夜中、俺は悪夢を見た。昏い森のなかで、一本の桜の木が、満開に咲き乱れている。桜の木の陰に、死んだはずの木村總が立ち、俺を見て、おいでおいでと誘っている手つきをしていた。總の青黒い顔は半分崩れ、眼球は垂れ下がり、にやついた唇から赤黒い血が流れた。二、三本歯を失くしたらしい。彼はこんなに醜かったのか? 死ねば醜くなるのか?

 もしかしたら彼は、言い残しておきたいことがあるのかもしれない。俺は歩いて總のそばに寄った。

「へへへ…とうとう罠にかかったな…」

 驚いた俺は彼を見たが、言い終わった途端、彼は透明になって消えた。

 目覚めた俺は窓を見た。まだ日は出ていない。ぼんやりする頭のなかで、本当は彼は人生を名残惜しんでいたわけじゃない、むしろ心中に近かったのかもしれないと考えた。考えても考えても答えは出ない。俺は此岸に、彼は彼岸にいる。死の腐敗の川が淀んでいる。


 翌日、大学へ行って授業で話した。男子学生は圧倒的に女子に欲望と関心を持っていたが、あるクラスでは俺と同じ“匂い”のする男子学生が一人だけいた。この大学ではセクハラ・パワハラ対策委員会も設置せず、フェミニズム研究会も、性的マイノリティのサークルもなかった。ただ、毎年好例のミス女子大生コンテストが盛大に開催された。要するに、この大学の職員も学生も、マイクロアグレッションがとても頻繁で、性差別意識の低い教育機関なのだ。昭和の遺物を大事に扱っている古臭い連中なのだ。

 内心俺は、同じ“匂い”のする男子学生を孤立しないように支援したかったが、俺の仕事の範疇ではないと逃げた。大学は教員も学生もみな孤独だが、繁華街では同じ“匂い”のする客が集う店を自分で開拓すればいい。気に入ったら客ではなく、従業員としてそこを居場所にするしかない。俺は繁華街を居場所にすることができなかったから、この大学が居場所となった。白亜の塔のなかに孤独な俺の居場所があった。孤独を煩わせない俺だけの居場所が。

 勤務時間が終了し、俺は帰宅した。息子はいたが、夕食を出してもあまり食べず、早々に部屋に戻った。今夜のメニューは、ラムチョップのコンフィ風、トルコ式フムス、くるみとレーズンのライスサラダ、デザートは完熟バナナとくるみのマフィン。息子が食べ残した料理を冷蔵庫に保管し、後から息子が調理しやすいように、レンジ用器にのせたもの、ルクルーゼで直接加熱するものに分類した。食中毒が起こりやすい季節となったせいで、余計俺は神経質になった。俺だけが体調不良になるのはまだましだが、息子までそうはさせないと誓った。明日から梅干しや黒酢を用いたメニューにしようか。

 その後、今期試験の準備を続けた。気づいたら、夜の帳が降りて星々が輝いていた。俺は思い切り伸びをして、苦いコーヒーを炒れようと席を立った。そのとき、隣の壁の向こうで大きな物音がした。俺は息子の部屋を開けた。

「どうした?!」

「神田さん…」

 俺は倒れた息子を抱き起こした。熱がある。

「さっき夕食を食わなかったろう? 風邪じゃないのか?」

「そう思って、体温計がないことを神田さんに伝えたかったんだけど…」

「後は俺がやるから、君はベッドに寝てなさい」

 息子の体温は三八度だった。葛根湯を出して息子に飲ませ、電気毛布を掛け、冷却シートを額に貼った。一見して息子は虚証だが、俺は漢方の専門医じゃないから、もしかして実証かもしれない。実証なら、今夜一気に熱を出し、朝が来たら風邪は去っていく。虚証はなかなか熱が出ず、いつまでも風邪がくすぶり、熱が体内から出ない。

「神田さん…風邪、伝染るから…」

「俺は大丈夫。遠慮せず何でも言いなさい。できるだけ君を診てる」

 息子は汗をかき、一度パジャマを脱がせて身体を拭き、着替えさせた。息子の甘酸っぱい汗の匂いを嗅いだ。そのとき俺は、中学の修学旅行の記憶が、ざざざざ、っとフラッシュバックのように蘇った。現実の光景からスイッチしてスノーノイズになる。すでに過去の出来事が、いままさに起こっているように感じられた。中学生の俺は風邪で熱が出て、一人で部屋に寝ており、担任がつきっきりで看病した。俺は高熱でうなされて覚えがないが、担任が俺の服を脱がせて汗を拭き、ついでにフェラチオをした、と思う。俺が射精したとき、担任は口で精液を受けて飲み込んだ。解放されてすっきりした俺は、いつしか眠りについた。

 翌朝、担任は回復した俺の肩をぽんと叩き、「良かったな」と優しく言った。看病の優しさは、担任の隠されたセクシュアリティが出した下心ではないかと、俺は素直に感謝できなかった。担任は中年で既婚であり、子どもが二人いた。その後、担任はクラス女子らに性的暴行をしたとして逮捕、懲戒免職になった。

「…神田さん、水が飲みたい」

 椅子に座った俺は眠りかけていたが、息子の声を聞いてすぐに立ち上がり、グラス一杯の冷水を運んだ。

「良くなったのか?」

「うん。僕、お腹空いた」

「よし、少し早いが朝食を作ろう」

 俺はキッチンに立ち、冷蔵庫の在庫確認をした。昨日の全粒粉パンと、ベーコンと卵がある。イチゴとキウイのヨーグルトを作ろう。病み上がりの息子には、ショウガとネギの入ったコショウたっぷりのコンソメスープをつけた。

 息子はテーブルに座り、朝食を食べたが、ときどきニヤニヤして俺の顔を見た。

「———何?」

「…昨夜、見たでしょ?」

「見たって、何を?」

「僕の裸」

「看病したから確かに見たかもしれないが、君の裸は興味ないから見なかったかもしれない」

「嘘」

「本当だよ」

「じゃあ、僕の背中の傷は見なかったの?」

「傷? 全然見なかった。部屋はずっと暗かったし」

「そっか」

 息子は少しがっかりしたらしく、「ごちそうさま」の言葉を小さく言って立ち上がり、玄関に向かった。

「行っていきます」

「行ってらっしゃい。今日は病み上がりだから、無理しないで早く学校から帰るんだぞ。居残りや道草は禁止だ。俺も早く帰るから」

「うん」

 ドアが閉まり、俺は一人になって動揺した。背中の傷? 傷だって? どこにあった? どれくらいの大きさだ? いつ怪我をした? そんな話、木村から一度も聞いたことがないぞ!

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