「神田さんの部屋は?」

 俺は隣のドアを指した。

「そこだ。…君、腹減ってないか?」

 聡、と言おうとして突然、木村の姿が息子と重なった。少し戸惑った俺は、無難な呼びかたに直した。

「ううん、まだ減ってない」

「夕食はキッチンに用意してある。食いかったらいつでも食っていいよ」

「僕、神田さんと一緒に食べたいな」

「ごめんな。俺はまだ資料を読まないといけないから」

「仕事? 部屋って…」

「寝室と別に書斎がある。書斎の本は君にはまだ難しい。でも立ち入り禁止じゃないから、興味があったらいつでも歓迎だ」

「神田さんは、寂しくないの?」

「え?」

「もし寂しくなったら、いつでも僕のベッドで待ってるから。じゃあね」

 そう無邪気に息子は言い、部屋のドアを閉めた。廊下でひとり立った俺はしばらく考えた。息子は悪びれていなかった。彼は俺のことをすでに見抜いている? まさか…。


 彼の父親、木村聰は中学の同級生で、出席番号と席が隣だったから、いつの間にか親しくなった。そのまま高校、大学へと一緒に進んだ。木村は、俺が初めて一目惚れした男だった。いつからかわからないが、俺は男を性的に好きだと自覚した少年で、女には何も感じなかった。カムアウトはもちろん誰にもしていない。この年になっても独身だし、せめて一人でも気づいてくれたらと、いまは不思議に思う。若いときは、バレたら社会的抹殺(アウト)だといつも戦慄していた。なぜ俺はゲイであることに怯えていたんだろうか。自分でもよくわからない。あのときとは別の俺がいたとしか思えない。そう、木村が死んだとき、俺も死んだのだ。

 木村は大学のサイクリングサークルで恋人と出会い、そのまま結婚して子どもを持った。おそらく妻が働いていたからだろう、息子が生まれたのは彼が三〇を過ぎてからだった。子どもができてからは子育てに専念し、息子が中学にあがるころ彼女は働き出した。木村と俺は卒業しても相変わらず親しかったが、家庭ができてからは疎遠になり、子どもが生まれてから、木村は俺と会いたがった。息子を見せたがったのというのが本音だろう。

 木村は息子を溺愛した。あるときふと、「可愛いだろ? もし俺か妻に何かあったら、君に息子を預けるよ。可愛さのお裾分けだ」と笑って言った。まだあどけなさの残る息子の妖艶さが俺には感じられる。冗談とは思えなかった。

 十年後、こんなことになるとは、と悪い予感が当たってしまった。さわやかな風が吹く秋の日、彼と妻はドライブ中、事故死した。奇跡的に、一人息子の聡だけが生き残ってしまった。悲しくないといえば嘘になる。でも俺は、木村と初めて会ったときから、いずれ俺たちは別れてしまうだろう、とすでに悲しい予感を抱いていた。異性を愛せなくなったと気づいた俺は、とびきりいい男に出会うと、なぜか虚しくなった。あとは別れるしかない、彼と俺が死ぬしかない。それがゲイの素性だと俺は思っている。本家の長男は「息子・聡は、父親・聰の親友・神田和(かんだなごむ)に養子として預ける」と遺言していた。木村はこの遺言をいつから用意していたのだろうか。

 

 窓の外は静かに雪が降っている。夜のせいか自然発光した雪が揺れ動いている。部屋は暖かい。資料チェックはあらかた終わった。あとは出版社から依頼されている学術誌の原稿を書くだけだ。俺は大学で文化人類学の講義をしている。中学のとき、中東戦争を報じるテレビニュースを見て、「イスラエルはなぜ建国されたのか?」という密かな問いがあり、俺はその謎を解きはじめた。

 一般的には、自民族の国家を持たなかったことにより、六〇〇万人のユダヤ人が殺されたホロコーストの教訓から、イスラエルは「全世界に同情されながら滅亡するよりも、全世界を敵に回し、戦ってでも生き残る」ことを国是にしている。いっぽうで、同情を利用した外交や事業といったものも行われている。それはノーマン・フィンケルスタインによって “ホロコースト産業”と呼ばれた。

それからの俺は、主にイスラエル建国の歴史考察として、文化人類学の研究をしている。昨今では、ゲイのパラダイスとして観光客を盛んに勧誘するというピンク・ウォッシング運動も目が離せない。ナチスはゲイたちを「何も生み出さない」ものとしてピンク・トライアングルという識別胸章をつけたが、敗戦した今はイスラエルと名乗り、世界中のゲイ・マネーをかき集めるあからさまな計画であることを、俺は決して忘れない。

 世界は矛盾だらけで、一貫性はないし、筋書きも結末も中途半端で納得いかない。気分次第で、行き当たりばったりだ。非常に重要な秘密の鍵を握る人物が死んでしまえば事件終了。死人に口なし。とても中途半端で、真実は隠蔽されている。それも当たり前の話で、国家の最高権力者はいつもすり替わっており、スキャンダラスで深刻な問題があがっても決して責任を持たず、辞任して終了。世界は残酷で、欲望だらけで、悪意に塗れ、隙あらば他人の脚を掴みながら奈落の底に引きずり込む。金の匂いだけは敏感に察知し、人の命も捕食してわずかな金に換える。それはもう必死なほどで、ギラギラした奴らの眼つきがいやらしくて醜く、俺は直視を避けなければならない。もしかしたら俺もそうなる可能性があり、いや、俺はすでに金の亡者になっているかもしれない。俺はゾンビじゃないと死肉を求める奴らを避けながらすでにゾンビになったこともわからずに人間の仲間に入って頭を勝ち割られるみたいに、ホラーなんだかギャグなんだかわからない。でもきっとホラーに違いない。

 それでも、若いころの俺は、もし命の水が百滴あったなら、九九滴は絶望の猛毒に溢れていて、残りわずかな一滴が希望の水になると勝手に思い込んでいた。挫折しても必ず生き延びるんだと祈っていた。まだ間に合う、逆転するんだと最後まで足掻いた。いまにして思えば、若気の至りだった。

 結局、現実は違った。俺はとっくに四〇を過ぎていた。何か俺にできることはないかと懸命に探した。でも無理だった。俺一人の力では無駄だ、俺は無力だ。俺は俺に失望した。そして充分に苦しんだ。苦しんで苦しんで、いつか苦しみに麻痺したとき、目の前には諦念の境地が広がった。

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