第二幕 参

「できた!」

 横から飛び込んできたアリシアの声に思考が中断された。

 顕現してそちらを見ると、彼女は焚き火に木枠をかざして満足げに頷いていた。食事もそこそこに何をやっているんだこいつは。

「……何をやっているんだ、お前さん」

 思わず声をかけると、アリシアはふにゃりと幸せそうな笑顔を向けてきた。

「お父さんにあげるお守り! やっと完成したんだー」

 ずい、と押し付けられるように見せられたのは、軍の紋章だ。鷲の翼を広げた獅子を描いたものだが、細かいところまで丁寧に縫われている。

 ――って、今は感心している場合じゃない。

「こんな時でも刺繍か! お前はもうちょっと危機感を持て!」

 素早く後ろに回り込んで、こめかみに拳を押し当てる。

「やー! 痛い! 痛いってばー!」

 じたばたと抵抗するがお構いなしだ。ラルフが仲裁に入るべきかおろおろし、クレアは呆れたと言わんばかりに手で額を押さえている。

 ちゃんと木枠を脇に置いてから暴れるあたり、アリシアはやはり生粋のお針子なのだと思い知らされる。そして実感するたびに、ないはずの心臓が痛む。

 本当なら、剣の代わりに針を、魔法の代わりに誰かの服を仕立て、感謝されながらゆっくりと人生を歩むはずだったろうに。

「……ムラマサ?」

 アリシアがそっと儂を見上げる。いつの間にか手を止めてしまったらしい。

「何でもない」

 もう一度ぐりぐりする気のない儂は、こいつの頭をぐしゃりと撫でて隣に座り直した。

「しかし、そのお守りを渡してどうするつもりだ?」

 一応、互いに軍属の身だ。頼めば会えるだろうし、積もる話だってあるはずだ。わざわざ手縫いのお守りを渡すまでもなく、給金でちょっと上等な護符を買ってやった方が良いと思うのだが。

「えへへー、これね、魔法を組み込んでみたんだ」

 自慢げに木枠を引っ繰り返すアリシア。

 なんか今、さらっと凄いことを言わなかったか?

「ほらこれ。結界の魔方陣」

 表面おもてめんと違い、裏面は様々な色の糸が雑多に交わっていて見るに堪えない。その中でもじっと目を凝らし、彼女の指が示す糸を追っていく。

「……マジで?」

 最初に気付いたのはラルフだった。普段は開いているのかどうかわからない目がカッと見開かれている。

「え、すごい……。これ、上級の結界魔法だ」

「なんですって?」

 クレアがラルフを一瞬見やり、再び木枠に目を落とす。

 しばらく見つめていると、やっとその模様が浮かび上がってきた。木枠の縁ぎりぎりの正円と、その内側にあるやや小さめな正円。その間には複雑な記号がびっしりと縫われており、さらに円の内側にも力の循環を示す星や記号がちりばめられていた。

「…………。ちょっと待て」

 ふと儂は気付いた。

「お前さん、これを出立の頃から縫い続けていたのか?」

「うん」

 こともなげに頷くアリシアに三人そろって目を剥く。

「なっ……! 冗談でしょう!?」

 クレアが思わず声を上げる。なにしろ帝都を発って四日だ。表面を縫うだけでも大変なのに、裏面の魔方陣まで同時に縫い付ける離れ業をやってのけたのだ。陳腐な表現は苦手だが、こいつの刺繍技術に関してはもう神業と言ってもいいんじゃないか?

「嘘じゃないよ、ずっと練習していたもん」

 アリシアが頬を膨らませる。

「部屋のあの作品、全部に魔方陣が入ってるよ」

「嘘ぉ!?」

「はあ!?」

「マジで!?」

 クレア、儂、ラルフが再び驚愕の声を上げた。三人分の声に、近くで草を食んでいた馬たちがびくりと顔を上げる。

 いや、たしかにぶっつけ本番にしては高い完成度だとは思っていたが、まさかあの出鱈目な縫い方が魔方陣だったとは……。毎日飽きることなく縫い続けていたと思っていたら、こいつ、いつか父親に渡すお守りのためにずっと練習してきたのか?

