第7話 ビヴロストが入厩した
そこから一年、定期的にビヴロストの写真が神楽からメールで送られてきた。
夏までは牧場を元気に走り回っているといった写真だったのだが、初秋頃に
極めて順調。
それが神楽のメールから受けた印象であった。
そうして年が明け、ついに入厩の日を迎えた。
深雪が可愛い我が子の晴れ姿を見に行きたいというので、結城先生にアポを取って名古屋競馬まで行く事になったのだった。
以前見た時はまだ産まれて数か月の仔馬でしかなかった。ビヴロストはすでに二歳となっており、その姿は完全に自分たちの知っている競走馬のそれであった。
担当厩務員の佐倉さんから人参を渡され、指でつまんで渡すと指を噛まれるので掌に立てて渡してあげてくださいと説明を受けた。その通りにビヴロストの前に差し出すと、大きな顔を近づけてきてぽりぽりと音を立てて食べてくれた。
実に可愛い!
首筋を撫でると何か思い出したのか、俺の方に顔を近づけてすり寄って来た。
実に可愛い!
「良い馬ですね。まだ調教を始めたばかりですけど、走りが非常にパワフルでかなりダート向きという印象を受けますね」
そう言うと結城先生もビヴロストに人参を食べさせ首筋を撫でた。
結城先生はゆっくりと今後の予定について話をしましょうと言って、俺たちを事務室へと案内した。
結城先生の話によると、デビュー戦の前に、まず『能力審査競争』というものに合格しないといけないらしい。これは九百メートルで行われ、一分ちょっとのタイムで走破しないと合格が貰えない。これに合格しない事にはそもそも賞金の貰えるレースに出走もさせてもらえない。
まだ調教を始めたばかりなのだが、正直、能力審査は余裕で合格できると思われる。なので話はその後の事。
新馬戦は早ければ五月末からあるのだが、最初はじっくりと見極めていきたいので七月頃を目途にしていこうと思う。そこでもし勝ち負けするようであれば八月下旬の若駒盃に挑戦しようと思うという事であった。
「もしもそこでも勝ち負けするようなら、その時は再度相談させてください。名古屋競馬場に所属するこの世代の馬の中でも相当上位の馬という事になるでしょうから」
その結城先生の説明にどうにもしっくり来ない点があった。
『新馬戦を勝ち負けするようであれば』とはどういう事なのだろうか? 勝ち負け、つまり一着か二着になれるようならという事である。新馬戦で負けるようならその後は未勝利戦に出走していくものではないのだろうか?
そう質問を投げかけると、結城先生はクスリと笑った。
「ああ、それは中央競馬のシステムですね。地方競馬では総賞金額によってクラス分けがされるんです。つまり惜しいレースが続くようなら実力上位と判断されるんですよ」
未勝利戦が行われていないわけではないのだが制度としてはかなり特殊になる。極端な事を言えばでデビューからずっと二着で一勝もした事が無くても、大きなレースに出て勝つ事が可能という事になる。
地方競馬では二歳、三歳という世代で一つのクラスになり、その中で成績に応じて細かく組み分けしている感じである。古馬になると直近の獲得賞金に応じてAからCまでクラス分けが行われ、それが中央競馬でいう条件戦のようなものになる。Aクラスが中央競馬でいうオープンクラスに相当と考えれば良いだろう。クラス分けは三か月ごとに行われるのでその間の成績が悪いと下のクラスに落っこちる事もある。
「ですので、怪我をさせてしまい長期離脱なんて事があるとクラスが下がってしまうんですよ。ただその分出るレースの馬の質も下がりますから、元の能力のままなら普通に連勝しますけどね」
その為、定期的に出走しないといけないし、以前深雪が言っていた『走る労働者』のようなレースの使い方になってしまいがちなのである。
もしこの辺りのイメージが難しいようなら、勝ち抜き戦の中央競馬に対して、総当たり戦の地方競馬と捕らえると良いかもしれないと結城先生は説明した。
「逆に、もしそのさっき言ってたレースに勝ったら、その後はどんな感じになるんですか?」
俺の質問に結城先生はクスリと笑った。捕らぬ狸の皮算用だという事はわかっている。だが何もわからない今だからこそ夢が見たいというものではないか。
「そうですね。それこそ上は天井無しですよ。強ければ強いほど選択肢は広がります。中央競馬に殴り込むも良し、南関東に遠征するも良し、東海の覇者を目指すも良し、その気があれば海外遠征だって」
結城先生はくすくすと笑い出して、夢の話はさておきと話を一区切りさせて現実的な話に切り替えた。
まずは何をおいても九月から始まるセレクトゴールド戦が最大の目標になると思う。これは中央競馬が主催してくれているレースで『JRA認定競争』と呼ばれる。これに勝つと『JRA認定馬』として扱えってもらえるようになり、中央競馬のレースに出走できるようになる。中央競馬でいう『オープン馬』のお墨付きだと思えばわかりやすいだろうか。
さらには十月に行われるJRA認定競争の重賞『ネクストスター競争』。
これは全国の競馬場で行われている『未来優駿』というシリーズの一環となっている。重賞の格はついていないが、中央競馬の豊富な資金力が注がれており破格の賞金金額が設定されている。
地方の二歳重賞戦線というと圧倒的に知名度があるのは十二月に川崎競馬場で行われる『全日本2歳優駿』というレースだと思う。中央競馬と地方競馬の指定交流レースとなっており、格もJpnIという格付けがされている。
中央競馬ではよく
ただこのJpnという格付けも中央競馬との交流レースに対しての格付けで、各競馬場ではこれとは違った格付けを行っている。
大井競馬場などの南関東はS、名古屋競馬と笠松競馬場ではSPという格付けを行っている。
ちなみにSPはスーパープレステージの意味。
「ここ名古屋競馬場から全日本2歳優駿に出走するのは極めて狭き門なんですよ。そもそもあのレース、地方の馬は九頭しか出れないんです」
こういった大レースには
なので、中央競馬の馬に混ざってJBC2歳優駿や兵庫ジュニアグランプリに勝つか、船橋競馬場の平和賞に勝つか。賞金額で出走の望みが無いわけではないが、その三つのどれかに出走して勝たないとほぼノーチャンスと思った方が良いだろう。
「ですから、まずは三歳の夏頃まではここ名古屋で賞金を溜め込むのが現実的じゃないかと思いますね」
ここまでの結城先生の説明で色々と合点がいった。
なぜここ名古屋競馬場に良い馬が預けられないのか。なぜ複数の馬を所有する馬主さんは南関東の競馬場に転厩させてしまうのか。稼げると思えば賞金の高いレースを主催する地域に転厩させた方が、レースの出走資格の関係で稼ぎやすいのだ。
あの時吾妻さんからどこで走らせたいかと聞かれ、名古屋と言ったら無難な所と言われたのはこういうわけだったのだ。
「下剋上できるほどの凄い馬だったら色々と楽しい事になりそうなのにな」
帰りの車内で俺がそう言うと、深雪はくすっと笑った。
「そうね。あの娘、根性見せてくれないかなあ」
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