第28話 競馬場からの惨い提案
十二月のクリスマスの前後に中央競馬では有馬記念が開催となる。一年間良い子にしていた人だけがサンタクロースの祝福を受けられるレースである。
だが、有馬記念を終えてもまだその年は一週間近くある。その残りの一週間に行われる最後の大一番が、大井競馬場の東京大賞典である。
この『一年を締めくくる大レース』という魅力は中央競馬会も注目していて、ホープフルステークスというレースを作ってみたのだが、今の所人気は比べるべくもないだろう。
地方競馬は基本的に国際交流レースではない為、GIという格付けを名乗れない。代わりにJpnIという格付けを使用している。だがこの東京大賞典は国際交流レースであり、唯一GIの格付けがされているのである。一着賞金も堂々の一億円。
中央競馬からはクプアの参戦が表明されている。他には浦和記念を勝利したグラデュエイターと二着のモンアウトロー、シリウスステークス勝ち馬ライジングバースト、昨年のJBCレディスクラシックの勝ち馬タイシアサガオ、韓国のコリアカップの勝ち馬ニューマーケット。
対する地方勢は、近年稀に見る大豊作と言われている三歳勢が勢揃い。ビヴロスト、ロマンブライト、ウィンザーローズの牝馬勢と、カリナン、ゴールドラッシュ、スプリングオペラ、ラッキーユニバースが出走を予定。
そんな大一番を控えたある日、結城調教師から大切なお話があるので大井競馬場へ来て欲しいという連絡が入った。夜であればと返信をすると、かなりの時間を経て、それで構わないからお越しいただきたいと返信があった。
深雪と待ち合わせをして大井競馬場に向かうと、馬主席に来て欲しいと案内された。愛馬が出走するわけでもないのに馬主席に入るというのは、どうにも変な気分である。
馬主席に入ると、大井競馬場の職員の方にお待ちしておりましたと言われて別室へと案内された。正直、この時点で嫌な予感しかしなかった。
個室の扉を開けると、そこにはいつもの厩舎にいる時のようなラフな格好ではなく、タイトスカートのスーツに身を包んだ結城が待っていた。そしてそれ以外に二人の男性。
久々に顔を見る二人の男性は、俺たちを見ると明らかにそれとわかる営業スマイルを浮かべた。二人のうちの一人、名古屋競馬場の
もう一人の男性、名古屋競馬場の
そこから暫くは林戸が、ビヴロストの前走、前々走のレースについて熱く語った。愛馬を褒められるのは非常に嬉しいのだが、相手がこの二人である事と、飲み物を盆に乗せて帰ってきた結城の顔色がどうにもすぐれない事から、どうにも不安が拭えない。
高そうなシャンパングラスに注がれたシャンパンを口にして藤野は結城にたずねた。
「今回の東京大賞典はどうですか? ビヴロストは良い着が拾えそうですか?」
何かに怯えるように結城は藤野から視線を反らし、俺たちをちらりと見て、申し訳なさそうな顔をして視線を机に落とした。
「相手も揃っていますのでどこまでやれるかはわかりませんが、いつも通りの力を発揮してくれれば十分にやってくれると思っています」
藤野はそうですかそうですかと二回繰り返し、満足そうな顔で俺たちを見た。是非良い結果を期待したいですねと言って微笑んだ。
なぜだろう。藤野が嬉しそうにすればするほど不安が募る。
まるで世間話でもするかのように今度は林戸が、ビヴロストの強さはどこにあると考えるのかと結城にたずねた。結城が挙げたビヴロストの強さは大きくわけて三点。
一点目は先行力の早さ。
どのような早い流れでもすっと五番手以内に付けて追走できる。それでいてどのような早い流れでも潰れないスタミナも持っている。
二点目は終いの力強さ。
最後の直線で、坂道を気にせずに末脚を発揮できるという並外れたパワーを持っている。だからと言って坂を上り切った後で切れ負けするという事が無い。前走がそうであったように、切れ味勝負ならそれはそれで対抗できる十分な末脚も兼ね備えている。
三つ目がコースを選ばないという点。
これまでビヴロストは色々な競馬場で走ってきたが、どの競馬場の砂にもしっかりと対応してきた。さらに左右の回りも気にしない。重馬場は少し苦手なようにも感じるが、それはダートを得意とする全ての馬がそうであり、ビヴロストに限った話では無い。恐らくはチャンピオンズカップに出ていたとしても、しっかりと好走したであろうと推測する。
そう語る結城の口調は、自厩舎の馬を褒めるというより冷静に分析するという口調である。
ただ、表情にはどこか翳りのようなものを感じる。どうやら深雪もそれを不審に感じているらしく、結城の表情をじっと見つめている。
林戸はなるほど素晴らしい馬だとビヴロストを褒め称えた。理想的な馬と言っても過言では無いと。
極々自然な流れで、東京大賞典の後はどこに出走するつもりかと藤野がたずねた。すると結城は俺たちをちらりと見て、まだ来年の予定は白紙だと述べたのだった。
その結城先生の発言に俺と深雪は顔を見合わせた。確かに結城には東京大賞典の結果次第でドバイワールドカップに挑戦したいと言ったはずである。それに対し、結城もメールではあったが夢が膨らむと返答してきたのだ。それが白紙とは一体?
