『薔薇少年(ブロッサムボーイ)』
(注意、本小説のタイトルが物語上、そうなっていますが、此方の小説は男女の恋物語となっております。)
春になれば色鮮やかな薔薇たちが目を楽しませる。
目を楽しませる。という言い方は違う気がする。
薔薇は視界に入ると、刺さるように痛いのだ。それはまるで心臓に薔薇の棘が、柄ごと突き刺さるように、と時雨鳴子(しぐれ めいこ)は自分の思考に悲しげに少し口角を上げて微笑んだ。
目前には鳴子の成績表を、まぁるで毎朝に配達される新聞紙にでも目を通すかのように、病院の院長である父親が興味無さげに目を通している。父は大体に目を通すと成績表を机に落とした。その様がまるでいとも容易く人間に手折られてポトリ、と地べたに落とされた、憎々しげに綺麗に真っ赤に染まった薔薇のように見えて、鳴子は『ほぅら、やっぱり可哀想』と何気なく思った。
鳴子にとって成績表は完璧でなくてはならないもの。それは立派に咲き誇った美しい高貴な薔薇の花と似ているとも思った。しかし全てにおいて完璧なものも『当たり前なものとして見られているソレ』はこうして簡単に机の上に落とされる。それが如何に鳴子が努力して咲かせた完璧でいて綺麗な薔薇であっても、だ。
「次も期待している」
「ええ、御父様のご期待に添えられるように次も頑張ります」
水のような優しい労わりの言葉は要らない。
時雨鳴子という人間について、彼女は完璧で、欠落だらけの普通の少女であった。
□
そんな彼女にも春は訪れるようで、それはまるで春に季節が巡ったというのに季節外れの雪がなんの前触れもなく降ったかのように、突然の出会いであった。
保健室の扉に左手をついて黒い短い髪をした少年は「すみません」と保健室の簡易パイプ椅子の上へ腰掛ける鳴子へ声をかけたのだ。
「治療をお願いしてもいいですか」
「いいも何も保健室は治療をする場ですよ」
面白半分興味半分で皮肉を返せば少年は表情を赤くして「おれ、変なこと言いましたよね。すみません」なんて口にするものだから、鳴子は『嗚呼この男は周りと同じで、きっと扱いやすい』と思った。
そういえば、この少年はある意味有名な人間であったと鳴子はふと思い出した。
『遠山竜一(とおやま りゅういち)』何もない場所で転び、廊下では走ってもいないのに転ぶ。勉強は出来栄えが悪く先生も頭を悩ませていた。同級生が皆こぞって『遠山はドジで駄目な奴だ』と嗤っていた。ので『じゃあ、そんな風に人を嗤う御前等はさぞ出来栄えがいいのでしょうね』と内心で密かに思ったが、口にするはずもなく『どうせ、わたしには関係ない話なのだから必要のない情報ね』と確か下らない話を耳にした。程度で思考外へ勢いよく蹴飛ばしたのは記憶に新しい。
そんな少年に構っているほど鳴子は暇ではないと勝手に判断し、鳴子は遠山を保健室に招き入れ、まるでマニュアル通りに淡々と治療を開始する。
「記録簿へ学年と名前を記入しますから、教えてください」
「ちゅ、中等部、二年、遠山竜一」
「体調も記入しますので、悪いところがあったら教えてください」
「体調が悪いとかはないです。」
ただ怪我が酷いから悪化する前に、幼馴染に行ってこいって言われたから来ただけで…。
そう続ける遠山は心なしか表情が赤い気もするが、どうせこの無駄に造形の整った鳴子の顔でも見て心臓をときめかせているのだろう。ウンザリだ。鳴子は外側は綺麗な笑顔で固めると、心の中で吐き捨てた。
「確かに怪我は早めに治療するに越した事はないですからね。それでは、怪我をした箇所を見せてください」
「あ、はい。待っててください」
