第8話 デビュー戦を迎えた
牝馬らしく少し小柄ではあるが、とにかく良く食べ良く眠る馬。
入厩した頃のビヴロストの印象はそんな感じであったらしい。
少し甘えん坊さんなところがあり、馬房で作業をしている間、何度も顔を摺り寄せてきて、馬房から出ると寂しそうに嘶く。時には服を噛んで馬房から出すまいとする。担当厩務員の佐倉さんは、とにかく人懐っこい馬だと何度も周囲に言っている。
元々骨太で頑丈な体つきをしている馬ではあった。若いという事もあり疲労もすぐに抜ける為、かなり強めの調教にも全く音をあげる事が無い。だが、それに甘んじて強い調教を続けてしまうと目に見えない疲労が蓄積しかねない。
怪我をさせてしまったら、大事に扱って欲しいと言っていた最上さんたちにあわせる顔が無い。そう思いながら徐々に徐々に調教を強くしていっているのだそうだ。
その結城先生からの報告メールを深雪に見せると、深雪はくすくすと笑った。
「きっと神楽さんたち、あの娘を溺愛してたのね。良いなあ。ずっと私の傍にいてよなんて服を噛まれたら、私、馬房から離れられなくなっちゃいそう」
そう言って嬉しそうな顔でもう一度メールを読み返した。きっと保育園からの連絡帳でも読んでいる気分なのだろう。
◇◇◇
七月のある日、いよいよ新馬戦に出すという事で、その前に能力審査競争に出す事になった。
能力審査競争は実際の競争のようにゲートに入れて実際のコースを走らせる。距離は九百メートル。騎手は女性の
ビヴロストは少し臆病な所のある馬でメンコを被せて挑んだのだが、どうにもゲートに慣れないらしい。ゲート入りもかなり嫌がり、ゲートに入ってからも少し暴れていた。さらにゲートが開いたと同時に内によたついてしまい、あからさまに出遅れた。
一頭で走っていたので、乗ってるうちはこのペースなら合格できそうという感覚しかなかった。ただ、直線に入ってからの加速には非凡なものを感じた。走り終えた桃ノ木騎手はそう語った。
合格の規定は一分ちょっと。当然馬場の状態でも変わるのだが、だいたい一分を少し切るくらいでどの馬も走る。晴れていて馬場が渇いていれば時計がかかるし、雨が降り渋っていれば時計は早くなる。
少し走り始めると、ビヴロストはまるで何かのギアでも噛み合ったかのように力強い走りを見せる。四コーナーを超えて一鞭入れると、ビヴロストはさらに加速。ゴール板を颯爽と通り抜けた。
五七秒五。
走破時計が表示された時、結城は思わず馬場状態の発表を確認した。良馬場で出る時計としては明らかに早い。これはひょっとするとひょっとするかも。結城は佐倉厩務員に嬉しそうに言った。
◇◇◇
七月の末、ついにビヴロストはデビュー戦を迎えた。
距離は能力審査競争と同じ九百メートル。天候は晴れ、馬場状態は良。五頭立てだったが、一頭出走取消をし四頭での競争となった。ビヴロストは三枠三番、一番人気。
相変わらずゲート入りを嫌がり、ゲート内でも少しちゃかついた所を見せるビヴロスト。だが、ゲートが開くと能力審査の時とは異なり、真っ直ぐ綺麗に発走した。
他の馬がよれよれとしながら発走する中、我関せずという感じで一頭先頭を走るビヴロスト。小柄な馬のわりに中盤が早い。ちょこちょこと脚を素早く動かす、いわゆる『ピッチ走法』。小回りのダートコースである地方競馬では理想的。
他の馬が徐々に差を詰めてくる四コーナーで、桃ノ木が鞭を左手から右手に持ち替えたのを見てビヴロストは加速を開始してしまった。
これだとちょっと仕掛けが早いかも。桃ノ木はそう感じたが、すぐに、これなら逃げ切れそうとも感じた。
直線に入り、桃ノ木は一度だけ鞭を入れた。勝負所だよと伝える為だけの一鞭。
桃ノ木は背筋をぞくりとさせた。
