第6話 名古屋競馬場へ行こう

 年も押し迫ったある日の事。

 自分の愛馬が走る事になる名古屋競馬場を見に行こうと、深雪と二人足を運ぶ事になった。ついでに吾妻さんから紹介された調教師の先生にも挨拶をしておこうと言い合った。



 名古屋競馬場はかつては港区の土古どんご町という所の武道館の近くにあった。それが何年か前に施設の老朽化を理由に、西隣の弥富やとみ市に移っている。ちなみに現在の競馬場の場所は、それまでは名古屋競馬場のトレーニングセンターがあったらしい。

 東名高速道路をひたすら西に向かい、途中あみだくじのような進路図の描かれた豊田ジャンクションから伊勢湾岸道に入って、湾岸弥富インターチェンジで降りると目の前が名古屋競馬場である。周囲はのどかな田園風景で、およそここが大都市名古屋市のすぐ西の光景だとは誰も信じないであろう。ちなみにすぐ東の飛鳥村は名古屋港の埠頭があり日本一収入の高い『村』として有名である。


 やはりここに来たら何をおいてもという事で競馬場の近くのうなぎ屋さんでひつまぶしを食する事にした。弥富市は奈良の大和郡山市と並んで金魚の生産で有名な市である。その為、金魚の買い付けで訪れる人も多いと父が以前言ってた事を受け売りで深雪に話した。

 ……しかし遅い。先ほどから焼き魚の良い匂いだけは悪戯に空腹の胃を刺激している。

 そんな俺の気分を察したのだろう。深雪はくすくすと笑い出し、ちゃんとしたうなぎ屋さんはとても時間がかかるものだと俺を宥めた。


 調教師の先生とのアポは明日である。その日は少しだけ馬券を購入して競馬を拝見。

 普段中央競馬ばかり見ているせいだろうか。何もかもがこじんまりしているように見えてしまう。

正面直線も短く、あっという間にゴールしてしまうように感じる。しかも、毎回同じ騎手がただ違う馬に乗っているだけという印象を受けてしまう。


 相変わらず深雪は馬券の買い方が上手い。二人で同じ金額を賭けていたのだが、最終的には深雪の方が儲けは多かった。負け惜しみで言うわけでは無いが、的中回数なら俺の方が多いのに。


 その日は実家に泊まって、翌日厩舎を訪れる事にした。ライデンリーダーの曾孫を所有して名古屋競馬場で走らせる事にしたと報告した時の、父の嬉しそうな顔といったらなかった。どんなに走らない馬でも絶対に全レースこの目に焼き付けてやるんだと、今から張り切っていた。



 翌朝、名古屋競馬場に到着し調教師の先生に連絡。厩舎という、およそ一競馬ファンにとっては未知の領域に足を運ぶ事になった。


 今井さんから紹介してもらった先生は結城ゆうき知可子ちかこという女性調教師。かつては金沢競馬場の高畠調教師という女性調教師の元で調教助手をされていた方なのだそうだ。数年前に名古屋競馬場で厩舎を開業し、成績はそれなりといった感じ。

 厩舎に入ってまず驚いたのは、非常に掃除が行き届いているという点であった。

 当然、馬という動物を飼育しているわけだから、動物園のような匂いがするのは当たり前なのだが、そうで無い場所、特に事務室はかなり掃除が行き届いている。それでいて強い匂いのするようなものは置いていない。


「ようこそ、名古屋競馬場へ。昨日まで競馬が開催していたんですけどね。競馬がないとこんな感じで厩舎なんて静かなものですよ」


 結城先生は実に気さくにそう言って笑い出した。正直なところを言うと調教師は総じて強面で仏頂面の人という印象だったので、その笑顔でかなり警戒が解けた。

 挨拶がてら色々と話を聞く事が出来た。

 ここ名古屋競馬場は、地方競馬の中では預託料がかなり安い部類に属するのだそうだ。預託料が安いという事はレースの賞金も安いという事である。さらに言えば、良い馬はレース賞金が高い大井競馬場を代表とする南関東の競馬場に移籍してしまう為、純粋にレースの質が下がる。それをカバーするように笠松競馬場と連携してレースを行っているのだが、やはり南関東の圧倒的な資金力の前には無力と言わざるを得ない。

