第17話 初仕事
「三十万」
それはまさしく今の女の声だった。短すぎる単語がずっと脳内に響いて、次の足を出そうとする信号が途切れる。またその場に立ち止まってしまった。最初と同じだ。
そして勝手に体が後ろを振り向く。夜で人通りは少ないが女が声を張って放ったその単語は辺りに響き渡り何人かの通行人が足を止めて彼女を見ていた。しかしほんの一瞬止まった時間はすぐに再開し俺以外の人間は皆それぞれの方向へ歩き出した。
明らかに俺に向けられたその言葉の真意を掴もうとするが、いまひとつ思いつかずただ立ち止まる。すると前から女が近づいてきて気まずそうに口を開く。
「一日の給料です。」
その衝撃的な事実に言うべき言葉が見つからなかった。
その後色々な話を聞き腑に落ちる点もあれば、そうでない点もいくつかあった。まずこのアルバイトの内容だ。これが導入部分でありながら最も謎の深いものだった。アルバイトの主な仕事は人々を並行世界に移動させること。並行世界とは現実と全く同じ空間が広がる第二の世界のことで、どういう理由があってのことかは知らされていないが、全人類をその並行世界に移動させる必要があるという。
もう何が本当のことか判断できない。女の言葉は全てただの出鱈目にしか聞こえないはずなのに頭ではそれをすんなりと受け入れてしまう。そんな自分の中での矛盾にも説明をつけられずにいた。
「どうしますか、川上颯さん」
「……」
普通に考えればおいしい話に違いはないが、もちろんこれを普通の話として捉える訳にはいかない。
「アルバイトの内容は百歩、いや千歩譲って理解しました。でもこんなに貰えるものでしょうか。何か闇があるんですか?」
「闇なんてありませんよ。むしろこれは国の公共事業です。」
「それはいくら何でも無理がありませんか」
「無理はありません。そもそも民間の活動ならこんな大きな規模にならないですし。」
確かにそうだと思った。未だこの話を現実の話として捉えられずにいるが、徐々に気持ちが傾いてきているのは事実だった。アルバイトの話だけではない。目の前のこの女の言葉も疑わず信じるべきではないかと思い始めている。
「あの、その話もっと聞かせてくれませんか」
それでも俺は冷静を保っているつもりだった。この話が出鱈目である可能性を捨てることはしなかった。試しにやってみる、それだけの話である。
「それはつまり、提案を聞き入れるということですね?」
「はい、そういうことです」
特別大きな決断はしていないはずなのに緊張感があった。女の顔にはわずかに安堵が見える。
「これは胡散臭いので話を受けてもらえるまでは言わなかったのですが、」
何か隠し事をしていたのだろうか。
「この話は限られた人にしかしていません。」
確かに胡散臭かった。これを初めに言われていたら嫌気が刺してしまったかもしれない。
「でもさっき人手が必要って言ってましたよね」
「人手は必要です。しかしその人は選ばなければいけません」
「適性を見るってことですか?」
「はい」
誰もができるアルバイトではないらしい。でも人々を並行世界に移動させるという未知の仕事にどんな適性が求められるのだろうか。
「ちなみに颯さんは私の推薦です。」
「えっ?」
「どうして自分のことを知っているのか。そう思いましたか?」
「どうしてですか」
「じきに分かると思います。」
教えてくれないならその話を出すな。と思ったが、この女が俺を推薦したというところにやっぱり引っ掛かる。その理由もまた「じきに分かる」と言われてしまうのだろうか。
「とにかく今日はこれで終わりです。長く付き合わせてすみませんでした。何かとやりとりしなければいけないことが増えると思うので連絡先だけよろしくお願いします。お疲れ様でした。」
そして連絡先を交換し、これから待ち受ける出来事に胸を踊らせることなどできるはずもなく、複雑な気持ちで女と別れを告げた。結局推薦された理由を聞くことはできなかった。メールで聞くのも変な感じがしてやめた。
* *
三日後、なかなか来ないと気にかけていた連絡がようやく来た。ついに初仕事が回ってきたということだ。早朝俺を叩き起こすように鳴った通知音はそのメールを知らせるものだった。いつもより早い時間に起きたにもかかわらず待ちわびた通知音のおかげで目覚めは良かった。
夜十時先日私が話しかけたあたりに来て下さい。
メッセージはそれだけだった。詳しい仕事の段取りは後から伝えられるのだろうか。気付けば俺はこのアルバイトを楽しみにしていたのかもしれない。もちろんアルバイトの対価の大きさを魅力的に感じた側面はある。しかしそれ以上にあの謎に包まれた女の存在をもっと知りたい。何故かずっと前に見たことがあるような気がした理由を明かしたい。そういう気持ちになったことの方が大きかった。女が歩み寄ってくれるかは分からないがそこに時間を費やす価値はあると思った。正直お金はそのついでにもらえればラッキーなくらいで考えていたのだ。
授業が終わり放課後になると他のクラスの部活仲間が勢いよく教室に飛び込んできて一緒に部活に向かった。今日から始まるアルバイトや例の女のことを考える余裕はなく、時間は光のように去っていった。そしてまた考えている暇もなくいつものバイト先に向かった。結局気付けばバイト終わりの十時となり、店長に丁寧に別れを告げるとすぐさま三日前に話した場所に行かなければいけなかった。
走ること三分、駅構内に入る自動ドアの横に端末をいじるあの女の姿を見つけた。上がる息をなんとか抑えて女の元に駆け寄る。女は本当に隣に俺が来るまで気づかず画面と向き合っていた。俺の到着に気づくと一瞬驚く素振りを見せたもののすぐに顔を引き締め「遅刻ですよ」と俺に言った。
「すみません」と返すと、ここじゃ話しづらいから、と別の場所に移動することになった。人の目を気にするなんて、三日前この場所で「三十万」と大きな声で放ったことはどうやら忘れているらしい。
移動先は近くの公園だった。驚いたのは俺の他にも集まる人がいるということだ。この人たちも同じような説明を受けてここに来たのだろうか。だとしたらお金目当てに来た人もいるだろうし、俺もきっとそう思われているだろう。一緒に来たはずの女は十数人ほどの参加者の前に立って説明を始めようとしていた。
説明が始まったタイミングでさらに驚きの事実が判明した。よく見ると十数人の中には友達が含まれていたのだ。……あいつがどうしてここに?
