第30話 屋上にて

「ねえ楓?」

「もう薄々気づいてるんだよね?楓の声なんか変だよ」

 少しの間空白があった。言葉を失うのも無理はない。でも楓だってこのまましらを切り続けるつもりはなかっただろう。いつかは始まることになっていた。

「気づいてる、ってどういうこと?」

「楓の声がさ、すごく気を遣ってくれてるんだなって分かるくらい慎重で」

「……実はね、夕方のやりとりから変な感じはしてたよ」

「さすが楓だなあ」

「だからそういう返事はやめて」

「気づいてくれたのは嬉しかったよ?」

「そういうことじゃなくて。身体は大丈夫なの?今回は相当長引きそうなんでしょ?」

「ううん。今回はもうちょっとで終わるよ」

 こんな人生さっさと終わらせてしまおう。もうちょっとできっと楽になるから。

「ねえ楓、明日ってちゃんと来てくれるのかな。私は明日が私のことを受け入れてくれるか心配だよ」

「なに明日世界が終わるなら、みたいなこと言ってるの。大丈夫だよ。明日はどんな人のことも受け入れてくれる」

 本当にそうだろうか。明日が来ない人だっているんじゃないか。明日が来ることを望まない人だって。

「楓は明日が普通に来ると思っているんだよね。ていうか皆そういうもんか。でも私に明日は来ないかもしれない」

「どうして?」

「私って人生の中で病院にいる時間が一番長かったよね。それで最近思ったんだ。」

「何を?」

「私が生きてる意味って本当にあるのかなって」

 今までに無いほどの長さの沈黙が流れた。流石に楓が可哀想になって無理やり空気を変えようとする。

「もう黙らないでよ〜。あんまり重く受け止める話じゃないよ」

「ごめんごめん。いきなり言われるとびっくりしちゃって」

「でも自分の生きる意味が分からなくなることって皆にもあるじゃん。ネットとか見るとそういう人ばっかりだし」

「まあそれはそうだけど……」

「楓は、あんまりそういうことは考えない?」

「んー、言われてみると無いこともない気がするかな」

「でしょ?だから心配しないで」

 後味の悪そうな楓の相槌が聞こえた。

「ねえ病院ってこんな遅い時間まで通話したりとかして大丈夫なの?病室に他の患者さんもいるでしょ?」

 楓はもう気づいているのかもしれない。私が病院にいないことを。いや、ひょっとすると病気のことまで。

「ううん、今は近くに誰もいないんだ。」

「本当に誰一人も?」

「うん、誰もいない。きっとこの後も誰も来ないと思うな」

「貸し切り状態ってことね」

「そういうこと。でも、そもそもここには貸し切らなくたって誰も来ないから」

 当たり障りのない返答で誤魔化した。再び会話の中に空白が生まれた。楓はどんなことを考えているのだろうか。

 

 クシュッ!不意にくしゃみが出た直後、電話の向こうで物音が聞こえ始めた。


 あ……。


 やっと確信に変わったんだろう。ドアを開ける音が聞こえる。階段を降りる音が聞こえる。母親らしき人物の呼び止める声が聞こえる。足音が荒くなる。


「今病院じゃない場所にいるでしょ」

「うん、そうだよ」

「夜に病院の外は出ちゃ駄目だよ。さっきからくしゃみが何回か聞こえる。寒いなら早く病院に戻った方がいい」

「寒くたっていい」

「どうして?」

「どうせもう少ししたら寒さなんて感じなくなるし」

 死んでしまえば寒さも痛みも何も感じなくなる。死は全ての苦しみから解放されるための唯一の方法なんだ。


「楓、私は死にたいって言う人の気持ちが今まで全くわからなかった」

「……うん」

「もっと好きに生きればいいのに。他人のことも社会のことも世界のことも何も考えず自分の好きなように生きればいいのにってずっとそう思ってた。自己中って言われようが気にしないで、そういうことは余裕のある人に任せておけばいいって」

