傷と煙草
神木
傷と煙草
梅雨が明けて太陽は一層燦爛として、辺りを焼いている。そば屋までの道で、私の腕はかすかながらひりひりとしていた。店員に隅の二人掛けの席に案内されて、私と和田は対面して座ることになる。
五分やそこらの徒歩で、丸く突き出た腹と胸の間にあるくぼみには汗が溜まって、藍色のポロシャツには染みが浮いている。髪のない頭をお手拭きで拭くと、一瞬だけでも心地いい。対面に座っている和田は、制汗剤に日焼け止めを付けているから、さらりとした顔をしている。シャツには汗染みひとつない。髪の生え際にうっすらと水滴が浮いている程度だ。
お冷を飲み干し、ビールとつまみを頼む。私から勃起が失われてから、むしろ飲酒量が増えた。始めから勃たないことが分かっていれば、対策ももうなにもいらなかった。
「内定、おめでとう」
「いやあおかげさまで」
いくつかの大学の非常勤講師を経て、和田は来年から北海道の母校に無任期の常勤職にありつくことになったのだった。統計だのビッグデータだの、そういった研究をしているのだと出会った当初に聞いたが、深くは知らない。三十半ばで地方大学に勤めることが早いのか遅いのかも私は判断ができなかった。
和田は十三年前に大学院のために北海道から上京した男で、私と出会った頃にはすでに東京に適応して遊び慣れていた。声をかけると、容易く抱かれにやってきて、私の家で事を済ませてはこのそば屋で酒とそばを食わせ帰すということをしばらく続けた。
そのうちに一緒に暮らすことになり、まるで有望な院生のパトロンみたいな顔をして不動産屋に行き、部屋を借りた。恐らくは聡明で、身体も引き締まっている和田はいくらでも選択肢があったはずだが、なぜか私を選んだ。私は私でそのままぬるりと生活を続け、それがいつしか馴染んでしまった。そして和田は生まれ故郷に無任期の職を得て帰ることになった。非常勤講師の足りない給与、不安定な雇用、単身では成り立たない家計は、誰かと生活をしていなければ送ることができなかっただろう。そのことに私は誇らしさと両立した苛立ちのようなものがあった。
だがこの男を自分の看取りのために東京に縛り付けておくよりは、どこだかの大学に行った方が、ずっと和田自身のためになるだろう。そう私はしばらく前に腹を決めていたけれど。
やっぱ実家で暮らすのか、と問うと、和田は破顔する。
「まさか。息が詰まっちゃいますよ。一人暮らしかなあ……家を買うのもいいですね。大学教員ってけっこう薄給だし、しばらくは賃貸でしょうけど」
家を買うことの重さもよく分かっていなさそうな調子で言うものだから、ビールと一緒に言葉を飲み込んだ。一人暮らしでよかった、と思ったのだ。もう北海道に一緒に暮らす友人がいるようなそぶりがないことに安堵して、それを自覚した瞬間に嫌悪した。
私から勃起が失われ、和田は外に数人の友人と恐らくは関係を持っていた。しかしそんなことはどうでもいいのだ。私の勃起が私だけのものだったように、和田の勃起も肛門も和田のものだ。この男の何一つ私のものではない。好きに使えばいい。だというのに、もし北海道にもう次の相手がいたらと思うと、何かを言いそうになってしまう。
この先の時間は、和田にとっては広がっているが、私にとっては閉じるばかりだ。可能性を摘み取り、答え合わせをし、総仕上げをして死ぬ。何か言えば惨めになるばかりだ。
ビールを追加する。メビウスを取り出して、咥えて火をつけて吸うと、先端がちりちりと赤く燃焼して灰を産んで自身を短くしていく。清涼な煙を横に吐く。
傷ついてなんかやるものか。お前との生活は私を傷つけることなどできなかったのだ、笑って送り出すのだ。キャリアと生活を天秤にかけた結果を、私は年上の寛容さで笑って許すのだ。そしてそれを見透かしたように和田の微笑も崩れることはない。どちらもが笑っていれば、生活は無傷のままで終わることができるはずだった。
