第19話
「九時」
玄関の扉をきっちりと閉めているし、タイチの様子や部屋の中の雰囲気からして、タイチのお母さんは今、買い物か何かのために出かけているところだろう。
ひそひそと話す必要性をあまり感じられないけれど、それでもナイショ話となると、小さくて、どこか冷たい声で会話してしまう。
「俺も九時なんだけどさ。九時に寝たことなんてないっつーか。幼稚園とか低学年の頃はそんなこともあったけどさ」
「ぼくも、九時は早すぎるっていうか。だってさ、三秒で寝れるならまあいいけどさ、そんなすぐには寝られないじゃん?」
「そうなんだよな。九時までに寝ないといけないってことは、八時台には布団にくるまれってことだよ」
「無理だよね」
「ムリムリ」
ふたりの頭脳をもってしても、妙案を思いつくことはできない。
腕組み「うーん」と唸るだけの時間が、無情にも過ぎていく。
「あ、ぼく、お母さんに『ちょっと話してくる』って言って来たんだった」
「へ?」
――ピーンポーン!
悪い予感が的中した。
『ごめんくださーい』
お母さんの声だ。
タイチは、ぼくがタイチの家に来た時みたいに通話機能を使わずに、すぐに扉を開けた。
「あら、早い……って、もしかして、ふたりして玄関で話し込んでたの?」
お母さんの視線を追う。足元を見ている。靴を履きっぱなしであることを気にしたのだろう。
「いや、もう話が終わって、帰ろうとしてたところ」
「ああ、そう? なんだか長い気がして、おやつ持ってきたんだけど」
するとタイチが、何か閃いたように、
「マジですか? ありがとうございます! せっかく持ってきてもらったんだしさ、一緒に食おうぜ。ほらほら、中に入れよ」
「え?」
「日が暮れる前には帰って来なさいよ~」
「はーい! 日が暮れる前には帰れって言います!」
「よろしくね、タイチくん」
ぼくには数十秒の間に起こった出来事が、何がなんやらわからなかった。
そのあと、ぼくらはお菓子を食べながらチェックイン会議をした。
その結果、明日は早く起きて、学校へ行く前にやりたいことがあるから、今日は早く寝るっていうことにした。
タイチのお父さんやお母さんがどういう反応をしたのかはわからないけれど、ぼくのお母さんは「あ、そう」ってくらいだった。
「なんかよくわかんないけど、頑張りたいことがあるのね、頑張れ」
細かいことは聞かずに、お母さんはぼくの背中を押してくれた。
ちょっとだけ、心がチクチク痛かった。ナイショにするために、ぼくはほんの少し、嘘をついているからだ。
ご飯もお風呂も急いで済ませて、お父さんが帰ってくる前にベッドにもぐりこんだ。
なかなか眠れそうにないから、羊を数える。羊の数が、最高記録なんじゃないかってくらいに増えていく。
いつもより早いからなんだろう。いつものようには眠れない。
それでも、ぼくは何とか眠りにつけたみたいだ。
気づいたら、ぼくはホテルにいた。
ぐるりとあたりを見回してみる。タイチの姿はまだない。
「眠れたのかなぁ」
心配になってひとりごちた。フロントには行かず、ロビーでタイチが来るのを待つ。
すると、さっきまではそこにいなかったような気がするのに、ボワン、と突然タイチが現れた。
「間に、合った?」
「よ! タイチ!」
「おう、コウジ。間に合ったってことでいいのかな」
「いいんじゃない? だって、ちゃんと来られてるじゃん」
「そ、そうだな。チェックインは?」
「まだ」
「じゃあ、一緒に行こうぜ」
ピ太郎とピィピィと再会して、ぼくらはいつものようにやりたいことをし始めた。
ここでは現実のことを考えすぎるのは良くない。
だから、話したい事はいろいろあるけれど、「何ともなくてよかったね」くらいでとどまった。
「そういえば、今日はクレーンゲーム対決をしようって約束してたんだ」
「そうなの?」
「コウジ、お前も来るか?」
「もちろん!」
ピ太郎とピィピィを追うように、どこかへ向かって歩いていく。
なんだか妙に遠いけれど、不思議と疲れを感じたりはしない。
「ピ、ピピ」
「もうすぐつきそう?」
「ピ」
「おお、やっとか。ここ、思ったよりも広いんだな」
ぼくもそう思った。まるで、永遠に廊下が続いているんじゃないかって思うくらい、たくさん歩いてきたから。
やっとたどり着いたゲームセンターも、やっぱり広い。
それがしかも、タダで遊び放題らしい。
「まぁ、クレーンゲームで何か取ったところで、チェックアウトする時に持ち出せるわけじゃないんだけどさ」
「でも、練習にはなりそうだよね。ここでテクニックを身につけたら、取りたい放題かもしれない」
「あはは! 確かに。……あれ、約束してたヤツ、まだっぽいな」
ぼくには約束の人が誰だかわからないけれど、タイチが名前を言わないんだから、ぼくが知らない人なんだろうな、って思った。
知らない人の名前を聞きだしたところで、何がわかるでもない。
だから、ぼくはそれが誰だか気にすることなく、暇つぶしに目の前のクレーンを動かし始めた。
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