「私もねビヴロストを見て思うのですよ。近年名古屋競馬場でここまでの馬が所属した事があっただろうかとね。もしかしたら歴史的な名牝かもしれない。それくらい素晴らしい馬だと感じるのです」
藤野はそう言ってシャンパンを喉に流し込んだ。こちらは全く話が見えてこず、ただただ困惑するばかり。
「最上さん、あの馬には可能性があると我々は感じるのです。最上さんはあの馬が本気でどこまでやれるのか見てみたいとお思いにはなりませんか?」
ええまあと答える俺に、藤野はですよねと言って林戸の方を見た。林戸は鞄を取り出すと一枚のパンフレットを見せてきた。
「既にご存知だとは思うのですが、中央競馬の認定を得た馬は、中央の厩舎への転厩で優遇が得られるのです。ビヴロストを中央競馬の厩舎に転厩させようと思うのですがいかがですか?」
正直、何を言っているのかよくわからなかった。俺は地方競馬の馬主資格しか持っておらず、中央競馬に転厩しても馬主資格が無いのだ。当然結城先生はその事を知っているはずだし、説明してくれているはずなのに。
「あの……中央競馬の馬主資格はどうなるんですか?」
俺の問いかけに被せるように、林戸はすぐに御安心くださいと言ってきた。
「名古屋競馬場は、名古屋競馬場の名義で中央競馬の馬主資格を取得しています。ですので、あの馬を名古屋競馬場の所有馬として中央に転厩できるんですよ」
林戸の言葉の意味が俺にはいまいち理解できなかった。だが深雪はすぐに理解したらしい。机をパンと叩いて椅子から立ち上がった。
「あの子を、私たちの子を、あなたたちに譲れっていうんですか?」
激昂する深雪に藤野は、まあまあ落ち着いてと言って宥めるように両手を開いた。
林戸はすぐに鞄から一枚の契約書を取り出した。それはビヴロストの譲渡契約書であった。
「購入額の十倍の値段を用意いたします。もちろんビヴロストという名前を変える事もいたしません。今では無く、繁殖入り後の事を考えていただきたい。我々にお譲りいただければ、引退後は大手牧場に繋養され、一流の相手と種付けする事になるんです」
元の牧場に帰ればそうした事は望めなくなる。つまりはあの馬の血は絶えるという事である。以前お会いした時に、ビヴロストを購入したきっかけはライデンリーダーの牝系だったからと言っていた。我々はこの名古屋競馬場から出たヒロインの血を後世に残していきたいと切望している。そして熟慮に熟慮を重ねて出した最良と考える結論がこれなのである。あの馬の血統、ライデンリーダーの血を後世に残そうと考えていただけるのであれば、ぜひこの書面にサインをいただきたい。そう林戸は説明した。
あくまでライデンリーダーという名馬の血を残すためだと。
「少し考える時間をください。夫婦でじっくり考えようと思いますので」
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