Ⅺ
カウンセリングの予約日に、俺は本間に電話でその様子をぜひ報告してほしいと頼んだが、俺のスマホは鳴らなかった。自宅に帰った後で、本間が報告を忘れたと思い電話をかけたが、事務所の営業時間は終了して、誰も出なかった。俺は本間を疑った。
「本間先生と話をしたこと? 全部話したよ。カウンセリングは続けるみたい。次の予約は二週間後」
息子は平気でそう言うが、俺はにわかに信じられなかった。なにより肝心の本間が捕まらなかった。報告してほしいと事務所に伝言を残したが、本間はいつまでも電話してこなかった。これは何かある。息子と本間のあいだには、保護者である俺にも言えない何かがあると確信した。
息子の予約は頻繁になった。最初は二週間後、それから一日おき、しまいには毎日通院するようになった。季節は秋を通り越し、木枯らしが吹きすさぶ初冬になっていた。もうすぐ雪が降る。
ある朝、テレビで精神科医が飛び降り自殺したニュースが報道された。俺はぎょっとした。本間哲哉だ。本間は娘が二人いる既婚者であり、数年前にカウンセリングルーム開設をしたが経営状態は依然と良好で、家庭円満、子どもたちもすくすく育っているので、自殺する動機が一切見当たらない、警察は自殺と事件の両方で調査を進めている、とニュース解説者は淡々と言った。
「あの先生だね」
息子は表情を変えず言い、朝食のホットサンドとモロッコ風サラダを食べていた。
「ごちそうさま」
息子は俺の目を見ず、学校鞄を持って玄関に行った。
「待ちなさい、お前、何か知ってるんじゃないのか?」
「さあ? 行ってきます」ドアは閉められた。息子ははぐらかして答えなかった。
この日は夕方遅くに授業があり、午後、自宅で本を読んでいた。家のチャイムが鳴り、ドアホンを持つと、「神田さんに速達です」と配達員の声がした。手紙は分厚い。差出人は本間哲哉だった。俺は急いで手紙の封を開け、便箋を読んだ。
俺は急遽、大学を長期休講にした。理由は、病気療養のためである。
[…]この焦燥の東方から見ると、われわれ英国人の性観念、むしろ女性についての観念は、スカンディナヴィア的(ゲルマン的)と思われる。それは、同じくわれわれの信仰を希薄にした寒冷な風土によるものだ。地中海地域(西洋から見て地中海に始まる中東をいう)にあっては、女性の影響力とその役割とされるものは範囲が定まっていて、女を前にしたときに男がとる姿勢は性的なものだ。西方では、精神の成熟は男たちをそのような肉体観念から解放した。だが肉体の方はそれに適合するのに長期を要し、したがって肉体の力も持続している。その結果、人生は男性の優位をめぐる理性と自然の衝動との闘争がある。
ヨーロッパの女は、男の肉体を支配するためのこの戦いでは志願兵か、さもなければ良心的兵役拒否者だ。これに対して東方では、女に性的なものはすべて与えられているという理解があるので、その戦いは遠い昔に終わっている。そしてこの世界を女は誰に問題にされることもなく、心の貧しき者(新約マタイ伝五章三節)の信仰のように単純明快に所有している。女には自分たちの性的な領分に不可欠なものは分かっていて、それを求めて戦うことを要しない。彼女らにとって疑問の余地があるもの、もしくは想像するしかないものなどはほかにないのだ。
しかし、これと同じ了解によって、男が尊重するあらゆるもの―—恋、仲間づきあい、友情———は異性愛としては存在しえなくなった。平等のないところに相互愛はありえない。女は男の性欲を満たす筋肉運動の機械となった。そこで男の精神的な面が満足を得られるのは、彼の同輩の間しかない。それゆえに、肉体の結婚は精神的な結合、つまり肉と肉との求め合い以上のものを欲する人性のあの切望すべてを満足させる、熱烈な同性愛的共同作業で補われて完結する。そこから、きわめて強度の、同時にきわめて明快できわめて単純な、男と男の間のこういった結びつきが生まれる。
この複雑な世紀に生きるわれわれ西欧人は、自分の存在を、言い表わせないもので満たしてくれる未知の何ものかを求め、探し続けている、おのれの肉体という独房で暮らす修道僧なのだが、探求の努力だけでは永遠にその何ものかに近づけない。ところがそれは、心の扉を開けっ放しにしてじっと坐っているだけの、このウカイルのような小僧たちには現れるのだ。彼らの強さは、人生の行動者にまさる。われわれは、自分というあさましいものが生まれたことについて、他人が思いのまま肉欲にふけった結果として代々引き継いだ後悔で自分を苦しめ、それを惨めな一生で償おうと努力する。しかし、生き血そのものではなくとも、それを意図してみなぎらせているわれわれの弱さは、行きずりにこのような束の間の仕合わせを掴むことにわれわれを駆り立ててやまない。こうしてわれわれの心は、人生の預金残高以上に振り出した仕合わせという手形を落とすために、償いになる地獄の苦しみと、最後の審判の日に備えて善悪いずれかを記入した元帳残高を用意しているのだ。
—————T.E.ロレンス『知恵の七柱』
