白鳥の歌が聴こえる
コンタ
Ⅰ
「シーツの白さと海の白さのあいだにある」ふたつの波のよう
――マルグリット・デュラス『死の病い』
その日は雪が降っていた。九月初旬だというのに肌寒い初冬である。長い雑木林を通り、入り口門の前で一台の黒い高級車が止まる。年老いた運転手が黒い絹のこうもり傘を差してドアを開けた。なかから出てきたのは、妖艶な美少年というほかに表現できない美少年、木村聡(きむらさとし)だった。聡は、柔らかく色白の顔をして、頬は薔薇のように血色よく、そして唇は禍々しく赤い。丁寧に磨かれたダークブラウンの革靴を履き、行儀よく足を揃えている。俯いた聡は運転手に傘を差されながら、門から玄関につながる小径を歩きはじめた。胸に金赤のエンブレムをつけた紺色のブレザーを着ているのは、この辺りでは見かけない中高一貫校の制服だろう。
窓のカーテンを開け、俺は近づいてくる彼をじっと見た。彼の父親・總(あきら)と瓜二つだ。伏せ目がちの表情は妖しげで、睫毛が長くて陰鬱。彼は間違いなく美しいが、どこかに影がある存在だ。手足も色白でほっそりと長い。髪は柔らかいくせ毛であり、風のない日も空中にふわふわと漂う綿毛のようだ。雨で濡れそぼった髪はより漆黒に近く、艶やかなペルシャ猫のよう。まるで女から男に、男から女に移行しつつあるようである。以前彼を見たときには、いまのような暗い鬱屈した表情ではなく、もう少し朗らかな印象だったと思う。俺は遠いかすかな記憶をゆっくりと手繰り寄せた。
「木村家から参りました。このたびは、うちの坊ちゃんを預かっていただき、誠に感謝いたします」
運転手は、聡の背中を少し押した。自己紹介しなさいという合図らしい。
「木村聡です」浅く礼をした聡は、いつもつま先を見つめているのだろうか、俺とは目を合わさなかった。両親の死を悼んでいるのだろう。
「坊ちゃんをどうぞ、よろしくお願いいたします」
人の好さそうな老運転手は濃い緑の帽子をとって白髪頭を深々と下げた。老運転手の着ている白シャツの襟もとはパリッと糊付けされ、黒く艶のあるネクタイもきっちりとまっすぐに締めている。老運転手が仕事前にいつも鏡を見てネクタイを締める想像をする。律儀で堅実で生真面目そうだ。常に安全運転である。交通違反などいままでしたことは一度もないだろう。濃い緑のスーツはおろしたてのように見える。木村家は旧家とはいえ、本家の長男が死に、一人息子を独身の俺に預けるのだから、本家の代表となるのはこの老運転手しかいないであろう。老運転手も本家とは関係ない雇われ人だと思われるが、息子を預けられる俺も赤の他人だ。実体がどうであれ、 “本家”という言語表現はもはや概念でしかない。
老運転手が去り、この家に俺と息子だけが残った。静寂が戻ってくる。俺はリビングのソファを勧め、温かいジンジャーミルクティを作って息子に渡した。聡にはまだ熱かったらしく、息を何度も吹いて、ミルクティを少しずつ啜った。彼は笑ってもいず、泣いてもいなかった。まさに無表情だった。その彼が無邪気に質問する。
「神田さん、結婚していないの?」
「結婚してたら、俺はいまごろ君を預かることができないよ。自分の子どもだけで手一杯だ」
「両親もいないの?」
「両方とも病死した。特養に祖父が入院してるが、彼は重度の認知症で寝たきりだ。俺の出る幕じゃない。餅は餅屋に預けるしかないんだ」
「両親がいないことは僕と同じだね。お爺さんは、なんか寂しい気がする」
「別に寂しくなんかないよ。彼は自分が生きてるのか死んでるのかすらわからないし」
「僕、お爺さんのお見舞いに行きたいな」
「今日は雨が降ってるから明日になる。それに特養はちょっと遠い」
「わかった」
俺は玄関から息子を連れて、簡単に部屋の案内をした。東京郊外の戸建ては、決して安くはない。かといって、いま流行りの都心のタワーマンションに手が届かなかったわけでもない。タワマンから眺める灰褐色の廃墟の光景よりも、四六時中がなり立てる都会の喧騒を封じた違和感の静寂よりも、まるでジェンガのように人間の血肉がぎっしりと詰め込まれた新建築の崩壊の予感よりも、地上三〇〇メートルで浮揚生活する不自然さよりも、ひとひとりいない濃紺の静寂と、わずかながら緑が覗き見える窓々が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。
「ここがキッチンで、ここがバスルーム。照明や空調のコントロールパネルはここに集中している」
俺は一個の鍵をポケットから出して息子に預けた。
「オートロックのキー。キーホルダーは好きなものを適当につけなさい。暗証番号はその都度自動生成してスマホに送られる。他に何か困ったことがあったらいつでも言いなさい」
「ありがとう」
階段を上がった俺はドアを開けた。聡は飲みかけのミルクティを抱えていた。まだ半分残っている。
「そして君の部屋。ベッドもあるし、前に送ってもらった下着や洋服もあるし、PCもある。後で設定してあげよう」
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