Ⅲ
一九一八年一〇月三〇日、オスマン帝国は降伏し、イギリスの占領統治が始まった。一九二二年には国際連盟で定められた委任統治制度により、この地はイギリス委任統治領パレスチナとして運営されることとなった。法はいつでもどこでも必ず、強者の都合でつくられる。
世紀をまたぐ闘争の元となった人物がT.E.ロレンスである。彼はオスマン帝国に対するアラブ人の反乱を支援した人物で、英国の情報将校としての任務を通じて、ハーシム家当主フサイン・イブン・アリーの三男ファイサル・イブン・フサインと接触した。ロレンスはファイサル一世とその配下のゲリラ部隊に目をつけ、共闘を申し出た。そして、強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、各地でゲリラ戦を行い、ヒジャーズ鉄道を破壊するという戦略を提案した。この提案の背景には、ヒジャーズ鉄道に対する絶えざる攻撃と破壊活動を続ければ、オスマン帝国軍は鉄道沿線に釘付けにされ、結果として英国軍のスエズ運河防衛やパレスチナ進軍を助けることができるという目論見があった。いまはロレンスの著書『知恵の七柱』を原書で精読している。砂漠のなかのゲリラ戦と記録があり、ベトナム戦争でこの著書が読まれたこともあるという。彼がイスラエル建国の鍵であるかどうかにかかわらず、この本は興味深いと思う。
なお、イスラエル建国となった十数年前、ロレンスはオートバイで事故死している。享年四六。俺と同い年だ。彼がアラブに赴任し任務を終了したころ、その過酷な任務を終えた彼は一種のバーンアウト(燃え尽き症候群)となり、すでにノイローゼ気味だったという。それでもまだ、アラブ諸国では血の報復が続いている。もともとはキリスト教(ユダヤ教)とイスラム教の聖地メッカ(パレスチナ)の奪い合いがあり、この争奪戦はもともと宗教戦争なので、生まれながらのキリスト教徒ではない俺は研究者としてそろそろ限界があろう。知識や情報から頭で学ぶよりも、その風土や習慣、文化を肌で感じながら研究したほうがいいのかもしれない。
正月が明けてしばらくしたころのこと。今日は大学の授業はないが、今期試験の準備と大学受験の監督官をしなければならないので忙しい。俺は気分転換に明日の朝食の準備をしようとしてキッチンに行った。
テーブルの上には、手つかずの大皿料理がいくつか置いてある。中学生の息子は食べ盛りであり、たぶん肉が好物だろう。窓の外は暗くなっており、電気をつけないと何も見えなかった。
(あいつ、こんな時間になるまで何も食べなかったのか…)
俺は息子の部屋の前で声をかけた。
「君、まだ腹は減らないのか? 俺は先に食うよ」
返事はなかった。ドアをノックしたが反応はない。どこか外へ出たんだろうか。
「開けるよ」
息子はベッドで横になりながら、赤く染まった目で俺を見た。中学生とはいえ、両親が突然亡くなって、本家では悲しむ余裕もなかったのだろう。
「泣いているのか?」
息子はしばらく答えなかったが、やがて笑いを抑えながらこう言った。
「違う…笑ってるんだ。可笑しくて可笑しくてしょうがない」
このとき、息子は本当に笑っていたのだろうか。それとも、悲しくて悲しくて悲しみの底をついたので、笑わずにはいられなかったのだろうか。どのみち息子は尋常な心境ではなかった。
「そんなに笑うと腹が減るだろ。一緒に食おう」
俺は彼のベッドに座って言った。
「食欲、そんなにないよ」
「だったら水分摂りなさい。水飲んだら胃が刺激されて、いきなり空腹を感じるだろう」
息子は少し考えた。ゆっくりベッドから立ち上がり、キッチンに行った。俺は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注いで彼に渡した。
息子はグラスを口にして、喉を鳴らして水を飲み干した。細長い首の白い喉が動く。指の爪はきれいに整い、髪の毛からつま先まで、丹念に手入れされているようだった。高価で血統書付きの室内小型犬を連想した。プライドだけは高く、自分では何もできない。
今日は異例の暑さで、俺は半袖のTシャツを着ているが、息子はまだ長袖の服を着ている。袖のなかから、ちらっと白いものが見える。
あれは包帯だろうか。
「本当だ。僕、お腹が減ってきたよ」
「健康な証拠だ。さ、食おう」
俺と息子はテーブルについて夕食をとった。メニューは、子羊のソテーバルサミコ酢ソース仕立て、温野菜サラダ、ボロニア・ソーセージとレンズ豆のコンソメスープ、全粒粉パンとファラフェル、デザートはプルーンの紅茶煮が冷やしてある。ふと息子を見ると、赤い唇を動かしながら俺の作った料理を咀嚼し、飲み込んだ。その喉の動きはまるで精液を飲み込むかのようだった。息子はどこもかしこも艶かしく見えたが、俺の錯覚だろうと思った。あるいは、息子と木村の父親が生き写しに見えたからだろう。夢のような地獄だと、複雑な心境に俺は感じれらた。
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