ロレンスが述べたことの一部は正鵠を穿っており、一部は誤っている。ロレンスは「生涯独身」だったが、自分が同性愛者だとは一言も言っていない。というのも、イスラム教には同性愛行為を否定した教典があるため、厳格なイスラム教を国教としている国では、ソドミー法として厳しい法律が適用される。そのため同性愛行為が法律で禁止され、イスラム諸国では極刑になってしまう。それでもなお、男同士の友情は高貴で神聖なものとしてみなに憧れられている。友情かセックスか、信頼性か親密性か。性の分水嶺は厳しく、尊敬されるか侮蔑され処刑されるかのどちらかである。これはイスラム文化のもっとも難しい部分だ。ただでさえ紛争の絶えない地域だからか、同性愛行為をガセネタとして流し、敵を処刑させる効果的なスパイ行為もあるようだ。
『アラビアのロレンス(1962)』を観たことはあるだろうか。ロレンス演じるピーター・オトゥールの碧眼と長身も、エドモンド・アレンビー将軍演じるジャック・ホーキンスの銀の甲冑で飾られたゴージャスな出で立ちも、シャリーフ・アリ演じるオマル・シャリーフの黒髪黒髭黒目のオリエントらしい容姿も、アウダ・アブ・タイ演じるアンソニー・クインの粗野な感じも、ファイサル王子演じるアレック・ギネスの眼差しの色っぽさも、俺にはすべて眩しく感じる。なによりこの戦争映画は男しか登場しないのだ。ホモ・ソーシャルでなおかつホモ・エロティックな映画は、他に観たことがない。
ここからは俺の想像(邪推?)だが、ロレンスがアラブ人に信頼されたのは、彼の優秀さだけではなく、ゲイ的な部分にもあったはず。イスラム文化では同性愛を極刑にする残酷で非人間的行為があるが、そうまでして同性愛を撲滅せねばならない切実な理由が、いまもあるからだ。同性愛を強く否定すればするほど、同性愛が確実に存在しているから。
「悪魔の証明」とは、「不在(ないこと)を証明する」のは決して容易ではないということである。イスラム文化が同性愛行為を抹殺するなら、同性愛者は確実に存在する。なにも死刑にすることはない。イスラム文化はなぜ同性愛を過剰に、かつヒステリックに否定するのか? それは、同性愛者ならびに同性愛という概念を徹底的に排除したいからだ。つまり、イスラム文化にも同性愛者は確実に存在する。死によって否定するのがその証拠だ。ネオファシストが『ソドムの市』を観てカンカンに激怒し、監督を撲殺したこともこれと酷似している。監督は殺しても『ソドムの市』は永久に残るし、ユダヤ人を大量虐殺したナチスも、歴史として永遠に忘れないだろう。
同性愛者は確実に、世界中に遍在するのだ。「我が国には同性愛者は存在しない」だと? そんなの真っ赤な嘘だ。いないことにするな。
卑近な例でみると、殺人・強盗・放火などの重罪も、情状酌量は認められず、極刑か終身刑である。いくら罪を重くしても、犯罪は永遠になくならない。これはどういうことなのか。
たとえば、ひき逃げ死亡事件が起こったとする。事件を起こした犯人は、逃げることで事件がなかった、殺すつもりはなかった、と証明しようとする。だが、まさに事件は起こった。その証拠があれば犯人を確実に逮捕できる。ひき逃げは確かにあった。犯人は逃げ続けることができず、いずれ捜査が自分のところまで追ってきて必ず捕まる。逆になかったことを証明することは、ひじょうに難しい。事件が起きたときにさっさと自首すればいいが、保身のため逃げおおせられると誰もが思うだろう。早く平穏な日常に戻ってほしいと願う人も多いだろう。だが人が死んでいるのだ。逃げられるはずはない。
個人がする殺人は処罰されるが、国家が行う殺人は許されるのか。戦争はどうだろう。地獄の黙示録。グッドモーニング・ベトナム。ディア・ハンター。アメリカ大統領候補が銃撃されて未遂に終わっても銃規制が一向に進まないのはなぜだろう。リメンバー・ボーリング・コロンバイン。リメンバー・パール・ハーバー。
繰り返しになるが、同性愛者が存在しないことを証明するのはひじょうに困難である。それがなぜわからないのだろうか。同性愛者がたとえ殺されたとしても、愛の行為は歴然と存在するのだ。それがわからないとは、まったく愚かである。
また、イスラム教諸国には、強姦された被害者女性が死刑になるという、現代の日本では考えられないような法律や文化、習慣がある。加害者男性が「合意だった」と主張しても、被害者女性の夫や父親は、宗教上において被害者女性を責めるのだろう。婚姻以外の処女喪失は一族の恥とされる。強姦された被害者女性が処刑されるのは宗教上の事実であり、まず、被害者女性の夫や父親、社会が処罰の決定権を持つと言われる。処罰しなければ名誉や神の教えに背くと考えられる。いわゆる「名誉殺人」である。それから、強姦加害者男性との結婚によって死刑を免れることもある。男性は四人まで妻を持てる。
これまでのフェミニズムが指摘してきたように、西洋も東洋も男性中心主義であり強制異性愛社会である。そうなると、異性愛女性とゲイ男性は差別・排除されるか、いくら権利を主張しカムアウトしても、それらがまるでなかったように、異性愛に強制されてしまうのだ。「ホモ・ソーシャル(男性だけの社会)」は、男性同士の性的欲望はない、とセジュイックは言っている。したがって、ゲイ男性は異性愛男性としてクローゼットになる。そうならざるを得ないのだ。
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