 さらにいえば、北海道のように二歳戦に力を入れているなんていう売りも無い。笠松や盛岡のように全国的な知名度の馬を輩出した事も無い。


「笠松の荒川先生のように、いつかうちからも全国的な知名度の馬を送り出したいと思っているんですけどね」


 その為に日夜馬の事を学び、どうしたらもっと鍛えられるか研究をし続けていると結城先生は目を輝かせた。


 ある意味で俺のような馬主はチャンスなんだと先生は言う。何頭も馬を所持していて、あちこちの競馬場に知り合いのいる馬主さんだと、良い馬とみたらすぐに南関東の競馬場に移籍させられてしまう。中央競馬に移籍させてしまう馬主もいる。


 ただそれは、レースの賞金の関係で仕方ない事だとは思っている。もし仮にここに在籍のまま南関東に遠征となれば、その都度輸送費がかかるし、仮にそこで勝てたとしたら、今度はここでは大きなレース以外選択肢が無くなってしまう。

 その大きなレースすら賞金が低い。当然、名古屋グランプリといった中央の馬や広く地方の馬を招いての大レースはそれなりに賞金は高い。だが、そこそこの馬程度ではそんな大きなレースはノーチャンス。

 そうでない名古屋競馬独自のレースは一着賞金が数百万という状況。最高峰の格であるSPスーパープレステージIのレースですらそんな状況なのだ。

 だから著名な馬を輩出して少しでも集客力を上げて売上を上げないと。そうじゃないと今は良いがそのうち負のスパイラルに陥り、今開催している中央、地方交流レースも維持できなくなり、ゆくゆくは廃場という事にもなりかねない。名古屋市から移転した今、その可能性は上がってしまったのだ。


 できれば走る労働者のような出走はして欲しくないと深雪が言うと、結城先生は難色を示した。


「奥様は預託料の件はご存知ですか? 馬を預けるというだけでそれなりにお金がかかるのです。私たちはできる事ならレースの賞金でそれを捻出させてあげたいと考えます。そうなれば毎月出走がマストという事になるんですよ」


 最終的にトータルして黒字、たとえ赤字であったとしても一円でも赤字額を減らしてあげたい。そう考えれば、なるべく長い期間、できれば怪我も無く、たとえ一着になれなくとも、せめて預託料以上の額を稼いでもらいたい。

 赤字が続くからさらにレベルの低い競馬場に移籍させるか、もしくは損切りとして引退させるか、その判断は馬主さんの判断になる。


「伺っている話では入厩は再来年でしたかね。その時に馬を見て、その後の事はその時にもう一度相談いたしましょう」


 どんな馬が来るのか楽しみですと微笑む結城先生に、深雪はまるで学校の三者面談に来た母親のように、うちの子をよろしくお願いしますと言って頭を下げた。



 帰りの車の中、途中のサービスエリアで購入したブラックサンダーを食べながら、深雪は夜空に輝く大きな月を見上げている。


「結城先生、感じの良い先生だったね。あの先生なら悪いようにはしないだろうなって安心感が持てるかも」


 深雪はブラックサンダーが甘すぎたのか、お茶を飲んで口の中を整えている。暫くただただ流れてくる街灯を見続けていた。


「私ね、実は前から馬主さんって憧れてたんだ。自分の馬、それも自分が名前を付けた馬を走らせる事ができるんだよ。勝った負けたって一喜一憂できるんだよ。こんなに楽しい事ないよね」


 深雪はまるで少女のような純粋な瞳で、ちらりと運転中の俺を見て、また月に視線を移した。

 神楽から話を持ってこられた時、絶対に深雪は反対するだろうと思っていた。金を溝に捨てるようなものと言われるに決まっていると。だから、乗り気になった事に正直かなり驚いた。

 馬主への憧れ。

 それだけの理由にしては随分な散財だが、それで皆の笑顔が見れるなら案外安い買い物だったかもしれない。


「口取り式とかやれると良いね」

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