第4話


「……え?」

 羊が何匹になったのか、ぼくにはわからない。

 ぼくにわかるのは、羊を数えていたら、いつの間にか見たことのない場所にやってきていた、ということだけ。


 状況がさっぱりわからない。不安でいっぱいだけれど、不思議と危ない感じはしない。

 どこへ進んだらいいのかわからないから、その場で視線だけ動かして、ぐるりと辺りを観察してみる。

 洋風の建物、広いロビー。映画とかドラマでしか見たことがないような、高級そうな装飾。受付みたいなところには、『フロント』ってカタカナで書いてある。カタカナだから、この豪奢な装飾に合っていない。なんだか少し、浮いている気がする。

 フロントがある、ということは? なるほど、ここがワクワクドキドキの子ども専用ホテルってやつなのか?

 今、自分がどういう状況に置かれているのか、まだ理解できていない。

 不思議なホテルのロビーでひとり、困惑しながら立ち尽くす。

「よっ! ちゃんと来たな!」

 声がした。突然、ほとんど真横から、タイチの声がした。足音なんてしなかった。気配もなかった。それなのに、声がした方を見たら、そこにタイチがいた。

「え、いつ来たの?」

「ん? いま来た。ギリギリセーフ!」

 ニッと笑う。その顔に、テーマパークに遊びに来たとか、好きな選手が出る試合を見に来たとか、そういうワクワクしたものを感じる。ぼくが感じているような不安を、少しも感じていないように見える。

「さ、まずはチェックインだ!」

 そう言って、タイチはズンズン歩き出した。ぼくはタイチの後ろに、金魚のフンみたいにくっついていく。

 チェックイン、というのを、ぼくはしたことがない。でも、言葉の意味はなんとなくわかっている。たしか、ホテルに泊まる人が手続きをすること、だったはずだ。そして、それをするのは受付であり、フロント。

 だから、タイチはこれからあの『フロント』に行くんだろうって考えながら歩く。

 思った通り、タイチはフロントへ向かって進んでいく。ぼくは行き先がわかっているからそうなっているってだけだけど、まるでタイチを操っているみたいって思って、小さく笑う。ぼくの小さな笑みに、前を行くタイチは気づいていない。

「さ、チェックインだ。コウジもな!」

 急に振り返られた。ぼくは小さな笑みを急いで隠す。別に、隠さなくてもよかったのかもしれないけれど、何となく恥ずかしいと思ったから。

 タイチはそんなぼくの表情の変化が気になったのか、「ん?」って眉間にしわを寄せた。

 なんでもない、って手をヒラヒラさせて、ぼくはタイチを押しのけフロントにいる女の子に、「チェックインしたいんですけど」と声をかける。

 さも、チェックインし慣れているみたいに。

「かしこまりました。こちらにお名前をお願いします」

「あ、はい」

 差し出された紙に名前を書こうとペンを探した。でも、ペンがない。キョロキョロしていると隣から、

「それだよ、それ」

 タイチがペンのありかを教えてくれた。でも、これがペン? これ、羽根じゃん?

 訳がわからないから、タイチがどうしているのか、じーっと見てみた。

 羽根を手に取って、インクのボトルに突っ込んで、それから紙に名前を書いていた。

 ぼくも真似して、羽根を手に取って、インクのボトルに羽根の付け根の部分を突っ込んだ。いつも使っているペンとも、最近はあまり使わない鉛筆とも、掴み心地が違うから、変な感覚。字を書き始めたらそれほど気にならなかったけれど、いつもより下手くそな字になった気がする。

 ――夢野コウジ

 名前を書き終えると、女の子が紙をすーっと引き寄せて、夢からジまでゆっくりと指で読むように撫でた。

「それでは、ルームキーをお渡しします。用意してまいりますので、少々お待ちください」

「あ、はい。わかりました」


 先に名前を書き終えたからだろうか。先に用意ができたのは、タイチの鍵だった。

「ありがとう」

「どうぞ、楽しいひと時を」

 当たり前のように受け取った――いや、正確には受け取っていない!――鍵と共に、ぼくに笑いかけるタイチ。

 意味がわからない。いったいどうなっているんだ?

「なんだ? どうしてそんな不思議そうな目で俺を見るんだよ」

「え、いや、だって……」

「夢野コウジさま。お待たせいたしました」

「え、やっぱり、こうなるの? こう、なるよね?」

 鍵を用意してくれた女の子が、『どうかしましたか?』とでも言うように首を傾げた。

「ピィッ!」

「うわぁ! これ、鍵なんだよね? 鍵って、喋るの?」

「ピィッ! ピピィッ!」

「っていうか、これ凶暴すぎる! ちょっと、叩かないでよ! やめてよ!」

 ぼくが鍵に頭を叩かれている間、タイチはそれを、笑って見ていた。

 フロントの子たちは、どこか無表情っていうか。我関せずっていうか。

 少なからず、鍵にぼくを叩くのをやめるように命じるわけでもない。

「ピピピッ!」

 タイチの鍵が、先生が「静かに!」って言うみたいに、「ピピピッ!」って言った。

 鍵たちには、人間みたいに個性があるみたいだ。タイチのやつは真面目なやつで、ぼくのやつはやんちゃなやつって感じかなぁ。

「お前、だいぶ気に入られてるな」

「へ?」

「鍵に」

 鍵をじーっと見てみる。鍵とされているそれは、ウサギみたいな形をしていて、背中には『それでよく飛べるね』と言いたくなるくらい小さな羽がある。それを必死にパタパタしている。さっきフロントで使ったペンは、絶対コイツの羽根じゃない。そう確信できるくらい、小さな羽だ。

 顔は……よくよく見ると可愛い。けれど、どこか憎たらしい。さすが、出会ったばかりの人を好き勝手叩ける顔、って感じがする。



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2024年11月16日 00:38
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大人にナイショ! 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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