そう言って遠山は学ランの長い袖を腕まくりをし、両腕の二の腕まで捲り上げ、ズボンの裾を膝下ほどまで両方捲りあげ指差して辿々しく説明をし始めた。
「右腕の上のこの辺と、あと右手の甲と左の肘あたりと左手の甲と指、それから足のこのあたりと…」
「ちょっと待ってください。」
「な、なんですか?」
「どうやったらそんな数の多く、酷い傷の怪我を負うのですかっ!」
思わず冷静さを欠いてしまった。鳴子は内心頭を抱えつつ問いただす事をやめない。遠山は驚いているようで、少しの間目をまぁるくしていたが、数秒瞬きをして、へらりと微笑んだ。何が可笑しいのだろうか。遠山は照れ臭そうに頭を掻いて言った。
「おれ、小さい頃から動物に好かれるんですけど、珍しいことに校舎裏に懐かない猫がいて…。未だ小さい猫なんですけれど、猫缶を買って来て、先生にも見つからないように内緒で餌をやってたんです。」
「もしかして顔が赤いのも…」
「あぁ、今日思い切りその猫に引っ掻かれてしまいまして、もしかして腫れてたりしますかね?」
思わず深いため息を吐く。遠山の顔が赤かった理由、鳴子の顔に見惚れていたのではなく猫の引っ掻き傷が腫れていたからだったらしい。我ながら恥ずかしい勘違いをしてしまった。鳴子は平静を取り戻すように淡々と治療を始めようとコットンガーゼに消毒液、ティッシュ、アルコール、バンソーコーの一式を慣れた手つきで素早く用意する。
「学校で何をやっているのですか…学生の本分は勉強でしょう」
「でも、命の尊さを学ぶことも学生の本分だと思いませんか」
「迷い猫だとしても、妙な菌を持っているかもしれませんよ」
「それでも、腹を空かせている猫の命は見捨てられません」
遠山は優しく笑う。鳴子は空いた口が塞がらない。この少年は、否、こいつはきっと、馬鹿だ。それも優しすぎて損をするタイプの馬鹿だ。救いようがない。遠山は軽く謝りながら傷だらけの腕を差し出した。
「傷が多くてすみません」
「…もっと早めに来てください。これ以上放置していたら傷にばい菌が入って膿んでいましたよ。」
「えぇ、本当ですか」
「本当です。取り敢えず次回からは、また引っ掻かれたら早めに保健室へ足を運びになってください。私が治療いたしますから」
鳴子は保健委員長だ。保健委員に所属している生徒は来ない人間ばかりで、鳴子が代わりに大体保健室にいる。
百聞は一見にしかず。遠山という男は中々に目が離せなくて面白そうだ。
目に入れたら遠山の優しい笑顔に心が温かくなって、上辺だけの誉め言葉や笑顔を向けられた時のように、まるで薔薇の棘が刺さるように痛む心臓は不思議と痛まない。
鳴子は遠山には見えないように少し優しく微笑んだ。
□
その日の晩、鳴子は少しばかり不思議な夢を見た。真っ暗闇の空間に気が付いたら鳴子はそこにいて、目前には薔薇のような真っ赤な髪の毛をした自分と同じ体躯をした、まるで鳴子そっくりのおんなの子が居たのだ。少女は髪色こそは違うが、鳴子と同じふんわりとした天然パーマを揺らすと『くすくす』と擽ったそうに笑った。全く擽ったく無さそうに笑う。嘘をついているかのように少女は笑う。
鳴子はなんだかその人間かもわからない人間が怖くなって問いかけた。
「あなたはだれですか」
「ワタシはわたしよ。貴方よ。賢い鳴子なら分かるでしょう」
完璧な部分の鳴子。それは気高く美しく、誰にも手が伸ばせない程、水は与えられないまま日陰で綺麗に育った、何も感じない刺だらけの真っ赤な薔薇の少女。
鳴子は瞬時に『嗚呼、目前のこの少女はもう一人のわたしなのだ』と気がつくと不機嫌そうに笑顔のそいつを睨みつけて訊ねた。
