第8話 想起
今彼女がいる場所、それは学校の屋上だと容易に見当がついた。身体の弱い彼女は賑やかな昼休みの中ゆっくり落ち着いて昼食をとれる場所を求めていた。クラスのうるさい人達の声は骨に響き呼吸を乱すためその存在を彼女は恐れていた。ただでさえ昼休みを一緒に過ごせる日は少ないのに、限られた機会をそんなことで無駄にはしたくなかった。中庭も食堂もベンチも常に静かな環境ではなかったので、彼女が学校に来ていない昼休みは学校を歩き回って落ち着く場所を探していた。そんな中私がようやく見つけたのが屋上だったのだ。本来屋上は使用禁止だがバレないように行く手段を見つけ、ついにそこは私たちだけの場所となった。昼休みが始まると人目を盗んで校舎の外の螺旋階段を上り屋上で合流する。そして二人でお弁当を食べながら色々な話をしては遠くの景色を眺めた。天気が悪くても屋上のわずかな屋根の下で肩を寄せ合い昼休みをともに過ごした。教室に戻ると濡れた制服を不思議そうに見てくる人もいた。
屋上で過ごした昼休みは毎日通う私からしたら限られた回数しかなかったが、高校生活の中で他のどんな思い出より色濃く記憶に残っている。そんな彼女との思い出の場所がもう少しで呪いの場所に変わってしまうかもしれない。そう考えるだけで走れなくなるほどぞっとした。
「まだそこにいるよね!?」
二、三分続いた沈黙でさすがに恐怖を感じ話しかけた。この間に彼女の気持ちが再び大きく動かないよう祈った。
しかし、安否確認に対する返答はなかった。あまり動転した様子を見せたくなかったのでしばらく待ったが、それでも彼女の声は聞こえない。
自分の足が速くないことに苛立ちは募り、でも走ることしかできずただあの場所へ向かう。
ついに学校につき、校門をくぐる。
「あっ」
屋上のその端に黒い影を認めた。まだ間に合うと自分に言い聞かせ走る。
「そこでずっと待っててね、すぐ行くから!」
返事は無くても彼女の実体を確かめ、今まで以上に強く地面を蹴りだす。雨でぬかるんだグラウンドに足を取られながらその先にある非常階段へ駆ける。螺旋階段はこれまでの疲労を一気に感じさせたが、とにかく一心不乱に上った。そして上り切った。
「……!」
「楓、来てくれたんだね」
そこには涙と雨で顔がひどく濡れてしまった彼女の姿があった。
「だって、ここしかないじゃん。どんなことがあっても忘れないよ」
その言葉で彼女の顔が柔らかくなった気がした。私もつられて微笑む。
「でも楓」
「ん?」
「もう遅いよ」
「え、」
全身から途端に力が抜けていくのを感じた。自分の中の大事な何かが音を立てて崩れ始める。
「もう遅い……?」
「うん、手遅れだよ」
そう言って彼女は屋上から大きく羽ばたいた。そして間もなく重力が目に見える形で分かる。気づけば私もその軌道を全く同じように描いて彼女の後を追っていた。
「待って……、栞……!」
その瞬間幼少期の記憶が一気にフラッシュバックした。
* * *
最初に見たのは画材屋のショーケースに手を伸ばすところだった。人の目を気にしながら天ノ川色の絵の具をそっと掴むもう一人の自分、幼い自分がいる。少しするとその風景は早送りしたように進んでいき適当に流しているうちにもう一人の自分は倒れた。そして視界は暗くなる。
次に見たのは保育園で皆に腕の能力を披露するところだった。今回はすぐに早送りが始まり、気付けば金魚鉢の中に腕を突っ込んでいるもう一人の自分が目の前にいた。教室を見渡すと賞賛する生徒がいる一方で怯えて静かに泣き出す生徒もいた。もう一人の私は教室全体が歓喜に満ちているとでも思っているのだろうか、得意気な顔をしている。しかし教室後方ではかなり危うい雰囲気が漂っている。
何だ、これ……。私は小さい頃こんな子だったのか……。盗みをはたらき教室を騒がせ、いかにも問題を抱える過去の私。あの頃の記憶がまるごと抜け落ちていた理由が少しずつ分かってくる。しかし腕を貫通させる能力は今も残っているのだろうか。残っていたとしてどうするのか。そもそも私はなぜこんな映像を見せられているのか。
しばらくすると次の場面に移った。母と話しているようだ。またもやすぐに早送りが始まる。会話は聞き取れないが顔に希望を宿らせながら母に何かを訴えている。母は難しい顔を浮かべている。早送りが止まった。一倍再生でそれを眺めていると幼い私は壁に手を当て始めた。
はっ……!
私はその壁の向こうが父の遺品がならべられているところだと気づいた。
そっちに貫通させちゃ駄目だ!
私は必死に幼い自分を止めようとしたがいくらもがいても手が届くことはない。母の顔がより一層険しくなっているのが分かった。過去の自分が犯そうとしている過ちを止める術がないことを察し目を背けたくなる。少しして幼い私はついにその腕を貫いてしまった。そこで視界が暗くなっていく。
これは自分の走馬灯のようなものかもしれないと気付いた時、今現実世界における私の状況とそうなるに至った経緯が思い出された。私は今学校の屋上から落ちている最中で、高度は正確には分からないがもう間もなくすると人生が終了してしまうということなのだろう。
それにしても走馬灯に映し出された場面はどれも今の私にとって負の印象しかなかった。当時の心情はまた違ったのかもしれないが。死ぬ直前になって家族との良い思い出も友達との思い出も何も振り返ることができないなんて、自分の人生は何だったのだろう。今さら腕のことを思い出して何が変わるというのか。こうして色々なことに絶望しながら私のフラッシュバックは解けた。
うわっ……。
突然のしかかる重力が少し苦しかった。ほんのちょっと下で落ちていく彼女が私の方を見てこの上ないほど幸せそうな顔を浮かべた。
「栞、死んだら駄目だよ……!」
こんな状態で無理なことを言っているが、それが私の心からの願いだった。それでも彼女は微笑むだけだ。
……絶対死なせない。
先ほど流れてきた記憶がもう一度頭に浮かび自然と腕に力が入ったように感じた。彼女が少しでも軽く地面に落ちれば死なずに済むかもしれない。
「栞、手を伸ばして!」
彼女が伸ばす手は私の手の届く範囲には入っていなかった。私は必死に、ただひたすら祈って腕に力を込めた。そして精一杯伸ばす。
やっとの思いでつかみ切った彼女の手をなんとか引いて自分のもとに手繰り寄せる。そして二人一緒に地面へと落ちていった。私が下敷きになろうと回転しながら完全に下になることができたか確認もしないまま何も見えなくなった。
これで今度は良い走馬灯が見られるかな……。
栞が生きて帰れることだけを祈り、もう少ししたら訪れるだろう身体への強い衝撃を覚悟した。
しかしそれは決して訪れることは無かった。
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