2.現時点で唯一の味方

 俺が前世の記憶を取り戻して、数日が経った。

 周囲の人間を観察して分かったことだが、どうやら俺は、あまりみんなによく思われていないらしい。

 というのも。まず、俺は子ども部屋からほとんど出られない。一日に一度ある散歩の時間に、乳母に連れられて屋敷の周りをぐるっと歩くくらいだ。

 

 乳母は、三十代くらいの上品な女性で、俺の行儀作法の先生も兼ねてるみたいだった。「公爵家子息らしい振る舞い」をしてくださいね、と、日に十回は言われる。

 でも、不思議と、口うるさい感じはしない。穏やかに、言い聞かせるように喋るからだろうか。それに、愛情を持って接してくれているのが分かるからか。

 彼女以外、俺と積極的に関わろうという人間は皆無だ。


 部屋付きのメイドも、掃除の仕事はやるが、子守りをしようという気持ちは無さそうだ。手早く部屋を清掃して、俺のほうなんか一度も見ずに礼をして、そそくさと去っていく。

 両親も兄も、死んではいなさそうなのに、「セルノアルド」が物心ついたときから会った記憶は片手で数えられる程度である。

 たぶん、俺は、歓迎された存在ではない。


 俺の出生になにかあるのかな……と思ったが、乳母としか接せられていない以上、調べる術もない。メイドの反応も気になるんだよな。俺が喋らないから気味悪いのか?


「セルノアルドさま、手はしっかり握っていてくださいね。勝手に走ったりはなさらないように」


 昼食を部屋で摂り終えたあと、乳母が俺に外行きの服を着せながら、訥々とつとつと言い聞かせる。

 俺は、なるべく真顔のまま頷いた。


 と言うのも、「セルノアルド」がどうして喋らなかったかが分からない以上、今まで通りがいちばん安牌だと思ったからだ。

 それに、子どものふりをするのが純粋にキツい。今のところ唯一の情報源ではあるものの、乳母にベラベラ聞きまくるのもリスクがあるだろうし。

 

 窓の外を見ていても分かったが、季節は冬だ。

 俺は子ども用のコートを着て、乳母に伴われて外に出た。子ども部屋の住人は表の廊下を使えず、使用人が使う通路を通るのだが――すれ違う人間は俺の姿を見て、うやうやしく礼をしていく。


 やっぱり俺、貴族の子どもに転生したんだな。

 腫れ物扱いはされるが、一定の尊重はされる。モチーフとなった十九世紀英国でこの対応は、マジで上流階級しか味わえないんじゃないか?

 歴史とかよく知らねえけど、シャーロックホームズとか読んだことあるし、貧民がどんな生活してるかくらいは分かる。

 

 裏口から庭に出る。

 レイングレイ公爵家は、たいそう由緒があって金もある家だそうで、敷地はかなり広かった。馬車を使わないと、表門まで何十分もかかるらしい。

 まあ、俺は、乳母と一緒に屋敷の周りを一周したことしかない。この情報だって、乳母が喋らない俺に一生懸命話しかけてくれるから知ったことだ。


 ――やっぱり喋るか? 単語くらいだったら許されるか?

 でも、この年ごろの幼児語が分かんねえ……!


