第21話


「現在時、午後十一時となっております。明朝六時までにはチェックアウトできるよう、対応いたします。今しばらくお待ちくださいませ」

 相沢さんが叫ぶ。

 六時にチェックアウトできるのならいいかと、文句を言いながらどこかへ行く人がいれば、不安に押しつぶされてその場で泣く人もいる。

 この子どもだけのホテルは、秘密基地だと思っていた。まさか、鍵がいなくなっただけで、こんな地獄のような場所になるとは思っていなかった。

「タイチ、どうする?」

「ごめん、こんなことになるなら、招待しなければよかった。招待状を取りに行くときに、なんかヤバいかも? って思ってたんだ。でも、ここに居るときは楽しいし、お前にもここに来させてやりたいと思って」

「気にしないで。相沢さんが六時にはチェックアウトさせてくれるって言ってるんだし、大丈夫だよ」

「支配人と仲いいのか? なんでそんなに信頼できるんだよ。なぁ、コウジは招待を申請したことがあるか?」

「え、まだ、ないけど? でも、申請方法は知ってる。受け取り方法も。相沢さんに教えてもらったから」

 ぼくが相沢さんの方を見ると、タイチも相沢さんを見た。その視線は、恨みがある人を見るかのように、少し尖っていた。

「招待状に、受け取り場所への案内が出るんだろ?」

「ああ、でるさ。でも、その後の記憶が、俺にはない」

 ぼくには、タイチが発した言葉がよく理解できなかった。

 記憶がない、なんて、ありえない。

「あの時、文字が消えただけだった。どこへ行けとか、どこにあるとか、そんな文字が浮かび上がったりはしなかった。ただ、体を乗っ取られたみたいに、口も体も動いた気がするだけ。気づいたら家に帰ってたし、気づいたら招待状を持ってた」

「え?」

「ここは、ヤバい場所だったのかもしれない。だから、大人にはナイショって、言われていたのかもしれない」

 確かに、そうかもしれない。

「ああ、いやだいやだいやだ……」

「タイチ、一旦落ち着こう」

「いやだいやだいやだ……」

「ねぇ、タイチ!」

 その時、タイチの体がグラングラン揺れ始めた。ぼくは揺すってなんかない。誰かが揺すっているわけでもない。それなのに、誰かに「しっかりして」って揺すられているみたいに、グラングランって。

「タイチ……ねぇ、どうしたの?」

 勝手に揺れる体に触れるのがなんだか怖くて、ぼくは声をかけることしかできなかった。

 タイチの体は、まだ揺れている。そして、足の先から少しずつ透けていく!

「え、どういうこと? タイチ、タイチ!」

 もう怖いとか言っていられなくなって、ぼくはタイチに手を伸ばした。でも、タイチの体に触れるほど近づけたはずの手には、なんの感覚もなかった。もっともっと、タイチの近くへ、タイチに触れられるようにって手を伸ばす。そうしたら、まさか!

 タイチの体を、ぼくの手が、腕が通り抜けた!

「え、え?」

 透けた範囲がどんどんと広がっていく。もう、タイチの姿の半分は、完全に透明だ。

「ごめん、ごめんコウジ。ごめん、ごめんごめんごめん……」

「いいから、大丈夫だから、ね、タイチ!」

 胸から上しかないタイチに、ぼくは叫ぶ。

「大丈夫だから、ねぇ、タイチ! どこへ行くの? どこかへ行くなら、ぼくのことも連れて行ってよ!」

 それまでぼくが少しだけでも冷静さを持っていられたのは、相沢さんに任せておけば問題ないと思えていたから。そのほかにも、目の前のタイチが、見たことないほど弱々しく見えて、自分がしっかりしなくっちゃって思ったからなんじゃないかと思う。

 でも、今、タイチは消えてなくなろうとしている。

 その様を間近で見ていたら、ぼくの少ししかなかった冷静さは、簡単に失われてしまった。

 おいていかないでほしい。

 この後どうなるのか、わからない。だからこそ、知っている人と一緒にいたい。そうすれば、少しは安心できるだろうし、少しは冷静に打開策を考えられる気がしたから。

「タイチ……タイチ!」

 もう、タイチの顔も、よく見えなくなってきた。口元が透明になったからだろうか。さっきまではわずかに聞こえていた呟きも、今は聞こえない。

 まるで、空気に溶けるように、タイチが消えてしまった。

 肩が揺れる。

 息が苦しい。

 誰かに助けてほしくて、必死になってタイチが元居た場所から、視線を動かす。

 阿鼻叫喚のロビーを、相沢さんが駆けているのが見えた。

「相沢さん!」

 叫んだ。相沢さんに届けと、腹の底から声を出した。大きな声は、骨を伝うだけではなく、鼓膜からもぼくの聴覚を刺激する。

 ああ、なんて情けない声なんだろうって、心のどこかに隠れている冷静な自分が思う。

 相沢さんに、ぼくの声が届いた。視線と視線が、確かに結ばれた。

 相沢さんが、駆ける方向を変えた。これで助かる、と、不確かな安心感を抱く。

「申し訳ございません。鍵については、もうしばらく――」

「タイチが、友だちが消えたんだ。グラングラン揺れてて、いろいろ呟いて、うなされてて、足の先から透明になって、触れなくなって」

 言いながら、涙がぽろり、と頬を駆けた。

「透明になって、消えた?」

「うん」

「うなされながら」

「うん」

 涙の向こうにある相沢さんの顔は、すごく冷静に見えた。さっきまでの慌てっぷりはどこへやら。彼女が学校でテストを受ける時なんかは、こんな顔をするんだろうなって、ぼーっと思う。そして、その逞しい顔を見て、やっぱり彼女に任せておけばこの問題は良い方に進むんじゃないかって、少し期待できたんだ。

「強制チェックアウトされているかもしれません」

「強制? そんなチェックアウトがあるの?」

「ええ。おうちの方に強引に起こされたときなどに発生するものです。強制チェックアウト後は、守秘義務違反と同等の扱いとなり――」

 なんだか難しい言葉をいくつも連ねながら、相沢さんが業務用の小型端末を操作し始めた。



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