消えないきずな

はいの あすか

第1話

「親指の爪、素敵なネイルですね」

 

 褒められたマキは、とっさに右手をデスクの下に隠す。

 

「あ、すみません。気分を害されましたか?」

「いいえ、違うんです。これはネイルじゃなくて……。

 爪の裏側で、血の斑点が模様みたいになっているだけなんです」

 

 マキの右手の親指、その爪の中には無数の砂粒が入り込んで、赤い血とともに固くなり留まっていた。

 

 

 

「マキが最初にこのお餅食べるって言ったんだよ! マキのだもん!」

「違うよ! クララが先に食べるんだもん!」

 

 保育園の時のマキの親友、クララとのささいな喧嘩がきっかけだった。

 五歳になった年が明けて、最初の登園日。先生たちはお正月らしくお餅を用意していた。きな粉をまぶして甘くなったお餅を奪い合って、クララと喧嘩になったのだった。

 園庭遊びの時間になっても言い合いは続き、半泣きになりながらスコップで砂をぶつけ合った。周りからはいつも通り、元気にはしゃいでいるように見えていただろう。

 

 クララは元々体温調節が苦手だった。その日、一月にもかかわらず気温は二十度に達し、厚着をしていたクララは次第に目に見えて疲弊していった。ピンク色の顔がさらに赤みを増した。

 弱った相手に手加減をするという発想はなく、マキは、いっそ砂に埋めてしまえ、と無邪気な残虐さを行動に移した。

 すでに抵抗する体力を失ったクララを、砂場の真ん中に横たわらせ、無我夢中で砂を掘っては身体に被せた。途中、クララの黄色いスコップを奪って、両手使いで勢いを増した。

 

「ふんっ……! ふんっ……!」

「マキちゃん、スコップ、返して」

 

 意識が朦朧としたクララの声も耳に入らなかった。それきりクララは眠るように静かになった。

 砂が掻き分けられるたびに、ずぶずぶと沈み込むように身体が覆われていき、クララはゆっくりと完全に砂の中に埋まっていった。

 マキは、最後にはスコップも捨て、全身の力を込めて、素手で砂を掘っていた。その際、右手の親指の爪に、ぐっ、ぐっ、と砂が押し込まれ、取り出せない奥深くまで到達したのだった。

 

 子供の頃の記憶だから、そこから先がどうなったのかは曖昧だ。唯一確かなことは、砂場に埋めたその日以来、クララは姿を消したということだ。先生に聞いても、はぐらかされて行方は分からなかった。

 幼少期特有の現実離れした、ウソみたいな思い出だと思いこそすれ、勘違いで捏造された記憶だ、といって忘れてしまうことはなかった。

 親指の爪にしっかりと証拠が残っていたから。

 

 

 

 鮮やかに広がった爪の赤い模様が勘違いされるから、派手なネイルも許される仕事を選ばざるを得なかった。ファッション雑誌の編集者になっていたマキは、スケジュール表を埋め尽くす会議に追われていた。もちろん、会議の合間を縫って、撮影の手配や、校正に回すゲラの準備もしなければならない。

 

「マキちゃん、ごめん、これ捨てといてくれない」

 

 そして、先輩からの急な頼みごとの処理も。ちらっと腕時計で次の会議までの時間を確認する。先輩からボツになったと思わしき原稿を受け取る。私はあなたの雑用係ではない、と思うことはあるが、その時間すらもったいない。

 

「分かりました。捨てておきますね」

「ごめんね、ありがとう」

 

 社内ルールで、原稿はそのまま捨てずに、シュレッダーにかけることになっている。早足でフロア端のシュレッダーのところまで向かう。

 右手に持っていたボツ原稿を、シュレッダーの細長い差し込み口に沿わせる。スイッチを入れる。一定のスピードで、原稿が吸い込まれていく。

 紙がへたっ、となるとうまく吸い込んでくれないから、ずっと持ってないといけない。こんなことしてる場合じゃないのに。マキの焦りは募っていく。

 数枚まとめて裁断し、終わると間髪入れずに次の数枚を差し込む。とにかくその作業に集中していた。

 

