夕食後、俺は息子の食器も洗った。長いこと一人暮らししていたから、食事も掃除も得意だった。また『暮らしの手帖』の愛読者であり、日々の生活の丁寧さ、創意工夫ときめ細かさを俺はささやかに楽しんでいた。いまさら息子のぶんが増えたとはいえ、全然苦にならなかった。子どもやパートナーはほしくないし、ゲイは繁殖能力がないので、半ば諦めていた。だが、こうして同じ空間を共有するのも悪くない、と俺は少し思った。

 そのとき、小枝のようにしなやかな息子の細い腕が俺の腹に抱きつき、背中に彼の吐息を感じた。

「どうした?」

「ごちそうさま。とても美味しかった。特にファラフェル。お豆が美味しかった。あれ、なんて豆?」

「ひよこ豆だよ」

「ひよこ豆かぁ、ひよこ豆がじゃがいもみたいに、こんなにほくほくしてるんだって思った」

「そりゃどうも」

「僕、お手伝いしなくてもいいの?」

「これくらい平気だよ」

「神田さん、本当に偉いなあ。外に毎日働きに出て、家では毎日珍しい料理を作って、食器まで丁寧に洗って、部屋の掃除も隅々まで丁寧にするんだから。男の一人暮らしは汚くてだらしなくて大変だって聞いたよ」

「君のご両親だって偉いよ。君が大きくなるまで世話したんだからさ。子どもは一人だけでも大変だ、それを年子で二人、三人育てるなんて、俺はとうていできない、って總が…、」

 俺の両肩にかけた息子の腕がぴくっと震え、少し緊張したようだった。気のせいか?

「…君のお父さんが言ってたよ。独身の俺には子育ての大変さは想像できないからさ。とにかく、君のご両親は偉かった」

「…偉くなんかないよ」

 息子は俺の身体から離れ、不快そうに言った。親子関係は某かの葛藤や悩みがある。思春期になると親がふたりとも莫迦に見え、向上心のなさも、無神経な鈍感さもあからさまに見えて、子どもはうんざりする。特に子どものほうは敏感である。親が配慮ない言葉を一言言えば、子どもはすぐさま心を閉じこもる。俺はそう思っているが、特に深刻な事態は起こらなかったし、深刻で思い出したくない記憶を思い出して燻ぶってもいなかった。親はすっかり「過去の人」だ。

 俺の父は「金を稼ぐ役割の人」で、母は「家事をする役割の人」だった。その両方の役割を合わせても、子どもを「教育する役割の人」にはなれず、まったく範疇でなかった。世間では、子どもを育てただけで「親」になるというが、「親」もまた「子ども」なのだ。「子ども」が「子ども」を育てるのだ。なかには自分の「子ども」に酷い虐待をする「子ども」がいるが、それは「親のプレッシャーに負けた子ども」だからだ。こんなナンセンスなことってあるんだろうか。

「子どもはかわいい」と、みな無条件でほほ笑む。それは「子どもを莫迦にしている」のと同じだ。子どもはみな「いい子」ではないし、生まれたときから箸にも棒にもかからない凶悪で反抗的な子どもがいるはず、と俺にはわかる。逆に彼らは平気で大人を莫迦にしている。大人を舐めている。軽蔑している。軽蔑の視線が耐えなれないなら殴るしかない、蹴るしかない。ペットのように、子どもを支配・服従させるのだ。莫迦にしていた者から莫迦にされると猛烈に腹が立つ。それはなぜか。社会的強者から見下される自分と、社会的弱者から見下される自分とでは、どちらの自分が腹が立つか。もちろん後者である。前者に対して腹が立つと、その報復が恐ろしい職を失う金がなくなる抹殺されると最初から知っているのだ、人間というものは。


 学期末になり、息子は自分の成績表を見せた。基礎科目はオールA。さすが優秀な息子だ。がしかし、なぜか体育だけCである。息子が小学生のときバレエをやっていた気がする。木村は俺をコンクールの全国大会に誘い、優雅に踊る息子を見たはずだ。あれはもう辞めたんだろうか。

 息子の両親が亡くなり、俺の家に住んだが、通う中学は同じだった。木村と俺の家が近いこともあって、息子の生活は表面的には変わらなかった。

 ある春の夜、俺の部屋に入った息子は、突然こんなことを言った。

「僕、神田さんにいろいろしてもらったのに、何にも返せないから」

 息子は白いYシャツを脱ぎ、俺のベッドに横たわった。俺は息子が何をやっているのか瞬時に察した。俺は息子の薄桃色の乳首を凝視しながらも、かろうじて制止した。左手首に巻いた白い包帯が見えた。なぜ包帯が? 怪我をしたのか?

「いいんだよ、俺は君のお父さんにとても感謝してるし。第一、俺とお父さんは親友なんだからさ。君も知ってるだろ?」

 息子をパジャマに着替えさせた俺は、まだいまじゃないと自分に言い聞かせた。

「でも…」

「ちょっと外へ行こうか?」俺は外套を羽織り、息子にコートを着せた。

「なに?」

「秘密基地だよ」

「神田さんが? 秘密基地もってるの? まるで子どもみたい!」

 息子は笑った。玄関から雑木林の道を左に曲がり、しばらく歩いた。空は星が出ておらず、道路も街灯がない。辺りは真っ暗闇で、俺は持ってきた懐中電灯で照らした。上からちらほら煙のようなものが見える。

「桜の花…」

「俺たちの秘密だよ」

この土地は私有地であり、地元の人も滅多に来ない。息子はしばらく桜の花を見つめて、ため息が出た。一瞬、感情が言葉にならないことは、息子にもあるようだ。

「桜って、昼間より夜見たほうが怪しくて、怖くて、魅せられる。不思議…」

「桜は開花宣言から一週間くらいで散る。人間と同じ、儚い命。あとは葉桜だ」

 息子は樹に近づき、そっと手のひらで触れて、花がたくさん咲いている枝に目をやった。樹と息子は、まるで恋人同士のように親密だった。

「葉桜もいいね。同じ桜なのにさわやかな印象がする」

 冷たい風が吹いてきた。息子はぶるっと身震いした。

「寒い? 大丈夫か?」

「大丈夫じゃない。ちゃんと上着を着たらよかった」

 俺はかけていたマフラーを息子の首にかけた。

「ありがとう」

「風邪を引いたらいけない。この続きは明日にでも」

「僕、ひとりでここに来てもいい?」

「夜だったら懐中電灯が必要だな。もっと温かくして」

「あの樹、神田さんの樹にしたよ。なんか触りたい気がしてた」

「あの樹って?」

「さっき僕がふれた樹。お父さんのヤマブキの樹も、お母さんのサンショウの樹もあるんだ。どっちも家の庭にある樹」

「へえ、詳しいんだな」

 でもいいんだ、どっちの樹もなくなっちゃったから、息子は孤り語ごちた。俺は聞かないふりをした。息子は気に入った樹に身近な人の名前をつける癖がある。いつのころかは知らないが、知らないうちにそうなっていたという。それで、人間より植物に詳しくなった。

「自分の樹はないのか?」

「あるよ。マクドナルドの前のプラタナスの樹。少し背が高いから、こないだ剪定されちゃった。また生えてくるから大丈夫」

 暗闇の中、俺たちは歩いて帰宅した。息子は少し熱い風呂に入った。いまは平穏な暮らしだった。

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