『金木犀少女(キンモクセイガール)』

秋になると芳しい花の匂いが鼻につく


鼻につく、といった言い方は間違えている気がする。そう秋田秀一(あきた しゅういち)は顔を横に、ぶんぶんとかぶりを振った。


道を歩けば緑の中に小さく咲く、強い赤みの橙色をしたソレはちょこんと姿を現す。

綺麗な花だ。と素直に思う。甘くてつい蜜を吸いたくなってしまうような、無意識に人を酔わせてしまう匂い。小さく愛らしく咲く花はどこか謙虚でいて、色が少し派手なせいか『自分はきちんと今年も此処にいますよ』と主張をしてくるようで、毎年秋の季節に入ると、金木犀を見る度に『嗚呼、此奴は毎度生真面目な花だなぁ』なんて夢想家では無いが、秀一は思ってしまうのであった。




「秋田秀一くん、良い加減授業へ出なさい」


命令口調の可愛げもない女の声に、屋上へ続く階段の最上階、冷たい踊り場の床上で寝転がっていた身を秀一は気怠げに起こした。秀一は欠伸を噛み殺して、未だ眠気が侵食する脳味噌をゆったりまわす。目前の仁王立ちしている女へ目線をやれば予想通りの女がそこには立っていた。

可愛くない吊り上がった目に、肩より少し長めの髪を二つに分けて三つ編みに分けたそばかすの眼鏡をかけた少女、長谷咲良(はせ さくら)

長谷は怒ったように小さな口を大きく開けて言った。


「まったく、授業をサボる困った生徒を、教室へ連れ戻す役割をいっつも押し付けられる、学級委員長の私の事も少しは考えてくれても良いんじゃぁないの?」

「なんで俺がわざわざお前のことを考えなきゃなんねぇんだよ。学級委員長にはなりたくてなった癖に。」

「学級委員長は押し付けられただけよ。ただ、いっつも先生に授業を追い出されては秋田の事を探しに行かされる私の気持ちも考えなさいってこと」


そう言って長谷はフンと可愛げなく鼻を鳴らす。嗚呼、可愛くない。謙虚に可愛らしい花である金木犀とは大違いな在り方だ。ハンと秀一は内心鼻で笑い返した。…のだが。

「…?長谷、なんかお前香水つけてる?」

「はぁ?学校にそんな匂うものつけてこないわよ。」

なに、私くさいの?そう言って怪訝そうな表情で自身の腕を嗅ぐ仕草をする長谷からは確かに金木犀の香りがした。しかし此処で長谷のソレを指摘して女子からの非難や罵倒を浴びる程、秀一は肝が据わっていなかったので、黙っていることにした。

「いや、なんでもねぇ、忘れろ」

「?なに、へんなの」

授業もそろそろ終わっちゃうし、今回は諦めて私は先に教室に戻るから、次の授業は参加しなさいよ。そう言って長谷は三つ編みを翻して階段を降りていってしまった。秀一は長谷の言葉を無視してもう一度二度寝を決め込むことにした。それにしても

(甘い、陶酔しそうな匂いだった)

決してぎたりと油っこくもない、嗅いでいて優しい気持ちになれる秋の魔法の花、金木犀の香りのようだ。柄にもなくそう思い、眠りについたのだった。

真っ暗な空間にいた。

何故か秀一は古びた椅子に座って、そこで橙色の真新しいブックカバーにかけられた少し黄ばんだ分厚い本を読んでいるのだ。

新しいんだか古びているのだか分からないその本を捲ると秀一の目はとある項目へ行く


ー金木犀についてー


金木犀の剥製だろうか。写真のように並べられた金木犀の花と葉の隣のページに詳細が書いてある。

何故金木犀なのだろう。そう思いつつ好奇心のまま花言葉について秀一が目を通そうとしたその時ー…。

ハッと目を覚ました。のそり、と身を起こして屋上の開かない扉の窓から空の色を見る。薄闇に包まれているところと遠くから聞こえる部活中の声の全体をみると、どうやら自分はあれから随分寝こけてしまったようだった。