 悩みながら、周囲の景色を見る。

 屋敷の表は、表門から繋がる大通りがあったり庭園があったりで、たいそう賑やかだ。でも、裏手に回ると、なんか化け物とかが出てきそうな暗い森が広がっている。

 乳母は、俺が森のほうをじっと見ているのに気が付いて、釘を刺した。


「あちらの森に入ってはなりませんよ。迷子になっては大変です。お怪我をなさる危険もございます」

「……」


 その注意は、ここ数日で三回目だ。俺は頷いた。

 よっぽどヤバい森なんだな。乳母が過保護なだけかもしれないけど。俺は、繋いだ左手を引かれるがままに、歩き始めた。

 子どもの足は短い。乳母も歩幅を合わせてくれるが、そのせいで散歩は長引く。毎日、帰るころにはへとへとだ。

 頑張って歩いていると、ちょうど屋敷の角のところで、女性使用人が数人、寄り固まって話しているのが見えた。


「……でしょ? なのにさあ……」

「旦那さまも……らしてて……」

「上の坊ちゃまはご聡明なのに……」


 話に夢中になっているのか、彼女たちがこちらに気付いた様子はない。

 一生懸命、俺への陰口を並べ立てている。


「良い加減、あの気味悪い下の坊ちゃんをどっかにやったら良いのにねえ。一度も泣かないし一度も喋んないって、どっかがおかしいでしょ」

「エクリファールさまがいるんだし、なにも次男スペアを取っとく必要はないでしょう。奥さまだってまだお若いんだから、一人いなくなったってまた産めるわよ」

のに、手放すもんかね?」

「死んだ人間が化けて出なけりゃなんでも良いだろ」

「いっそのこと、精神病院にぶち込んだら良いんじゃないのかねえ! 精神を病んじまった次期ご当主さま! なーんて!」


 あはははは、と一斉に笑い声を立てた拍子に、女性使用人の一人がこちらを見た。

 ひっ、と顔を引きつらせるので、周りも遅れて俺たちに気が付き――同じように固まった。

 俺はそこまでムカつかなかったが、隣を見上げると、乳母がものすごい形相で使用人たちを睨みつけていた。「そこの、貴女たち」と、地を這うような声で言う。


「ここで油を売っていても良いのかしら。私の管轄ではないけれど、家政婦長が知ったら怒るんじゃなくって……?」

「え、ああ、あの、その。ちょっと休憩したくて……」


 恐れ知らずにも弁明を試みた人は、ひと睨みで黙らされていた。

 乳母は静かに、彼女たちへ指を突きつける。


「貴女たちが、下の坊ちゃん――セルノアルドさまのご成育状況をとやかく言えるの? 貴女たちが悪口を言えばこのお方はお喋りになるの? ならないでしょう!」

「そ……そうですけど……」

「場所をわきまえなさい! 自宅ならともかく、ここは職場です! こういうふうに、ご本人に聞かれることもあるのよ!」


 すると、彼女たちは揃って黙り込んだ。まずいことをしたという自覚はあるみたいだ。

 まあ……乳母の言うことは全面的に正しい。雇われの身である以上、彼女たちの処遇は雇い主――この場合は父である公爵の胸先三寸で決まる。

 いや、女性使用人だと、公爵夫人の管轄になるんだったかな?

 ともかく、雇い主一家の悪口を言うのは、賢い選択ではない。明日から無一文で放り出されても文句は言えないだろう。


 俺は静かに成り行きを見守っていたが、ふと、視界の端に、なにか白いものが動くのを捉えた。


(猫……?)

 

 視線をやると、そこにいたのは白い猫だった。アルビノなのだろうか。赤い目をした白猫が、茂みの中でお座りをして、じっとこちらを見据えている。

 その瞳に理知的な輝きがある気がして、俺はそいつをじっと見つめ返した。

 時間にすれば、一分も経たなかったと思う。

 先に目を逸らしたのは猫だった。立ち上がったかと思うと、あっという間に茂みの中へ駆け込んでいく。


(なんだったんだ、あの猫)


 乳母は、まだ怒りが収まらない様子で、使用人たちを叱責していた。

 彼女はいったん火がつくと止まらなくなるらしい。自分でもどう収集をつけて良いのか分からなくなっている。

 どうしたもんだか。

 ちょっと考えて、俺は、繋いでいる手を軽く引っ張った。


 そんなに強い力ではないはずだが、乳母はそれで我に返った。荒くなった息を整え、「このことは家政婦長に報告します」と言って踵を返す。

 俺も、彼女の手を握ったまま、元の道を引き返した。


 ずいぶん短い散歩だった。子ども部屋に戻ると、乳母は上着を脱ぎもせずに、床に膝をついて俺を抱きしめた。

 好き勝手言う連中に、よっぽど腹が立ったんだろう。自分の子どもじゃないのだが、赤ん坊の頃から世話をするうちに、実子と同じくらい愛情を持ってくれているのかもしれない。

 泣いてる……わけじゃなさそうだ。


 彼女はしばらく俺を抱きしめていたが、やがて身を離す。なんのリアクションもしないいつも通りの俺を見て、安心させるように微笑んだ。


「お聞き苦しいことをして申し訳ございません。あの不届者たちは、きちんと家政婦長と奥さまにご報告いたします」


 うわ、公爵夫人まで追加されてる。めちゃくちゃ怒ってるじゃん。

 まあ、俺のためか。ここまで庇われると、なんか照れ臭くなる。

 俺は頷いて、立ち上がりかけた乳母の肩に手を置いた。怪訝そうな顔をする彼女の耳元で、言う。


「ありがとう」


 いやー、庇ってもらったのにお礼を言わないのはちょっとな。俺の美学に反するよな。美学とか今考えたけど。

 乳母は、腰を浮かせた奇妙な格好のまま固まっていた。俺はそそくさとコートを脱ぎ、彼女から離れる。

 だが、いつまで経っても動く気配がないので、様子を伺って――驚く。

 彼女は呆然としたまま、ボロボロと涙をこぼしていた。


「な、なんで? 痛い?」


 なるべく子どもらしい言葉を選んで駆け寄る。持たされていたハンカチで乳母の頬を拭くと、彼女はいきなり俺を抱き上げた。


「うわあ!」

「セルノアルドさま……! お、お声が……お声が……!」


 それ以上は涙に紛れて聞こえなくなる。

 これは……すぐ離してもらうのは難しいな。俺は抵抗を諦めて上を向く。

 彼女の背中を叩いてやったりしつつも、さっきの出来事を思い返していた。


(……先代公爵の遺言? 精神病院にぶち込んだ……次期ご当主?)


 やっぱり、公爵家の事情も、一筋縄ではいかないらしかった。

 

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