やがてビールを終えて、煙草を灰皿に捨てると、二人でざるそばを頼む。緑がかって、つやつやとしたそばと、深い紫のつゆ。そしてわさびと葱だ。薬味をつゆに溶き、そばを啜って飲み込む。酔った舌を、冷たく香り高いそばがつるつると滑っていく。
何気なく窓に目を向けると、日を浴びる植物園が見える。和田と行くには、生活以上の状況を迎え入れてしまいそうで、何となく憚られたのだ。買い物も居酒屋も、二人で旅行に行くのだっていい。しかし植物園は生活から離れているわりに、近すぎるのだ。だから行けなかった。
和田はジョッキを干し、これは室井さんにしか言わないのですが、とわざわざ前置きまでする。
「もし室井さんが行ってほしくなかったら、研究者なんかやめますよ」
「やめてどうする?」
「どうにでもできます。博士号が邪魔ですけど、統計の資格もあるし、プログラミングもできますし。どこかの会社が拾ってくれるでしょう。非正規かもですが」
鼻で笑うと、和田はひるんだ。
「お前のことを私に決めさせるんじゃない」
和田は何かを言おうとする。それよりも早く、私は彼の唇にメビウスを突き出した。和田は不満そうに、煙草を一本だけ引き出して咥えた。瞳が揺れている。もしかしたら傷つけ合いたいのかもしれなかった。これまで打ち立ててきた生活を、二人でめちゃくちゃにしてしまいたいのかもしれなかった。確かにそれも悪くなかった。壊さないように積み上げてきた時間を足蹴にしてできた傷こそ、忘れることのできないものとして残るだろう。そして私は残りの人生を、鮮やかな傷を抱えてやりすごすことになる。悪くない。だが、それがどれだけ忘れられないものであっても、傷は傷でしかないのだ。
ライターを出す。軽い音で弾けた火花がオイルに燃え移る。親指に緩やかな熱が伝わる。赤いささやかな火を、和田の咥えた煙草に当てた。しかし火はなかなかつかない。煙草に嫌悪がないくせに、本人は吸わないから分からない。
「吸わないとつかない」
言われた通りに、和田は口をすぼめて煙草を吸った。じりじりと、先端が燃え始める。そして煙がフィルターを通り、和田の舌と喉に流れていく。分かりやすく顔を歪めて、和田は煙草を摘まんで口から外した。
「まずい」
鼻や口から煙が流れているのが間抜けで、私は頬を緩めた。和田も微笑を取り戻した。さっきまでの幼い気配は、彼のずっと奥に引っ込められたのが分かった。
「こんなまずいもの、よくうまそうに吸いますね」
「うまいとかまずいとかじゃないんだよ、こういうのは。肺に流さないで口の中で楽しむんだ」
「こうですか」
味を確かめるように、再度和田は煙草に口をつけて、注意深く吸う。目を伏せて煙を唇の端から吐き出す。やはりまずかったのか、摘まみ上げた煙草の吸い口をこちらに向けて渡される。本当は灰皿に捨ててほしいのだが、店内が空いているのもあって、私はそれをついばむように唇で受け取る。受け取った途端に、私は気まずくなって前のめりになった身体を戻して深く煙を吸って、すぐに灰皿に捨てると、勘定を済ませる。
家までの道を並んで歩きながら、一緒に来てください、なんて言われなくてよかったと私は息をついた。息子のような年齢の男に連れ添って知らない土地に行くくらいならば、一人で床の染みになったほうがまだましだ。誰かの人生に噛みにいけるほど、私はもう軽やかではいられない。しかし恐らく私は、和田から誘われたならば、自分の人生の総仕上げなど吹き飛ばして、北海道まで着いていったのだろう。それが何よりも怖ろしく、苛立たしかったのである。
傷と煙草 神木 @kamiki_shobou
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