自業自得で硬い場所に寝そべっていた為に凝った肩をならしながら、秀一は今度は学校へ薄手の毛布を持ち込むか。などと頭をガシガシと掻き、学生あるまじきことを考える。

「そういえば、なんかへんな夢を見ていた気がする」

しかし思い出そうとしても、夢の内容は砂時計の砂のようにサラサラと溢れて、秀一の頭の中には残ってはくれなかった。

「帰るか」

欠伸をしながら屋上の階段をゆったりと降りて教室へ戻る途中に教室から少年の声が聞こえた。


「好きです。付き合ってください」


少年くんは顔を真っ赤にしていて、秀一の幼馴染の少女に告白していた。少年くんは確か名前を遠山竜一(とおやま りゅういち)といったか、秀一のクラスメイトの一人だったはずだ。

未だ覚醒していない頭でぼんやり考える。ついでその遠山くんに告白されている少女の名を時雨鳴子(しぐれ めいこ)。

実は時雨と秀一は過去に周囲のひやかしや流れもあって一時期付き合っていた。が「私たちはやっぱり友人の方がいいよねぇ」と時雨が食えない笑顔で言い残して別れたままだったのだ。

(しかしよくもまぁ、遠山もあの性悪女に告白するな)

時雨は髪が黒く、青みがかったふわふわの天然パーマをしていて、可愛らしく零れ落ちてしまいそうな青い瞳もまぁるく、体躯も女の子らしい。見目は美少女の部類に入るだろう。が、それは黙っていればの話だ。喋ってみればびっくり箱の如く飛び出す面倒臭さ「あれが欲しい」「こうして欲しい」「秀一は弄りがいがある」だのなんだの。

やめておいた方がいいぞ、遠山くんよ。そいつは薔薇のような女だ。棘があるぞ。と心の中で声かけるがその声は悲しきかな当たり前であるが、あまり話したことのないクラスメイトの遠山には届かず。

「わたしが面倒な女でもよければ。どうぞ付き合いましょう」

面倒な女は意外にも了承したので、遠山のこれからを想い、秀一は心の中で小さく合掌したのであった。


そんな二人がいる教室を覗いていたのは自分だけではなかった事を、目線を前にやった事で秀一は知ってしまった。

三つ編みの女が泣いている。夕日に照らされた教室で、橙色の逆光を浴びながら長谷は眼鏡越しに涙を一つ流していた。

とても、とても穏やかな涙で、秀一は声がかけられなかった。

長谷は静かな足音で、優等生とはとても思えない速度で廊下を走り抜けて言った。

なんだか放って置けなくて秀一は柄にもなく普段使わない足に力を入れて廊下を蹴り上げた。



夕どきに突然何の前触れもなく降る雨がある。橙色に染まった優しい夕焼け空は何処へ行ってしまったのか、突然やってきた灰色の雲が大雨を降り注ぐ「これが欲しかったのだろう」と空の神さまが言うように、大きな粒で降り注ぐそいつは、今や秀一にとって皮肉にしか感じられない。ぬかるんだ地面を白いスニーカーで蹴飛ばして秀一は長谷を追いかけた。

追いかけた先にある人気のない寂れた土手の上で、ひとりの少女は眼鏡を外して、空を仰いで大雨に打たれていた。

寂しげな表情であった。そんな長谷の涙なのか鼻水なのかを流そうと、雨はたくさん降る。ざぁざぁ降る。

秀一はそんな長谷を見ていられなくなって、頭をがしがしと困ったようにかき混ぜると長谷に近づいた。

「濡れると風邪ひくぞ。学級委員長」

「うっさいわね、何であんたがこんなとこにいんのよ」

秋田が居るんじゃ泣けないじゃない。


そう言って長谷は泣きながら笑った。

「私、遠山が好きだった。初恋で、ずっと恋してた。けど、遠山に好きな人がいるって聞いて、悲しみは心の中にしまって、ずっと善人ぶって遠山の恋を応援してた」

「…あっそ」

「そうなの。私は遠山の実った恋が喜べないひどいやつなんだよ」

そう言って無理に笑顔を作ろうとする長谷が見ていられなくて、秀一は着ていたずぶ濡れの学ランを脱いで、有無を言わさずに、思いきり長谷の頭の上に被せた。長谷は驚きで声をあげたが秀一が「いいか委員長よ」と言って被せた学ラン越しに耳のあたりを両手で抑えたことによって黙った。

