声を漏らしながら私を見物する。


「えーと、なんで私のことを?」

「テレビですよ! よく『ぱぱっと愛知』に出てるじゃないですか!」


 『ぱぱっと愛知』。私が仕事として出演している、愛知県の魅力を紹介する番組の名前なのだが、決して人気なプログラムではない。お年寄りや主婦が主な視聴者層となっている、むしろ不人気寄りの番組だ。


 私はこの番組で愛知の魅力を発掘する「調査員」として、定期的にロケに派遣される準レギュラーメンバーのうちの冴えない人物枠なのだが、この高校生が私のことを知っていることがすごい不思議だ。ほとんどの高校生は番組名すら知らないだろうに、この子は私の名前まで知っている。


「小春さん、ちょっとそこのカフェでお話でもしません?」

「え、えーと、今ちょっと──」

「よし、じゃあ決定ですね!」


 私が飲み会を断りたいときに使う、やんわりとした常套句は通用せず、女子高生の覇気に押し負けてしまう。彼女は私の腕をがしっと掴むと、そのままカフェに直行する。「いらっしゃいませ」と暖かな歓迎を受けながら、彼女は店員に向かってピースを作って、「二名です」と示す。酒井さんとの約束が頭をよぎりながら、私は彼女と向かい合うように窓際の席に腰掛ける。


「わたし、小春さんが『ぱぱっと愛知』のメンバーの中で一番好きなんですよ! あ、言うの忘れてました。百田葵ももたあおいと言います!」


 葵さんは身を乗り出しながら私に告白をする。大ファンであることは今までの会話からひしひしと伝わってきていたのだが、言葉で直接言われるとなんだか照れる。


 私は顔が火照っているのを悟られぬよう、メニュー表で顔を半分隠す。そんな私に見向きもせず、葵さんは「すみませーん」と相変わらずの調子で店員を呼び寄せて、キャラメルラテを注文する。注文の決まっていなかった私は、慌てて「同じので」と返した。


 注文を済ますと、葵さんは「あっ!」と何かを思い出したかのようにごそごそとカバンをいじる。弄ること数秒、彼女は見覚えのあるキーホルダーをばっと見せびらかしてくる。愛知県の岡崎市のゆるキャラであるオカザえもんのキーホルダーだ。


「じゃーん! 小春さんが番組で紹介してたやつ!」


 かなり前、番組のロケで岡崎市に派遣されたときのことだ。岡崎市の中心部に位置する岡崎城に訪れたときに、土産を売っている売店に行くことになった。ロケスタッフからは「気に入った土産を紹介してくれ」と頼まれ、私は目に入ったオカザえもんのキーホルダーを選んだ。番組内では「小春のイチ押し商品」として取り上げられたわけなのだが、このキーホルダーにおすすめの商品として選ばれるだけの理由があるのかというと、そういうわけではない。というのも、オカザえもんの顔は髪、鼻、口で漢字の「岡」を作っていて、愛嬌のあるゆるキャラよりかはブサ可愛い、コアなファンに愛されるような見た目をしているのだ。


 スタッフに呆れられるほどの物好きなチョイスのはずだったのだが。


「やっぱりこのキーホルダー可愛いです! 小春さんの好きなもの全部欲しくなっちゃう!」


 自慢するようにオカザえもんのキーホルダーを前に突き出す葵さん。笑みに溢れた葵さんと無機質な表情のオカザえもんが対照的で違和感を感じる。


 たとえ、マイナーなテレビ番組に出演している私が好きだとはいえ、わざわざ岡崎までこんな変なキーホルダーを買いに行くファンはいるだろうか。全国的に有名なタレントならまだしも、無名の出演者に勧められたものを葵さんのように軽々と行動に移す人はいないだろう。葵さんの私への愛は並大抵のものではないのだと思う。もはや、その愛は狂っているまである。


「わたし、小春さんの自由で淡々と作業していく、シュールなロケがすごい好きなんですよ!」


 反芻はんすうしても褒め言葉なのか疑わしかったが、ファンが本人の前で毒を吐くわけがないだろうと、勝手に褒めていることにしておいた。


「特に常滑港とこなめこうで釣りをする回が面白かったです! 小春さんがコメントせずに黙々と釣っている様子とか!」


 半年ほど前にあった放送のことだろう。常滑港から少し沖の方へ出て、愛知県の魚を実際に釣り上げて紹介するものだ。釣った魚をカメラに持っていって見せびらかす……というのが本来のテレビロケとしての在り方なのだろうが、スタッフから「釣った魚は持ち帰ってもいい」と聞いていた私は、ロケそっちのけで食費を浮かすために魚釣りに真剣だった。