「あっ……!!!」

 

 流れ作業の勢いで、気付くと校正に送るはずのゲラをシュレッダーにかけてしまっていた。

 無情にもどんどん沈み込んでいくゲラ。一分一秒も遅れられないスケジュール。校正チームやデザインチーム、それに編集長の顔と、謝罪して回っている自分の姿が、一瞬にして想像された。

 混乱と焦りで狼狽えたマキは、思わず右手を突っ込んで引っ張り出そうとしていた。そして気付くと、鋭利な裁断刃の回転する部分に、ごり、ごり、と指を挟まれていた。

 悲鳴を聞きつけた同僚が、血塗れのマキとシュレッダーを見て、すぐに電源ケーブルを引き抜いた。マキは、茫然として座り込んだ。

 

「あなた、何やってるの! 早く診療センターに行きなさい!」

 

 ティッシュでぎゅうっと押して止血しながら、ビルの下の階にある、社員向けの診療センターに駆け込んだ。

 

「こんにちは。どうされましたか?」

「あの、指を怪我しちゃって」


 受付の女性もマキの右手を見て言葉を失う。そのやさしく赤らんだ顔に、マキは何か見覚えがあった。すぐに医務室に通され、処置を受ける。

 右手の親指の爪は、粉々に割れていた。消毒のためのコットンに優しく拭き取られて、長年留まっていた砂粒たちはあっけなく剥がれていった。

 

 再度受付で待っている間に、さっきの女性の名札を見ると『つがね』とある。珍しい苗字だから覚えていた。間違いない。

 

「津金クララちゃん、だよね?」

 

 マキは勇気を奮い立たせて声をかけた。女性は印象的な大きな瞳で、真っ直ぐに見つめ返して、

 

「私も、保険証の名前で気付いたよ。

 久しぶり、マキちゃん」

 

 

 

 その日の仕事終わりに再び会う約束をして、マキは仕事に戻った。先輩に何度も何度も謝られ、残りの仕事は私がやるから、と言ってくれた。どうしても必要な会議だけ参加して、すぐに会社を出る。

 隣のビルの地下にあるレストランに行くと、すでにクララは待っていた。

 テーブルに向かい合って座り、あの日以来だね、と話が始まる。薄暗い照明の中、見えづらいクララの表情に、どうしても緊張感が増す。

 

「神隠しだなんて、まさか。

 先生に見つけ出された時には熱中症になってて、救急車で運ばれたんだよ。本当に覚えてないの?

 真冬なのに、なんて笑い話になってると思ってた」

「ごめん、まったく記憶にない。

 その節は、ほんっとうに申し訳ございませ……」

「ううん、謝らないで! 昔のことだから」

 

 ことによっては訴訟や賠償、もしくは何らかの復讐をされてもおかしくない、と思っていたから、クララが気にしていないようで、正直、ホッとしていた。

 クララからは、砂場の一件の、知り得なかった後日談を聞くことができた。

 あの後ひっそりと転園していたこと、関係する大人たちが話し合って事故として処理されたこと。

 

「ちょっと待って。私が言うなだけど、それでそちらの親御さんはご納得されたの?」

「うーん、納得していたかと言われると分からないけれど、少し事情があってね」

 

 聞くと、クララの母親は保育園の男性保育士と不倫関係にあったのだという。保育園側も把握していて、把握してしまった以上放置するわけにもいかず、以前から転園を勧められていた。

 クララの両親側は、厚顔無恥にも、園が責任を負わないのはおかしい、と話はこじれていたそうだ。クララは恥ずかしそうに首まで赤くなりながら、そう話した。

 

「それで、あの一件もあったし、丁度いいかとでも思ったんじゃないかな。すぐに隣町の保育園に移ったの」

「知らなかった。ごめんね、辛いことを思い出させて」

 

 大丈夫、とクララは手を振った。

 ことの一部始終を知り、喧嘩のことを改めて謝罪すると、マキは分厚い茶封筒を取り出した。ここに来るまでに急いで準備した。

 