 私はずっと自分の好きなように生きることができると信じていた。その時までは。

「でもさ、実際そういう状況に置かれている人の気持ちはやっぱり自分もそうなってみないと分からないんだよ。私にはまだ経験したことのない苦しみがあるのかもしれないけど、……けど私はもう多分耐えられない。自己中になって何も気にせず生きていくことなんてできない。生まれた時から周りに迷惑かけてきてついに治ったと期待させておきながら結局こうして迷惑をかけ続ける。私は人間として生きるのに向いてなかったんだよ……」

 何故か涙が出てくる。やがてその涙は止まらなくなった。

「ずっと前から罪悪感があったの……」

 やっとの思いで絞り出した声だった。あの頃の気持ちは罪悪感だったのだと言語化して初めて理解した。

 

 激しく雨が降り始めた。雨の溜まる地面を蹴る音もよく聞こえた。

「……今どこにいるの!」

「もう分かってるくせに」

「当たり前でしょ!確認に決まってるじゃん」

「多分そこであってるよ。わざわざごめんね。来なくたっていいのに……」

 楓が優しい人だって分かっていたはずなのに、いざ自分が消えてしまった時に悲しんでくれるか自信がなかった。私の理性は残っている。普通のやり方で楓を並行世界へ移す方法もあるのにわざわざこんな演出を加えたのは私自身だ。試すようなことをして楓には申し訳ないと思っている。だけど私は確かに嬉しかった。楓のおかげで涙と少しの微笑みを浮かべることができた。それが全てだ。

 もうすぐ楓がここに来る。さっきの会話で吐き出すだけ吐き出した。ここからは切り替えなくてはならない。私の目的は楓を安全に向こうの世界へ送ること。それだけはブレてはいけない。気持ちを切り替えるのに少し時間がかかった。気づけば校門をくぐる楓の姿が視界に映る。


「そこでずっと待っててね、すぐ行くから!」

 あぁもうすぐだ。あの頃の記憶が突然フラッシュバックする。本気でこの世から消えてしまおうと思っていたあの時、最後に現れたのはやっぱり楓だった。楓のおかげで生きようと思えた。だけど強風に煽られて屋上から転落、致命的な大怪我を負った。その瞬間本当に死を覚悟したのを覚えている。今は死にたいだなんて全く思わない。けれど今回の計画に関しては正直生きて帰れるか分からない。彼女にかかっている。

 

「楓、来てくれたんだね」

 螺旋階段を登ってきた楓は膝に手をつき息を荒くしていた。

「だって、ここしかないじゃん。どんなことがあっても忘れないよ」

 楓……。あなたはどうしてここまで……。

 こんなやり方私らしくないけど、もう仕方ないか。ゆっくり息を吐く。覚悟を決めた。

「でも楓」

「ん?」

「もう遅いよ」

「え、」


 楓は口を開けたまましばらく止まった。強い雨音と風の音だけが響く。

「もう遅い……?」

「うん、手遅れだよ」

 そう言って私は屋上から大きく羽ばたいた。間もなく楓もその軌道を全く同じように描いた。


「待って……、栞……!」


 時がゆっくり流れているようだった。楓の声が聞こえて楓に手を伸ばした。もう片方の手でポケットから改造版の装置を取り出す。校舎を見て今はまだ三階の高さだと分かる。伸ばした手がようやく楓に触れて、その直後物凄い力で上に引っ張られた。本当に楓の力はどうなっているのだろうか。でもこれなら壱希に関しても心配ないかもしれない。楓の能力については穂乃佳から聞いていたがここまで大きな力だとは思ってもみなかった。五人が無事に向こうに行けそうだと分かってよかった。そしてスイッチに手をかける。命の危険が迫っている状況だというのに私は不思議と楓に微笑む余裕があった。

 楓ありがとう。声にならない声でそう伝える。覚悟を決めてボタンを押した。楓の手に触れていた感覚が消えていく。あぁこれで全部終わりなのか。長かった。やっと終わるんだ。


 物語の序章が。

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