 この回はなんとか同船していた魚のエキスパートが上手く話を繋いで、放映するだけの尺を稼ぐことができたのだが、私の奇行にスタッフからは完全に呆れられていた。こっぴどく叱られるのではないかと怯えていた私だったが、私が番組開始当初の古参調査員であり、貴重な調査員が減っていくことが怖かったのか、少しの注意で済まされた。


 あの回はあまり反響がよくない回だった気はするのだが、葵さんは私のどうしようもないような行動が好きなのだろうか。ふと、疑問に思っていると、店員から二つのキャラメルラテが机に差し出される。


「わたし、来年から『ぱぱっと愛知』の調査員になろうか考えているんです」


 明るかったトーンからは一転、葵さんはキャラメルとホイップクリームをスプーンでかき混ぜながら、真面目に話を切り出す。


「わたしの実力ごときで調査員になれるかが不安で、調査員になるために小春さんの方から推薦……とかしていただくことってできませんか?」


 調査員が辞めていっているから推薦なんかなくてもなれる、と喉元まで言葉が出かかるも、そんな現実を純粋そうな葵さんに教えたくなかった。それに私が推薦しようにも、今日その仕事を辞めに行く人が調査員候補を紹介するのなんて、なんだか気まずい。


「お願いできますか?」

「……実は私、今日で『ぱぱっと愛知』を辞めるんだ」


 罪を自白するかのように零れた私の声。葵さんはぽかんと口を開けたまま固まる。しばらくして、彼女はマーブル模様の飲み物が入ったカップに視線を落として俯く。


 ◇


 私は昔からテレビが好きだった。笑いをかっさらうコメディアン、ゲストとして呼ばれた大物女優。好奇心に溢れた幼い私には、画面に写る人もセットもすべてが輝いて映った。興味津々でずっと画面に張り付いてしまう。そんな私を、母が無理矢理引きはがす光景も我が家では珍しくなかったが、何度引きはがされても、またテレビにのめりこむ。当時の私には内容が理解できないトークショーでも、繰り返し同じものを視聴する。


 出演者が面白いから観ている、というわけではない。どちらかといえば、アイドルや男の子でいうところのスーパー戦隊に憧れるのに近い感覚だった。テレビを視聴していくうちに、いつしか、私はテレビ出演を夢見るようになっていた。


 夢を抱き続けること数年、小学校高学年になった私はよく観ていた番組のキッズゲストを募集しているという広告を街中で見かけた。夢を叶えるチャンスだと思った私は、母に飛びついてオーディションに申し込むように訴えた。元からテレビに出たいという話は母によく語っていたのだが、内向的な私が見たことのないほど意欲的になっていたことに母は驚いていた。母も「小春もそろそろ何かに挑戦したほうがいい」と言って、迷いなくオーディションに出る許可をもらった。家族と相談しながら、私の魅力となるポイントを応募用紙いっぱいに記載して郵便に出した。


「……小春ちゃん、ダメだったみたい」


 数か月後に返ってきた結果は一次選考落ち。私が番組のレギュラーとなって、いずれはテレビ局の垣根を越えて活躍を……と妄想を膨らませていたときに耳にした、どこか言いづらそうにする母の言葉。


 ショックだった。私ならテレビで輝ける素質があった、と思っていた私はこの現実を受け入れられなかった。二次選考や最終選考でもなく、凡人として最も多くの人が振り落とされる一次選考落ち。才能のある私に見向きもしてくれないようで悲しかった。


 それからしばらく経った大学一年生の夏。厳しい現実に揉まれ、テレビに出演したいという夢はだいぶ小さくなったものの、決して諦めきれることはなく、心のどこかでその炎はひそかに燃え続けていた。


 そんなある日、地方テレビ局の新番組、『ぱぱっと愛知』の調査員を募集しているという話が舞い込んできた。オーディションを受けることにした私だったが、タレントになりたいと前向きに動いていたわけではない。将来のことを考えるたびに浮かぶ、テレビへの憧れを折るいい機会だと意気込んで臨んだものだった。


 落ちるつもりでいたのだが、結果はなんと合格。夢を諦めるきっかけにしようと応募した私だったが、テレビ出演が決まったことで私のテレビへの憧れは捨てるどころか、むしろ再燃することになった。子供の頃に思い描いていた全国に流れる人気番組などではなかったが、テレビ番組に出れること、それも準レギュラーメンバーとして採用されたことが、私の炎を燃え上がらせる十分な着火剤となった。


 調査員になって数か月後。私は午後の一時半から始まる念願のデビュー回に心を躍らせていた。その日の私は大学をサボって、放送開始五分前から、テレビの前で時計と画面を交互に確認しながら待機していた。


