第5話 名前はビヴロスト

 今井さんの話によると、もし買ってもらえるのであれば夏に血統登録をしてもらって登録証を発行してもらう方向なのだそうだ。


 サラブレッドというのは登録制で、それをしないと競馬場で走らす事ができない。そもそもサラブレッドとは、『サラ(徹底的)』と『ブレッド(品種)』という二つからなる単語である。徹底した品種管理のためには血統登録が必須という事なのだそうだ。

 つまり、いくらこの仔馬がレイデオロとプリズムという二頭のサラブレッドの仔だとしも、証明をしてもらわなければサラブレッドとは呼べないという事である。


 俺としては、その登録証と引き換えにお金を渡したいところである。だが牧場としてはお金を貰って確実に買ってもらえるとわかってから血統登録をしたいところだろう。

 そこで伊達さんに契約書を作成してもらって、血統登録が終わったら代金を支払う義務を負うという書面を作ってもらい双方の名前を書いて印を押した。




 牧場から帰り三週間ほどが過ぎたある日の事、携帯電話に神楽からメールが届いた。知り合いの馬主さんに俺の事をお願いしておいたから、その人に聞いて馬主登録の申請をしておいて欲しいという内容であった。


 その翌日に吾妻あずま惟秀これひでという人物から連絡があった。

 案内されるがままに都内のオフィスビル街へと向かうと、そこはそれなりに有名な精密機器会社の本社であった。

 受付で話をするとビルの最上階にある社長室に通される事になり、ノックをして扉を開ける。すると、綺麗な灰色の髪をした老齢の人物が椅子から立ち上がってこちらに向かって来た。


「あなたが最上さんですか。葛城さんからお話は伺っていますよ。どうぞ中へ」


 吾妻から応接椅子に座るように案内された。こんなふかふかの椅子、なかなか座る機会は無い。そのせいか変な緊張が沸き上がってくる。

 失礼とは思いながらも社長室を眺め見てしまう。中央の重賞を勝った時のカップや賞状が写真と共に飾られている。執務机の上にも馬の模型。


「競走馬を走らせるのは私の唯一の趣味でしてね。人脈を通じて値段よりも走りそうな馬の情報をいただいてるんですよ。葛城さんもその情報源の一人でしてね」


 ああ見えて、神楽の相馬眼は少しは知られているのだそうだ。吾妻は神楽の推薦する馬を何頭か所持してきたのだが、そのどれもが手ごろな価格で、購入価格からしたらかなりの稼ぎをしてくれているのだそうだ。

 実は今回も神楽からプリズムの産駒の購入を薦められていたらしい。

だが、走ると思うではなく買って欲しいという話だったから買わなかったのだとか。しかも聞けば母もその母もろくな活躍をした牝馬ではないというし。こちらも商売で馬主をやっているのであって、慈善事業で馬主やっているわけではないから。そう言って断ったのだそうだ。


「葛城さんに地方競馬の馬主登録の申請を案内してやって欲しいって言われたんだけど、大丈夫? 馬主ってそれなりにお金かかるよ?」


 先ほど差し出した名刺の肩書が目に入ったのだろう。社長ならまだしも、部長では途中で資金が枯渇するのでは無いかと感じたらしい。

 それなりに蓄えがあるから大丈夫と伝えると、吾妻さんは道楽ならそんなものかと呟くように言った。


「どこの競馬場で走らせようとかそういうのは決まっているの? 地方は中央と違って、余程良い馬じゃない限り一つの競馬場で走り続ける事になるよ?」


 地方競馬と言われても大井、川崎、浦和、笠松、園田くらいしか知らない。そんな俺の反応からその辺りから説明が必要と判断したようで、吾妻さんは机の袖の引出しから一枚のパンフレットを取り出した。地方競馬全国協会(NAR)の作成したパンフレットで、そこには日本地図に各競馬場の位置が記載されていた。


 北から帯広、門別、盛岡、水沢、浦和、船橋、大井、川崎、金沢、笠松、名古屋、園田、高知、佐賀。かつては、北見、旭川、宇都宮、足利、高崎、三条、荒尾、中津なんかでも開催していたのだが、バブル崩壊後の長引く不況でばたばたと閉鎖してしまった。