「ワタシがわたしに何かご用ですか?」
「わたしにひとつ忠告をしておこうと思いまして」
「忠告とは?」
「薔薇はいとも容易く手折られるのです。それがどんなに面白くて優しい人間が相手であっても、綺麗な薔薇はあっさりと手折られるのだと、ね。」
「何が言いたいのです」
「わたしが伝えたいのは、そう簡単に人間を信じるのはやめておきなさいと伝えたかったのです。以前わたしはある人間に執着をして、裏切られたでしょう」
「…現在と過去は違います。はやく退きなさい」
「幼馴染のあいつ。唯一受け入れてくれると思った幼馴染の秋田秀一。懐かしいですね。大切な人間をつくったらまた裏切られるでしょうか?」
「黙りなさい!」
少女…いや、薔薇はくすくす楽しそうに笑う。目尻を下げてとっても愉快そうに。それを見て鳴子は「わたしの問題です」といい加減腹が立って来て薔薇に手をあげようとした時ー…。
□
ハッ、と目が覚めた。勢いよく目を開けて天井を確認するとゆっくり身体を上質なベッドの上から起こして、零れ落ちた涙を拭う。
そして言い聞かせるように言うのだ。
「大丈夫、わたしは真っ赤な薔薇なんかじゃぁない。裏切られない。あの頃とは違うんだから」
言い聞かせるとベッドから降りて、春になっても未だ冷たい床の温度を裸足で感じて小さく身震いした。
□
「…遠山くん、また傷が増えていませんか」
鳴子はあれ以来、週に一度くらいの頻度で、大量の引っ掻き傷やら噛み跡やらを身体に遺して保健室に通う遠山を慣れた手つきで治療しながら呆れたように言った。遠山は『あはは』と笑って誤魔化そうとする。そんな遠山をギッと睨みつけ言う。
「いいですか。何度も言いますが動物は妙な菌を持っていることもあります」
「うん」
「関わるということは、身体に傷を作るケースも増えますし、当たり前ですが懐かれたら懐かれたらで後に面倒です。」
「知ってる」
遠山はけらけら笑う。遠山の陽だまりのように優しい穏やかな笑顔は、鳴子にとって日陰で育った水も注がれないような薔薇には眩しすぎるのだ。
鳴子は治療を終わらせると保健室から去ろうとパイプ椅子から立ち上がりかけた遠山の腕を掴んだ。
すがるような形だった。こんな風に人に対して我儘を言うように引き止めたことは鳴子にとって初めてのことだった。遠山は目を少し見開いて驚いた顔つきになる。遠山を困らせるかもしれない。それでも鳴子は覚悟を決めたようにゴクリ、と唾を呑み、遠山へ訊ねた。
「話が変わります。くだらない例えばの話です。もしも、もしも、わたしが人間ではなく、棘だらけの薔薇でも、あなたはわたしと会って話をしてくれますか」
ほんとうにくだらない質問だと自分でも思った。
鳴子の手が珍しく少しだけ汗ばんでいた。そんな様子に気が付いたのか遠山は目をぱちくりさせた。遠山は『うぅん』と少し悩むそぶりを見せてから、また笑った。
「時雨さんがもし植物で棘だらけの薔薇をしてたら、例えばの話でも時雨さんは時雨さんだし、話しかけると思う。棘だらけだったら手入れをするし、それで日の当たる場所で水を注いで、時雨さんの可愛らしく咲く薔薇を見て、なんだか楽しくなったおれは薔薇の時雨さんに歌を歌うと思う。」
「薔薇に歌を歌う、なんて、ばかみたいです。それに手入れをするなんて、棘が指に刺さるかもしれないんですよ。あなたが傷つくんですよ」
「そしたら時雨さんに手当してもらうから大丈夫だよ。あ、でもその時の時雨さんは薔薇の姿だから、手当してくれる人がいないのか。おれ自分で手当てできるかな」