向こうは気づいていない様子だったが俺は頭の中が混乱し女の話はほとんど聞いていなかった。意識が女の説明に戻った時にはもう説明は終わりかけていた。「それではよろしくお願いいたします。」と締めくくり、皆がそれぞれの仕事に向かい始める。何も理解していなかった俺はその友達に声をかけた。
「おい、なんでここにいるんだよ」
「颯か。お前こそなんでここにいるんだ?」
色々と説明したいことはあったがまず聞きそびれた話を教えてもらうことにした。
「悪い、それは後でゆっくり話すから」
「お前から言ってきたんだろ」
「そうだけど。そんなことよりさっきのあの女の人の話聞きそびれちゃってさ、どんな内容だったかざっくり教えてくれない?」
「まあいいけど」
そうして俺は戸惑い気味の友人から話の内容を聞いた。先程話された内容はまとめるとおおよそこんなことだ。
前半は三日前に聞いたアルバイトの概要の話とほとんど重なっていた。他の人は初めて聞く話だったそうだが、事前に知っていた俺は確認程度の気持ちで聞くことができた。
そして後半は今日の具体的な流れ。とは言ってもそれぞれ動きが異なるためあまり多く話されなかったらしい。後で説明用紙が配られるため、それを参考にしろとのことだった。全体的にはあまり重要性の高い内容ではないと判断したが、今日の仕事場所だけは聞き逃してはいけなかった。こればかりは友達も自分の配置場所しか把握しておらず、女に聞き直す他なかった。
申し訳なさそうなふりをして女の元に寄ると
「演技しないでください」
と言われてしまったので普通にした。聞いていなかったことには言及されず場所とそこまでの道のりを淡々と説明された。集まった人達はもう誰も残っておらず友人も仕事だから、と先に行ってしまった。アルバイトが一人残されたことに焦りを覚えたが、女と話すチャンスにも思えた。とはいえ仕事中だ。今日はひとまず挨拶程度にしよう。そう決めた次の瞬間、向こうから話しかけてきた。
「そういえば、これの中身見てみますか?」
女の指すところにはいつも持っているタブレット端末がある。
「すっかり忘れてました」
「忘れるくらいなら別に見なくてもいいんですけどね」
そう言われはしたがせっかくなので見せてもらうことにした。女は「仕方ないなぁ」と言わんばかりの顔をして画面をこちらに見せてきた。夜の時間帯ですっかり暗視モードになっていた俺の眼はその明るさに目を向けていられなかった。
しかし徐々に目が慣れてきて画面の文字を視認できるようになると、そこに広がる光景の恐ろしさに気付き始める。
すべてがはっきり見えた時発する言葉が無かった。それを分かっていたように女は「見ない方が良かったですか?」と言う。一体この女が何者なのか、それを知りたい気持ちで端末の中身を見ようとした。でもその結果俺に残ったのはこれまで以上に女のことを分からなくなっていく自分だった。
一体この女は何者なのか
もう一度その問いを自分に突きつける。答えは出るはずもなかった。
同年代ということでどこか親近感を抱いていた自分がいたと思う。他のアルバイトの人達が知らなかったことを先に知らせてくれた、外に漏らしてはいけないタブレットの中身を見せてくれた、そんな行動も他の不器用な愛想も俺が特別な存在として見られていることの証だと思いたい自分がいたのだろう。
いや、実際本当にそうかもしれない。他とは違う存在として扱われていたのかもしれない。ただ彼女が気の遠くなるほど離れたところにいる気がした。俺のような一般人には立ち入れないような領域で孤独に過ごしている気がした。
けれどそこに近づこうとは思わなかった。きっと近づけない自分が嫌になりたくなかったのだ。
「仕事早く向かわなきゃですよね。すみません」
それだけ言って歩きだそうと思ったが、意外にもその提案は下げられた。
「もうちょっとだけお話しませんか」
女がそう言ったことに驚きを隠せなかった。
「でも、いいんですか」
「私の管轄なので仕事のことは一旦気にしなくて大丈夫ですよ」
「なんかありがとうございます」
「サボれてラッキーですか?」
「そんなこと思ってる訳ないじゃないですか」
「まあすぐ仕事に戻ってもらうので心配しないでください」