 そのときに私が紹介していたのは、名古屋市の商店街である大須。神社仏閣などの歴史的な建造物や、オタクらしいサブカルチャーな店も並んでいて、老若男女問わず人気のある、名古屋の中でも魅力的な場所だ。商店街を練り歩きながら、地元の人に話を伺ったり、名物となっているみたらし団子や肉まんなど何種類かの食べ物を頬張って食レポをした。大須全体の魅力を紹介したところで三十分の放送は終わりを迎えた。


 番組終了後、私は即座にスマホを片手に、SNSでの反響を調べる。私の名前の入った最新の投稿を何度も何度も更新する。しかし、十分ほど更新し続けても投稿数はわずか七件。ちょっとした小遣い程度でやっている他の調査員は数十件の反響がある中、私だけは一桁。それも、七つのうちの三つは同じ人からの投稿だった。


『小春ちゃん、ちょっと自分のことに夢中すぎるのが……ね』


 厳しい言葉で私を否定するわけではないものの、一つの投稿がやけに脳裏に焼き付く。テレビ番組の中で素で楽しむことのどこが悪いのか。気持ちの底から視聴者に伝わっていていいじゃないか。私の中の信念を曲げるような一言に疑問を持つが、回を重ねていくにつれ、私に当初はポジティブな意見を投稿してくれていた視聴者も、このユーザーと似たような内容を書き込むようになった。


 気になってディレクターに私の改善点について相談してみるも、「小春ちゃんはこのままでいいよ」の一点張り。彼の答えにくそうにする表情からして、おそらく私へのアドバイスはあったのだと思う。だが、ちょっとした厳しい言葉に影響されて、ただでさえ少ない調査員が減っていくのは怖かったのだろうか。彼は番組やタレントの質よりも、番組の存続を優先した。


 そして、私は理解してしまった。


 私は才能があるのに、見向きもされないわけではない。そもそも私にそんな才能などないのだ、と。


 ◇


「……まだ辞めないでくださいよ」


 すすり泣きながら呟く彼女の繊細な言葉を私は噛みしめ、項垂うなだれたままキャラメルラテを時計回りにかき回す。


 ファンを目の前にして、引退の話を切り出した私の性格は、どれだけ悪いのだろう。テレビの中のタレントに憧れていた身として、ファンとして応援していた人が、いきなり辞めるなんて言い出したら嫌だ。葵さんの引退を止めようとする気持ちもわかる。


 だけど、叶えられない夢を追い続けてしまうよりかはここで諦めてしまう方がいい気がした。


 私が初めて酒井さんに番組を降りる話をしたとき、「小春さんはこの番組に必要な存在」なのだと何度も私に頭を下げて告げてきた。酒井さんのお願いが本音であったのか上からの命令であったのか私は知らない。しかし、その都度「就活があるので」と、無理強いできない理由を示して、要求をはねのけた。


 そうやって、酒井さんに理由付けをする私だが、就職活動というのは私の夢を捨てさせるための都合のいい理由なのだと心の奥底で分かっている。内心続けたくても、ここでけりをつけないと無謀な挑戦をし続けてしまう。向いていない夢をひたすら追い続けてしまう。また同じ失敗を繰り返す私が怖かった。追い続けた夢もやっと焼却処分することができると思うと、どこか楽になれる気がした。


 他と切り離されたかのように静寂せいじゃくに包まれた私たちのテーブル。しばらく間をおいて彼女は続ける。


「……わたし、今まで夢なんて諦めるものだと思っていたんです。追っかけてもどうせ叶えられないんだろうって」


 軽く握りしめた手を小さく震わせる彼女。今にも割れてしまいそうなほどに脆い声。


「……そんな投げやりになっていたときに、小春さんと出会ったんです。最初は何でこんなおかしなことしてるんだろうって思ってたんですけど、しばらくしてから、小春さんがどんなことにも本気で取り組んで、夢を持った生き方をしていることに気付いたんです。そんな小春さんの姿がわたしを変えたんです」

「……変えた?」


 私はスプーンをゆっくりと動かして、キャラメルラテの流れを逆にする。


「元々、わたしはアナウンサーを目指していたんです。中学校まではその夢を追っていたんですが……当時のわたしにはアナウンサーっぽい魅力が何もなくて、諦めてしまったんです。なりたくても、どうせわたしはなれないんだろうって勝手に割り切っていたんです。でも、小春さんに出会って好きに夢を追っていいんだって気持ちが変わりました。気づけば、アナウンサーへの道へと一歩ずつ進み始めていました。今のわたしがいるのは全部小春さんのおかげなんです」


 葵さんと出会ったときは陽気でおちゃらけた女子高生で、私よりも破天荒で楽しい人生を歩んでいるというイメージを持っていた。しかし、そんな人が、私と同じような境遇で、同じように挫折して、諦めきれない夢を追いかけていたこと、そして、彼女の原動力として私が影響しているとは思わなかった。