「俺はお前が善人だろうが悪人だろうがどうでもいい。他人の色恋沙汰なんか知ったこっちゃねぇからだ。」

「…そう」

「けど、失恋したやつが無理に笑おうとするな。好きだったやつの幸せを無理に願おうとするな!」


お前はお前の恋を頑張ったんだから、これ以上無理に笑ったら、お前が辛くなるだけだろ。


そう言って学ランの上着から未開封の飴が丁度あったので、それを探って長谷の濡れて強張った右手の上に、乱雑に握らせて渡してやる。

「雨だけに飴、なんてな。」

「ダッサ、何その駄洒落」

「気が向いたら食え」

「あんがとサボタージュくん」


そう言って長谷はやっと咲った。雨に打たれた金木犀が緑の葉から少しだけ顔を出したように。小さく、悲しそうに、雨の音が嬉しそうに咲った。



「まぁたサボってる」

「…」

数日後、目前には仁王立ちした女。三つ編み眼鏡そばかすという如何にも真面目な風貌をした長谷に対し、秀一は気だるげに屋上の階段踊り場の床から身を起こす。

「どうしてこうも中々諦めてくれないかねぇ。俺は授業でねぇぞ。」

「バァカ、今日は呼びにきたんじゃないわよ」

「はぁ?」

首を傾げれば飛んでくる黒い学ラン。乾いてパリッとした学ランは御丁寧にアイロンが軽くかけてある。成程、長谷は意外に家庭的な女らしい。「さ、入るわよ」そう言って長谷が得意げに言い立つので、そのまま促され思わず視線を上げる。目線をあげた長谷の薬指の先には、錆びた鍵がひとつぶら下がっていた。それには思わず秀一もポカン。

「職員室から屋上の鍵をパクってきたわ。優等生も偶にはサボタージュしたくなんのよ。付き合いなさい」

「…長谷って普段特段に何もやらかさねぇクセに、偶にやらかす事がデケェよな」

「なんとでもおっしゃい。」

そんな風に愛らしく咲う長谷からは、もう金木犀の香りは香ってこない。

きっと雨に打たれて金木犀の香りも消えてしまったのだろう。

「あ、そういえば」

秀一があの日見た夢、金木犀の花言葉について、今何故か思い出して、長谷を見つめる。

「…気高い人、ねぇ。」

「何ぶつぶつ言ってんのよ。早く入りなさい。扉締めらんないでしょ。」

夢の中で読んだ本に書いてあった。

金木犀の花言葉は「謙虚」「陶酔」「謙遜」「初恋」また「気高い人」の花言葉は雨が降ると、その芳しい香りを惜しむ事なく、潔く花を散らせることから由来している、と。

長谷はほんとに失恋してしまったんだなぁ。なんと考えながら屋上から見える青い空に瞳を輝かせている長谷をなんとなく眺めていると、長谷が言ったのだ。そういえば、と言わんばかりに。

「あんた、匂うわよ。」

なんか甘ったるくて金木犀みたいな香り。


香水でもつけてるの?と小首を傾げる長谷が小さく愛らしく咲く金木犀に見えてしまったので、秀一も大概手遅れなのだろう。

「嗚呼、俺も長谷とおんなじで恋してるっぽいわ」


さて、金木犀は咲いたばかり。雨打たれるか、青空へ飛んでゆくか、それとも美しく最後まで咲き誇るか。それは誰にもわからない。長谷にも、秀一にも。


秋は未だ始まったばかり


金木犀の香りが流れるように風をきって横切っていった。



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