「当時、高知競馬場ではハルウララ騒動があったんだけどね、高知以外ではあんまり影響は無かったみたいでね」


 そうやって言われてみれば、ハルウララの話で高知競馬の名前は聞いた覚えがある。南部杯で盛岡競馬場の名前も知っている。帯広はばんえい競馬で有名なところだ。船橋競馬場、名古屋競馬場は完全に忘れていた。


「この中だったら名古屋でしょうかね。私の父が競馬が好きで名古屋に住んでいますから」


 吾妻は無難なところかもしれないと言うと、馬主登録の為に調教師の名前が必要だから紹介してあげると言ってくれたのだった。




 三か月ほどが過ぎ、今井稔牧場からサラブレッド登録が終わったという連絡があり、そこからさらに三か月後に馬主登録の審査が通過。全ての準備が整ったのは、神楽が連絡をしてきてから半年が経過した後の事であった。



「ねえ、あの馬の名前何にするの?」


 夕飯を食べながら、何気ない感じで深雪にたずねられた。深雪もあの馬の事はずっと気にかけていたらしい。いつまでも自分の名前が無いのは可哀そうと言い出したのだった。


 神楽たちもそう感じているらしく、仮の名前は付けているらしい。

 通常まだ名前の付いていない仔馬は、母の名前と生まれた年数が仮に付けられる。

例えば『プリズムの24』といった感じで。だがそれを味気ないと感じる牧場では、愛着が湧くようにと勝手に仮の名前を付ける事がある。

 神楽たちは母のプリズムから『プ〇キュアちゃん』と呼んでいるらしい。


 正直ここまで地方競馬の制度についてばかり調べていて、名前の事などすっかり忘れていた。

 競走馬のネーミングはそれなりにシンプルで、九文字以内でちゃんと理由があって、過去の名馬、現役の競争馬と同じ名前でなければ問題無い。『ニバンテ』のような実況が混乱しないような名前は駄目というのも一応あるのだが、『スモモモモモモモモ』という申請が通っている事から、そこはあまり考慮されていない気がする。宣伝になるような名前も駄目というのがあるのだが、『テイエムプリキュア』という名前が審査を通ってる時点で、それもどこまでという気もする。エッチな名前も駄目という事になっているのだが、これも例には挙げないが何頭か怪しげな名前の馬はいる。


 よくあるのは『冠名かんむりめい』という馬の苗字のようなものを付ける方針だ。テイエム、メイショウ、ダノンなんていうのがそれに当たる。ただ、継続的に馬主稼業をするかどうかは今の所未知数で、それで冠名を付けるのもどうかとも思っている。


 まだ全く決めていないと言うと、深雪はこの名前はどうかと言って一つの名前を挙げた。


『ビヴロスト』


 ビヴロストとは北欧神話で天上界と地上界を繋ぐ虹の橋なのだそうだ。母のプリズム、父のレイデオロから虹という着想を得て、そこからこのビヴロストとイーリスという二つの名前に絞った。

 以前、名前に『ヴ』の文字を入れたら走るようになったという馬主さんの話を耳にしたことがあったので、ビヴロストの方にしたのだそうだ。


「綺麗な名前だと思うよ。ただ、その……非情に言いづらいんだけど、レイデオロのレイは英語の光線じゃなくスペイン語の王の方の意味だけどね」


 気付いて言ってるのかと思っていた。だがどうやら本気で勘違いしていたらしい。

深雪は耳を真っ赤に染めて無言で恥ずかしがっている。


「『ビヴロスト』……虹の橋かあ。プリズムの母もベンテン『ヒカル』だし、ライデンリーダーの母も『ヒカリ』リーダーだから、確かにイメージが通ってて良い名前かもしれない」


 俺が微笑むと、深雪はこの馬は私たち夫婦の『子供』だから大事にしてあげないとと言い出した。子供ができた時の為のお金、そう言ってずっと貯め続けてきたお金。結局子宝には恵まれなかった。その代わりとなるこの馬にはたっぷりとその分の愛情を注いであげないと。そう言って深雪は微笑んだのだった。


「そうだね。なるべく大事に扱ってもらえるように調教師の先生には言っておくよ」

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