「小春さん、今の私の夢、知ってますか?」

「……アナウンサーじゃないの?」

「アナウンサーになる前に遂げたい夢です」

「『ぽけっと愛知』の調査員になること?」

「うーん、ちょっと違います」


 窓から差し込んできた太陽光に、カップの中のクリーム色の液体がかすかに照らされる。


「わたし、『ぽけっと愛知』の調査員として、小春さんと一緒に仕事をすることが今の夢なんです。だから小春さん、辞めないでください」


 少し間をおいて彼女は続ける。


「……小春さんが勝手に夢を諦めてしまったら、私も夢を諦めるってことなんですから」


 水滴がぽつぽつと机に落ちる。


 他人は簡単にそう言える。葵さんは私がどれだけこの仕事を辞めるかどうか悩んできたのかを知らない。何度も何度も考え直した決断を簡単な「辞めたい」という気持ちで決めたことかのように勘違いしている。葵さんに私の気持ちを理解できるわけがない。


 私にとってテレビの仕事を辞めるというのは、幼少期からテレビについやしてきた時間を否定するようなものだ。ぼんやりと見据えた夢とはわけが違う。


「ねえ、それって私が辞めたくらいで諦めちゃう程度の小さな夢なの?」


 脳内で渦巻いたムカつきが無意識に声に乗ってとげとなる。突然のぐさっと刺す言葉に彼女は一瞬目を見開いて動揺する。


 夢というのは勝手に自分が追いかけたくなってしまうものだ。誰かに何を言われても、周りが変わっていっても、ひたすら、その夢のためにのめりこんでしまう。葵さんのように誰かが辞めたくらいで諦めちゃう夢は夢とは言わない。


 夢を掴みたいと思い続けて、ひたむきに努力してきた人間はドキュメンタリー番組で散々と観てきた。何かにその夢をへし折られそうになっても諦めずに走り続ける人だけが、夢を掴むことができるのだ。すぐに諦めるものを「夢」と掲げるのはこの世界を舐めている。


「夢っていうのは私のように──」


 感情の赴くままに吐いた言葉。だが、その続きがなかなか出てこない。


 私は無我夢中に夢を追いかけていたのだろうか。


 ふと、降ってきた疑問。即答できるはずなのに、なかなか頷くことができない。


 タレントになりたくて、オーディションを受けても才能の壁の高さに気付かされたあの頃。テレビに憧れていた私のどこかが変わってしまったかのように感じる。もう、失敗したくはない。挫けて夢を諦めたくない。そう思って、私自身が失敗しないラインまで夢を、いや、目標を下げ続けてきた。


 テレビに出たいという思いは変わらずあったが、全国放送の番組に出ると掲げた目標は次第に私自身が実現できる地方番組に出演するというラインにまで下がった。才能がないと気づいた私だったが、夢を実現するために努力したか、というと違う。無理だと思った夢を取り下げて、努力から目をそむけ、実現可能なレベルまで夢を変えてきただけだ。私は一つ失敗をしたくらいで挑戦することが怖くなっていた。少し挫折したくらいで諦める小さな夢を持っていたのは私だったようだ。


「……それならそれでいいです。私が小春さんのポジション奪いますから」


 少し涙の交じった声で、宣言するかのように葵さんは言い切る。そして、彼女はようやく顔を上げる。


 涙に満ちた彼女の目尻。くしゃっと崩れた表情でも彼女はにっと笑う。ぎこちないはずの彼女の笑みはどこか美しく私の目に投影された。


 彼女は涙を思いっきり腕で拭き取ると、キャラメルラテの入ったカップを傾けて、余った液体を一気に口に注ぎ込む。「ぷはあ」という声を漏らして、カップをカタンとソーサーの上に置く。


「わたしはそろそろバスがあるので! これで失礼します!」


 彼女は出会ったばかりのときの元気を取り戻して、高らかに宣言する。リュックを背負って店を出て行ったと思うと、体を店内に覗かせて「代金は出世払いで!」と一言添えていく。


 ……葵さんは本当に変わっている子だ、と当たり前の感想が飛び出してくるも、なんだか過去の私に同じことを言っている気がして、その面白おかしさに笑ってしまう。


 ゆっくりと甘いキャラメルラテを堪能する。私は千円程度の支払いを終え、カランカランと鳴る吊り下げベルの音を耳に、店を後にする。路地へ出たのと同時にポケットがぶるっと震える。


『まだですか?』


 酒井さんからのメッセージが届いていた。


『やっぱり今日の話はなしで』


 真夏の空は青く澄んでいて、変わらず太陽は燦爛さんらんとしていたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

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