台詞こそ淡々として今までとほとんど変わらないがこの一瞬で勝手にほんの少し距離が縮まった気がした。それでもやはりその距離はまた遠のいてしまうのだろうか。彼女の新しい事実を知ってしまうのだろうか。そう思うと複雑だった。
「颯さん」
「はい」
「私に初めて会った時どう思いましたか。まだ会うの二回目ってことは置いといて。」
初めて会ったの三日前、どうしてこんなことを聞いてくるのか分からなかった。
「なんか、よく分からない人だなって思いました。でもそれは今も変わらないです」
その「よく分からない」には色々な意味を込めていた。冷たい態度をとるのに時々かまってほしそうな言葉を口にする。いきなり意味不明なことを並べて言い出す。意図の読めない質問をしてくる。俺に他とは違う対応をしてくる。
これらすべてに対して俺はよく分からないとしか言えなかった。とても一貫した姿勢があるとは思えなかったし、それを追求することに意味が無いことは承知していた。
「よくわからない人、ですか。でも私が聞いているのは本当に会ってすぐのことです。会話を交わす、その前の段階でどう思いましたか?」
「話す前の段階……」
そう聞かれて「昔に見たことがある気がした」と答えるか迷った。これを言ったら「幻覚が見えているんですか?」と鼻で笑われるような気もして躊躇った。結局真剣に悩んだふりをして「特に何も思わなかった」と答えた。今回の演技は指摘されなかった。
「何も思いませんでしたか」
期待はずれな顔をして一度視線をそらした彼女を見てやはり数年前に見た姿だと思った。しかもかなり近い距離で見ていたような。しかし思い出そうとすると、その周辺の記憶がブラックアウトし始め、まるで俺に記憶へのアクセスを禁止しているようだった。
「そういえば自己紹介していませんでしたね」
と女はわざとらしく話題を切り替え、俺のはっきりしない脳内は一旦思考を停止した。
「たしかに聞いていませんでした」
女はこちらから目を離さずに言う。肩にかかる髪が風で少し揺れていた。
「私は琴宮栞です。」
明らかに女はこの情報に帯びる重要性を認識したうえで言葉を発していた。そしてその瞬間俺は思い出せなかった過去にかかる黒い網が勢いよくほどけていくのを感じた。
「栞……」
自然とその名前を口ずさんだ俺を見ておかしくなったのか、安心したのか、栞は下を向いて声を出さずに笑いだした。肩が小刻みに揺れている。
しかし彼女の名前を聞いてもなお、俺の疑問は残り続ける。
「反応が薄いですね」
「すみません」
栞、それは俺が思い出せなかった幼馴染に間違えなかった。けれど目の前の女がその栞であるとは思えなかった。名字が琴宮であったかは記憶が曖昧だが何より問題はその態度だった。こんなに突き放すような言い方をしていただろうか?こんなに不器用な伝え方をしていただろうか?そもそもどうしてこんなことをしているのだろうか?
もし本当に幼馴染の栞なら普通の高校生活を送っているはずなのに。最初は自分と同じくらいの年代の人が闇のアルバイトの勧誘をさせられていることを哀れに思ったものだった。しかしその同年代の人が栞である可能性が浮かんでいる今、他人事として扱えない気がした。
はたまた女の発したその名前が偽名である可能性もあった。先程見せてもらったタブレットの画面に広がるのは膨大な個人情報だった。あまりの情報量にすぐ目を離したが、そのデータベースがあれば俺の近しい関係にある人物を洗い出すことは容易ではないか。ただそうだとすると顔が似ていることの説明がつかない。勝手に過去の記憶を自分で書き換えてしまったのだろうか。それを確かめる術はもうない。
「そろそろ仕事に向かいましょうか」
琴宮栞はそう言った。一人で考えている間に音の無い時間がしばらく流れていたらしい。これもまた他人行儀な言い方でやっぱり幼馴染の栞ではない気がした。それでもふとした瞬間に合う目は見覚えがある。やめよう、今は考えても仕方ない。何にせよ働かなければ給料はもらえないし、親にも心配されてしまう。
「とりあえず、ありがとうございました」
それだけ言って今度こそ歩き出した。後ろは振り返らないようにした。
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