Chapter9 日に馳せ混じる
第29話 準備
「おはよー」
「あ、楓。おはよー。部活あったの?」
「ちょっとだけね。え、髪崩れてる!?」
「そういう意味じゃないって。とりあえずお疲れ様。」
「うん、ありがと。」
そう言いながらも楓はカバンから手鏡を取り出して自分の髪の調子を確認していた。一人で頷くのを見るに耐えていたのだろう。私からしたら部活後もそうでない時も可愛い親友に変わりないのだけれど。
「あのさ、楓。」
「うん?」
「また来ちゃったかもしれない」
「あぁ、例のやつ?」
「そう」
「今日はもうだめそう?」
「いや、とりあえず帰るまでは大丈夫だと思う。昼休みまた話そ」
「よかった。じゃあ午前中は無理しない程度に頑張ってね」
「うん、ありがと。じゃあまた」
楓の顔は心から心配してくれている人のそれだった。その優しさに思わず笑みが溢れる。朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが校舎に鳴り響く中、私たちはそれぞれの教室の方向へ散っていった。楓は走って私は歩く。いつものことなのに何故かいつにも増して寂しい感じがした。もう会えないと分かっているからだろうか。
私は午前で学校を早退した。昼休みまた話そうだなんて、よくも勝手なことを言ったものだ。でも準備のためには仕方なかった。事情を楓に話す訳にもいかない。
あと二人だった。楓と壱希を自分で向こうに送って見届ければ今感じている肩の荷は下りると思った。早くしないとPMOの調査が進んで二人も移行者リストに乗ってしまう。あまり時間をかけられない。しかし今日決行する楓の移行はどうしても不安要素が消えなかった。私はPMOに入って初めて物理的なリスクを冒さなければならなかった。
楓の移動条件は学校の屋上だった。いや、正確には屋上の柵を越えた先だった。最初は訳が分からなかった。そもそもこれほど細かい場所の指定は見たことがなかったし、屋上の柵の向こう側なんてとても普通の人が行けるような場所ではなかった。
しかし私はすぐにその理由を理解した。移動条件とはその人の最も重要な記憶に直結しているものだ。楓の中で屋上の柵の先が最も重要な記憶である理由、それは私が自殺を図った場所だからに他ならないだろう。あの時楓だけは私の飛び降りる瞬間を間近で見ていた。冷静になった今思い返せば、あんな光景をそばで見せられたらトラウマになって当然だ。
「その楓っていう子もなかなかよね」
穂乃佳が言った。
「どういう意味?」
「消えた記憶を潜在意識では覚えているなんてさ」
確かにその通りだと思った。本当は私が自殺未遂をしたあたりの記憶は薬によって無くなっているはずだった。それなのにどういうわけか楓の重要な記憶になっている。
「ねぇ穂乃佳ほんとにその条件で合ってるんだよね?」
「ずっとそう言ってるでしょ。私だって不安で何回も確認したんだから」
「……そっか、なんか嬉しいな」
楓は救いようのないほど良い子だ。楓がいなかったら私は今まで生きてこれなかったかもしれない。私は楓に沢山救われた。だけど、楓は救われないままだ。楓は自分が救われることを許さない。そういう人間だ。
「ほら、そんな感傷に浸ってる場合じゃないって」
「ごめん、そろそろ行かないとだね」
* *
準備をしていたらすぐに日は沈んだ。楓の移動条件を知ったその瞬間からある感情が芽生え始めていた。
楓なら私の全部を受け止めてくれるのではないか、と。私が自殺を図ってそれが未遂に終わって、もちろん一連の出来事に対してある程度気持ちの整理は付けたつもりだった。でも実際はまだ全然片付いていなかったみたいだ。固く結んでいた紐が解けていくように、心の奥底に封じ込めていた感情が今にもこぼれそうだった。穂乃佳に言ってもいいとは思うが、それで満足できないことは分かっている。
気付けば「今時間空いてる?」とLINEを入れていた。大丈夫。これはあくまで業務の一貫だ。
思いもよらず返信は早かった。
「うん、めちゃくちゃ暇だよ~。暇すぎて寝ようかと思ってた」
文面から既に良い子オーラが滲み出ている。流石にこれから話す内容を少し躊躇った。
「で、どうしたの?」
不自然な切り出し方ではあるが、通話に誘った。
「あ、そうそう。特に要件とかはないんだけど声聞きたいなと思って」
「通話?全然OKだよ~」
きっと楓は不自然に思ってるだろうに電話をかけるとすぐに繋がった。
「もしもし?」
「あ、もしもし楓。いきなり通話なんてごめんね。せっかく寝るところだったのに」
「いいのいいの。暇を持て余してたのは事実だし」
「でも寝たくなったら教えてね」
「うん、分かった。それでどうしたの、何かあった?」
「いやほんとにさっき送った通り。用もなく声が聞きたくなっただけ」
「そっかそっか」
こんなに優しい楓のことを困惑させてしまっているのが申し訳なかった。入院生活で夜に電話をかけたことは一度もなかったし、そもそも通話自体頻繁に行っていた訳ではなかった。
「今回の症状の程度はどのくらいなの?」
「んー、今回はいつもより大変かも」
「一ヶ月じゃ済まなそう……?」
「まあどうだろうね~。私もいきなり体調崩すからよくわからなくて」
「あーそっか。それはそうだよね」
楓の相槌に余裕が無くなってきているのを感じた。実は私の病気はある時停電が起きたようにプツリと消えてしまった。それに気付いたのは高校生になって半年が過ぎようとしていた頃のことだった。自分の中ではたまたま最近は調子が良いだけだと思い込んでいたのだが、半年も無症状でいるのは流石に何かがおかしいと考えざるを得なかった。しかし私はPMOの業務との両立を図るため学校に行く時間を大幅に削る必要があり、そのために私の持病の存在は都合が良かったのだ。楓のことを騙していた、そう言われても反論はできないかもしれない。
「けど、短い入院で済むといいね」
「そうだね。楓も私がよくなること祈っていてね」
あれ、私ってこんなこと言うキャラだったっけ。
「当たり前じゃん。心の中でずっと祈り続けてるよ」
「私ってやっぱり幸せものだな~」
「何よそれ」
今が吐き出す時なのかもしれない。
「だってこんなボロボロでもちゃんと思ってくれる人がいるんだもん。一人になった時とかしみじみ感じるんだよね」
自殺を本気で考えていたあの頃の脳内が今の私に憑依する。当時は本当にボロボロだった。自分でも手の付けようのない感情をどこにも吐き出せずただただ溜め込んでいた。
「すごい嬉しいこと言ってくれるじゃん。私もそう言ってもらえて幸せだよ」
楓。どこまでもあなたは優しくて、私の唯一の救いだった。だけど、ごめんね。今だけはその優しさに漬け込むことを許して。
「ねえ楓?」
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