気が付いたら鳴子は泣いて笑っていた。遠山はそんな鳴子の様子に慌てた様子で手をあたふたと振っていて、それがなんだかすごく可笑しくって鳴子はまた眦から涙を零して笑った。
可笑しくって、楽しくって、嬉しくって、今まで考え込んでいた冷たい感情たちが、暖かい感情たちで溢れてとまらない。
鳴子のまるで水滴が、ぽちゃんと一滴ずつ水面に落ちていくように速まる鼓動が、鳴子の感情の答えを示していた。
鳴子は眦にたまる涙をらしくもなく乱雑に拭うと咲いながら遠山に言った。
「ばかなひと、わたしが薔薇であろうと、傷をついたあなたを手当しますから安心してください」
(嗚呼、わたしはこのひとが好きだ)
□
春に出会って季節外れの雪が降って、夏なんかあっという間に通り過ぎて、秋が深まり金木犀の香りが街中を包み込み始めたときには、もう校舎裏にいた、遠山が世話をしていた小さな猫は大きなずんぐりむっくりとした太っちょの猫に成長していて、今では鳴子の家族の一員となっていた。
父親に駄目元で猫の飼育を相談したところ『初めての我儘』ということで通してもらえたのだ。
まぁ、なんだかんだ言って現在、一番猫に対して愛を注いでいるのは顔面鉄仮面のような父なのだが。
猫は鳴子を気に入っているのか、よく鳴子の足元に来ては、鳴子が父親から睨まれる。
そして『人質を寄越せ』とでもいうように父親が娘を睨む、という珍妙な構図が今では日常になりつつある。
此れには、今まで家族不仲問題に対し、だんまりであった母親も、どうやら驚きを隠せないようであった。
□
橙色に染まった誰もいない教室で鳴子は遠山となんだかんだ話していた。遠山が育てた猫の近況を知らせることは、鳴子の最近の日課になりつつある。
「あの猫の名前の件ですが、春雪(ハルユキ)という名前になりました。」
「へぇ、誰が名前つけたの?」
「わたしです。元々迷い猫でネームプレートもなかった猫には名前がなくて、春(ハル)と代わりの名前を付けて呼んでいたと、随分と前に遠山くんから聞いていたので、春雪になりました。元々呼ばれていた名前に近い方が猫も親しみやすいかなと思いまして。」
「なるほど、ねぇ、今度もしよければ春雪に会わせてほしいな」
「別にいいですが、わたしの家へ来ることになりますよ」
「ええ!?それはハードルが高いよ時雨さん…。」
「ふふ、冗談です」
今度御父様に内緒で校舎裏に連れて来ます。
そう言って人差し指を唇に当てて内緒のポーズで笑えば表情を薔薇のように真っ赤にする遠山。
そんな遠山がわたしは愛おしい。
遠山がすごい勢いで右手を差し出した。まったく、本当にこの男は何をしでかすか言い出すか見当がつかない。
「もし、もし時雨さんが嫌でなかったら、なんですケド」
「はい」
「好きです。付き合ってください!」
真っ赤な遠山は目を瞑っているから、今のわたしの表情は見えないのだろう
見られなくてよかった。心底そう思った。
ーこんな真っ赤な薔薇のような赤い表情は見せられないー
「わたしが面倒な女でもよければ。どうぞ付き合いましょう」
春を運んで来た季節外れの雪。
人と関わることを怖がっていたわたしに新しい風を運んで来たのは、暖かな陽だまりのような遠山。
憎々しいとしか感じなかった、痛く突き刺さった忌々しいあの赤色の薔薇は、きっとこれからは心から素直に可愛らしい真っ赤な花だと思えるだろう。
鳴子は遠山の右手を柄にもなく引っ張って、遠山の頰に、水滴がひとつ落ちたかのように小さくキスを落とした。
終
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