 純粋というか、一途というか……。本当に儂とは真逆のものを持っているな。

「お父さんのことだから大丈夫だとは思うけど、やっぱり怪我とか心配だし。これがあれば大怪我もしないで済むと思うんだ!」

 嬉しそうに、そして誇らしげに笑うアリシア。さっきまでのやるせない空気は霧散していた。クレアもちょっと助かったようなため息を吐いている。

「ふむ……」

 儂はアリシアに手を差し出した。

「アリシア、ちょっとそれ試してみてもいいか?」

「うん」

 アリシアがあっさりと木枠ごと刺繍を渡してきた。本当に効果が出るのか、本人も気になっていたのだろう。

 魔法を使うには二通りの方法がある。力の流れを示す“陣”を魔力を込めて描くか、力ある言葉を組み合わせる“詠唱”をおこなう必要がある。魔剣はその膨大な魔力でこの二つを省略できるが、きちんと手順を踏めばそれこそ一夜どころか一瞬で国を消すほどの威力を発揮できる。

 いくら刺繍で魔方陣を描いたとしても、効果がなければ意味がない。儂は紋章である奇怪な生物を、顔から尾にかけて指先の火であぶってみた。効果が出るならそれもよし、駄目なら――空へ放り投げられる以外で何か手を打とう。

 ばぢんっ!!

「っ!」

 稲妻のような音と衝撃に手が弾かれる。反射的に自分の指先を見れば、なんと第一関節がきれいに消し飛んでいた。

「ひぇっ!」

 アリシアが悲鳴を上げる。

「だ、大丈夫!?」

「ああ、まあ……」

 言葉を交わしている間に、指は元通りに修復される。

 ちょっと弾かれる程度だと思っていたのだがなあ。魔力を込めすぎたのか? これ、儂じゃなかったら大惨事だったぞ……。

「うわあ……」

 ラルフが呆然と声を漏らす。クレアに至っては完全に言葉を失っている。

「…………。まあ、取り扱いに関してはお前さんから親父さんにちょっと言っといてくれ」

「あ、うん……」

 無傷の刺繍を受け取りながら、アリシアは曖昧に頷いた。


 そこからさらに三日かけて、ようやくニルウェルに到着した。

 外から見る限り、城壁が崩れたりといった違和感は見当たらない。門扉も解放され、行商人たちが通行手形を見せて中に入っていく。

「あれ? 普通?」

 馬上でクレアの後ろに掴まっているアリシアが首をかしげた。

「みたいだけど……油断は禁物ね」

 そう言ったクレアの指示の下、三人は馬から降りて歩き出す。数刻のうちに城門まで辿り着き、手続きをおこなう。

「ヒューリッツから参りました特異班です。ダグラス市長への取次ぎを願います」

 クレアがそう告げると、門番たちの顔が一様に強張った。

「は、はい、少々お待ちください」

 そう言ってばたばたと騒がしくなる。

「みんな待ってたのかな?」

 アリシアが小声で訊ねる。

「いや、それにしては雰囲気が尋常ではなかった」

 刀の姿のまま儂は応える。

 あれは応援の到着に安堵しているようには見えなかった。恐ろしいことが起きる。そしてそれが自分の身に降りかからないように祈るような。

 帝都でこの話を聞いた時からまとわりついている違和感が大きくなってくる。

 なんだ? 一体何が起こっているんだ?

「今日、ここに泊まっていくんだよね? 市場とか見ていってもいいかな?」

「解決できれば、ね」

 そわそわと落ち着かないアリシアにラルフが苦笑する。普段帝都の外に出ない分、こいつのはしゃぎようには儂ら三人とも苦労しているところだ。隙あらば仕事中でも裁縫道具の購入や新しい模様の着想に役立ちそうなものを探してふらふらと行ってしまうからな。

 やがて門番たちが慌ただしく戻ってきた。

「お待たせしました。市長のもとへお連れします」

 馬はここで預かってもらい、徒歩で向かう。

 街の景色もいたって普通だった。不自然に空気が張り詰めていない。市場はそこかしこで物売りと買い物客の声が飛び交い、子どもたちは駆け回り、婦人たちが井戸端会議に花を咲かせている。

 帝都と遜色ない光景だ。

 だからこそ、違和感が強くなる。

 市民に不安を抱かせないため、軍が情報統制する話は珍しくない。軍内部のごたごたは出来るだけ内々に処理できればそれに越したことはない。

 だが軍の定期連絡が途絶えて一ヵ月。それに門番たちの様子からするに、異常事態は街全体に広がっているとみていいだろう。

 ――そこまで考えて、うすら寒い想像が儂を襲った。

 市民がここまで平気な顔で過ごせている。それはつまり、“異常が当たり前になってしまった”のではないか?

 だとしたら、問題は軍にとどまらない。

 最悪の場合、国を巻き込む一大事になるぞ!

「市長、特異班の方々が参られました」

 門番の声に我に返る。

 いつの間にか観音開きの扉の前に立っていた。さっとあたりを見ただけでも、質素だがそれなりに格のある風体なのがうかがえる。

「どうぞ」

 扉の奥から声がする。市長という割にはずいぶんと若い声だった。

 その声が記憶をかすめる。が、どこで聞いたのか思い出せなかった。

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