「これ、今更だけど、受け取って欲しい。

 慰謝料として百万円。こんなのじゃ足りないかもしれないけれど」

「えっ……、いや、そんな、受け取れないよ」

 

 マキの差し出した封筒を、やんわりと押し返す。マキの両手はさらに押し返してくる。

 

「マキちゃん、私、本当に気にしてないから。今日こうやって会えたのも、何だか運命みたいで嬉しいんだよ」

「クララちゃん……」

「そうだ、お餅、一緒に食べようよ。あの時食べられなかった、お餅」

 

 マキの頑なな両手は、そのほのぼのとした、平和的な申し出によって、差し出す力を失った。

 そうだ、クララちゃんのこの突拍子のなさが、私は好きだったんだ。金銭で解決しようとした自分がそれを忘れていたことを、自分の浅はかさを、少し汚らわしく、恥ずべきことのように感じた。

 

 しばらくして再び予定を合わせ、約束通り、和風のスイーツカフェできな粉餅を一緒に食べた。未だに、お餅に毒でも仕込まれていやしないか、と復讐を疑ってしまう小心者の気持ちもあったが、やはり無用な心配に終わった。

 

「美味しかったね!

 あの時もこんな風に、マキちゃんと分け合えたら良かったのにね」

「うん、また奪い合いにならなくて安心した。

 今度はお前を埋めてやる! なんて言われないかと、私、ビクビクしてた」

 

 マキが大袈裟に怯えると、クララは顔を綻ばせて、

 

「そんな訳ないでしよ!

 せっかくまた仲良くなれたんだから、もうその話はおしまい。お互い、新しい思い出を作っていこうよ」

 

 店の前で二人は別れた。

 歩き出したマキは、最近連絡の返って来ない恋人のことを気にした。

 

『マキが画像を送信しました』

 

「友だちと、晩ごはんとデザートにきな粉餅食べてきた!

 そっちは夕飯、なに食べるのー?」

 

 ぼくのスマートフォンに通知が表示されるが、しゃっ、と横に流して見ないふりをした。

 

「もうすぐ帰るよ」

 

 クララからの通知はすぐに開いて、待ってるよ、と返信する。

 

 クララの、異常に広い、外が見渡せるマンションの部屋。そこにぼくはいる。

 閉所恐怖症を患うクララは、無理をして一人暮らしには開放的すぎる賃貸を借りている。

 

 そんな暮らしを余儀なくされているクララが、砂場のことを気にしなかったことなど、一度たりとも無い。

 

 どこかからぼくの存在を知り近寄ってきて、マキからぼくを奪い取り、人生を台無しにされた人間の顔で事件のことを語っている時、ぼくはそう思わずにはいられない。

 彼女は未だに暗闇で一人で眠ることができない。ずぶずぶと埋まっていく感覚に耐えられず、砂浜にも行けない。今より後遺症が強かった学生時代は、砂のグラウンドでの体育の授業はパニックを起こすから、すべて見学していたそうだ。

 そのせいでいじめも受けたと言う。安直な、苦手なものを当人に近づける、さらには直接投げてぶつけて反応を楽しむ、といった類の。そして何よりの後遺症は……。

 

「ただいま」

「お帰り。どうだった?」

「うん、まだちょっと疑われてるかも」

 

 クララはピアスを外しながら答える。ピアスと一緒に、小さいものが耳のところから落ちていった。

 あ、また出た、と丁寧につまんで拾い上げる。

 

 クララの耳の中には、保育園の砂粒がまだ固くこびりついて、腫瘍のごとく残っているのだ。

 

 それが何かの動きでこすれて剥がれて、少しずつ排出されている。聴力にも影響のあった頃は、それによりいじめに拍車もかかっただろう。

 

「よーし、ほら、溜まってきた」

 

 ぼくに向かってヒラヒラと手招きする。そこには色褪せない黄色いスコップと、忘れないための記念碑のような、小さく盛られた砂粒の山。クララが砂場のことを忘れるなんてあり得ない。

 どこに、どうやってマキを埋めるか、どのように事故として処理させるか、今日も嬉々として語るクララに付き合わなければいけない。

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消えないきずな はいの あすか @asuka_h

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