既にビヴロストは全速力だと思っていた。ところが鞭が入ると、もうひと加速させたのだった。
一頭で走っていた能力審査競争の時には見せなかった、底知れぬ勝負根性を桃ノ木は覗き見た気がした。
二着以下を大きく引き離し、ビヴロストは先頭でゴール板を駆け抜けた。
◇◇◇
数日後、結城は桃ノ木を厩舎に呼んだ。
「ねえ茜ちゃん、先日乗ってもらったビヴロスト、どう思う?」
桃ノ木もかなり印象に残っていたようで、すぐに良い馬だと答えた。ただ、単なるスプリンターかもしれない。次は距離が延びるだろうから、そこでどうなるかを見ないと何とも言えないと付け加えた。
「だけど大いに期待できる馬とは思いますよ。先生、よくあんな良い馬預けて貰えましたね」
どう考えてもビヴロストはここにいるような馬ではない。今の時期なら門別、もしくは中央競馬に転厩しているレベルの馬。名古屋競馬場でも、正直そこまで成績抜群というわけでもない結城厩舎に預けられるレベルの馬とは、とてもではないが思えない。
初めて馬主登録をなさった方の馬だと結城が言うと、桃ノ木はなるほどと何か納得したようであった。
まだ顔が狭いからこそだろう。それなりに歴の長い方なら、昨今の風潮ならまずは門別に送っている事だろう。
「私レベルって言われるのは癪だけど、実際私もそう感じてるから仕方無いわね。でも、そうだよね、単なるスプリンターって可能性はあるんだよね。確かにあの速度だもんね」
結城も桃ノ木の言葉で少し現実に引き戻されたという感じであった。どんな化け物のような強い馬でも、最高速度を最初から最後まで持続できるわけではない。どこかで必ず息が上がってしまうから。
だから道中はそこそこに追走程度に抑え、最後の直線で最高速を出す。それができるのが理想なのである。
道中をそこそこで走れない不器用な馬は、スタミナが持たないので
もしそのあたりを器用にこなせるようであれば。この先のレースにもかなり期待が持てるというものである。
それと道中を追走するそこそこの速さというのも問題なのだ。これが遅いと最後の直線に賭けるしかなくなってしまう。差しや追い込みという戦術である。
芝のレースの場合は、先行後ろ目から差し前目のポジションを確保し、四コーナーで前に出てそのまま後続を抑えて勝利するという『横綱競馬』を良しとしている。さらに最後方からの
だがダートは足抜きが悪く、後方からの追い込みは決まりにくい。その為、道中は前目につけておいて、短い最後の直線を末脚でしのぎ切るという展開が多い。つまり、道中をあまりスタミナを消費せずに前目に付けられる速さがかなり重要なのである。
「次の若駒盃がどうかってとこよね。茜ちゃん、頼んだよ」
私じゃなくビヴロストに言ってくれ。そう言って桃ノ木は笑い出した。
◇◇◇
その日の夕方、俺の携帯電話にメールが入った。差出人は結城先生で、内容は新馬戦に勝利したというものであった。
そのメールを妻の深雪に見せると、深雪は早速パソコン操ってレース映像が無いか検索し始めた。名古屋競馬場の動画チャンネルがすぐにヒットし、俺と深雪は我が子のレースを無言で視聴。
既に勝った事は知っている。どんな走りだったのかが気になるのだ。
「うわあ、あの子、結構強いじゃない! 圧勝だよ!」
深雪は再度レース前にバーを動かし、口の前で手を合わせ、目を輝かせてレースを見る。凄い凄いと言って、再度再生バーを前に戻す。何度見ても飽きないと大はしゃぎしている。まるで保育園の運動会の映像でも見るかのように。
「今度は八月の中旬だって。その時にはさ、ネット中継をライブで観ようよ。ビール片手にさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます