第2話 神楽との出会い

 それから一月後の出来事であった。仕事中に一本のメールが届いた。差出人は未登録でアドレスが表示されている。


 『お久しぶり』

 そんなありふれた文言から始まっている。差出人は葛城かつらぎ神楽かぐら。オルフェーヴルを一緒に観に言った大学時代の友人からであった。


『先日、偶然大成たいせい君に会って、あなたの携帯のアドレスを聞いたんだよ。久々に会って競馬の話でもしながら呑まない?』


 大成は大学時代によく一緒に競馬を観に行っていた神楽と俺との共通の友人である。俺は大学を卒業してから神楽とは連絡が途絶えてしまったのだが、大成はその後も連絡を取り合っていたのだろうか?

 神楽と久々に会うのも悪くない。そう感じ了承のメールを送付した。久々にあいつの馬の話も聞いてみたいと思ったからである。

 別に下心があったというわけではない。お互いもう年齢を重ねてそんな歳ではないのだし。下心があったわけでは無いのだが、何となく妻の深雪には『古い友人と呑みに行ってくる』とメールを送った。



 久々に会った神楽は以前のような野山を駆け回るアルプスの少女のような感じではなく、しっとりとした大人の女性に変貌していた。相変わらず立派な胸部だ。


 思い出した!

 あの時、オルフェーヴルを見に行こうと言われた時、俺はこの胸部に惹かれたのだった。


「久々だね、友作! 元気にしてた? まだ競馬やってる?」


 居酒屋に入り、ビールといくつかのおつまみを注文すると神楽はそう言って満面の笑みを浮かべた。


「やってるよ。もはや唯一の趣味みたいになっちゃってる。そっちはどうなの? 競馬やってるの?」


 もちろんと答えた神楽は実に良い笑顔であった。その笑顔はあの頃と何ら変わらない無邪気なものであった。思わず頬がほころんでしまう。


 ビールとおつまみが届くと、そこから二人はお互いの近況の話になった。


 友作は大学卒業後、大手のゲーム会社に勤務。その後会社の先輩と独立して、ゲームアプリを作りながら、企業からのアプリ開発を請け負っている。それなりに会社の業績は好調で、現在はAIの研究と称して馬券の予想ソフトを作っている。

 先輩と独立してから、かねてから交際していた深雪と結婚。結局子供はできなかったが夫婦仲は比較的良好である。


「えええ! 友作って本当に深雪と結婚しちゃったの? いつから付き合ってたの? 今日呼んでくれれば良かったのにぃ」


 俺と神楽は同じ大学、同じ学年で、深雪は三つ下。当初は大成など共通の友人五人で競馬サークルを作って毎週のように競馬場に行っていた。

 三年になってサークルに入って来た深雪とは、何となく良い仲になって何となく付き合うようになった。


 ……と、俺は思っていた。


「あの娘ったらさ、あんたの気を引きたいってだけでサークルに入ってきたんだよ。競馬なんて一ミリも興味無かったのに、一から教えて欲しいなんて言ってきてさ」


 俺には見えていなかった舞台裏を神楽は見てきたらしい。もう時効だから良いよねと言って当時の事を赤裸々に話し始めた。

 バイト代で可愛い競馬グッズを買って俺に見せびらかしたり、飲み会では毎回俺の隣の席に座るようにしていたらしい。毎回赤ペンを渡されていたのも気を引くためだったらしい。改めて言われてみれば思い当たる事ばかりであった。


 だができれば、そんな妻の肉食な側面は知りたくは無かった……


 神楽の方はといえば大学を卒業してから、競馬好きという趣味が高じて、単身アメリカのケンタッキー州に行ったらしい。そこの巨大牧場で牧夫として働いていたのだそうだ。何年か前に帰国して、今は生産者や馬主のエージェントを行っているらしい。


「じゃあ何? 馬主と一緒にセリに行って、この馬が良いとかアドバイスしたりしてるの?」


 うんと言って頷いた神楽だったが、どこかそれまでと異なり元気が無い。昔から感情が顔に出やすい奴だったが、それは今も変わっていないらしく笑顔が強張っている。

 その理由はすぐに彼女の口から語られた。


 元々アメリカに渡ったのはエージェントになるために知識と相馬眼を磨くためだったらしい。実際数多の馬を見て相馬眼がかなり磨かれたと感じているらしい。空いている時間で血統についても学び、それなりに自信を付け、満を持しての帰国であった。

 だが無名の小娘がそう簡単に大企業のエージェントになどなれるはずもなく。まずは小さな実績を地道に積んでいこうと、北海道の小さな生産牧場で牧夫として働きながら種付けの相談に乗っていた。

 最初に種付けした仔がいきなり二歳オープンを勝ち、さらに翌年には二歳重賞で二着になる馬が出た。そこから個人馬主の知己を得てセリに参加する事にもなったらしい。



「ねえ、友作ってさ、会社の重役なんでしょ? 年収ってどれくらいあるの?」


 酔って顔の赤くなった神楽が、少しとろんとした目で聞いてきた。人の年収を聞くのがどれだけ失礼な事なのか、この女は知らないのだろうか?


「金なら貸さねえよ。深雪に怒られちまうからな」


 あからさまな塩対応に神楽は少し焦った顔をする。俺の手を両手で握りふくよかな胸に押し付け、かなり切羽詰まった表情で、訴えかけるようにそうじゃないと言った。


「馬を一頭買って欲しいのよ。馬主になってその馬を走らせて欲しいの」


 俺はかなりきょとんとした顔で神楽を凝視した。


 馬主?

 確かに俺は会社の重役だ。だが小さなソフト開発会社の重役で、馬主になれるような年収なんて貰っていない。


 年収の額を言って話を断ろうとしたのだが神楽は引かなかった。


「普通のサラリーマンくらいの収入があれば地方競馬でなら馬主になれるから。お願い。人助けだと思って。絶対走る仔だから」


 お願いと言ってきたその目。そういえばあの時も、この目でこいつは俺を中山競馬場に引っ張って行ったんだった。


”今日、三冠馬の初戦がその目で見れるんだよ! 見なきゃ損だよ!”


 あの時は俺と神楽の二人だけだったっけ。その後、二人でオルフェーヴルの話題一本で浴びるほどビールを飲んだんだった。


「だけど馬って何千万とか、下手したら何億とかするんだろ? いくらなんでもそんな金はうちにはないぞ?」


 少しだけ話に乗った俺を、神楽は期待に満ちた目で見てきた。

 それが大丈夫なんだよ、そう言ってバッグをごそごそとする。相変わらずあの頃と変わらずバッグの中はぐちゃぐちゃで、何が入っているか把握できていないらしい。

 こいつの借りていた部屋にも行ったことがあるが、このバッグと同じくらいぐちゃぐちゃだったのを覚えている。


 あったと言って鞄から取り出したのは一枚の写真。そこには鹿毛の馬が映っていた。


「可愛いでしょ。即金で四百万でどう? 本当は六百って言いたいとこだけど、そんな事言ってられない状況だから」


 呆れた。

 四百万円などという金をポケットマネーにできるような大金持ちに、俺が見えるとでもいうのだろうか?だとしたらどう考えても眼鏡が曇りすぎている。

 絶対に走る仔?そんな絶対に儲かるみたいな投資詐欺のような口上、一体誰が信用するというのだ。


 だが、これだけ必死に懇願するという事は何かあるのだろう。卒業後一度も会っていないかつての友人を頼って、恐らく藁にもすがる思いでやってきたのだろう。この感じだと、一夜を過ごせと言ったらそれで買ってもらえるならと言い出しかねない。


「何でそんな必死なんだよ。事情によっては深雪にも相談してみるよ。だけど何の理由もなくそんな大金がポンと出せるわけないだろう?」


 神楽は眉を寄せ軽く唇を噛み非常に言いづらそうにした。だが言えないなら、こちらもうんというつもりは一切無い。その雰囲気を察したのだろう。神楽は覚悟を決めたのか、それはそうだよねと呟いて頷いた。


「失敗しちゃったのよ。高い種付け料を出させて付けてもらったのに、まさかあんな事になるだなんて思わなかったから。そのせいで馬が売れなくって牧場が潰れそうになっちゃってるの」

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