第7話 貸切の病室
「もしもし?」
「あ、もしもし楓。いきなり通話なんてごめんね。せっかく寝るところだったのに」
「いいのいいの。暇を持て余してたのは事実だし」
「でも寝たくなったら教えてね」
「うん、分かった。それでどうしたの、何かあった?」
「いやほんとにさっき送った通り。用もなく声が聞きたくなっただけ」
「そっかそっか」
適当に返事はしてみたが、やっぱりわからない。けれど何か言いたげな雰囲気はすごく感じる。こんなに彼女との会話で神経を使うのは初めてだ。いつもの打ち解けた感覚がまるで消えている。
「今回の症状の程度はどのくらいなの?」
「んー、今回はいつもより大変かも」
「一ヶ月じゃ済まなそう……?」
「まあどうだろうね~。私もいきなり体調崩すからよくわからなくて」
「あーそっか。それはそうだよね」
よくわからない訳がない。十七年以上自分の病気と向き合ってきたんだから。私には少なくともよくわかる。彼女の体が順調な状態ではないことが。そして話したくない何かを隠していることもわかる。馬鹿みたいに騒ぐことはなく常に冷静沈着なように見える彼女も隠し事をする時は少し声のトーンが上がる。焦りを見せたくないのだろう。
今の彼女の声はそれにピッタリ当てはまっていた。まだ何も決定的なことは起きていないがどんどん彼女を疑う方向へ行ってしまう。
「けど、短い入院で済むといいね」
「そうだね。楓も私がよくなること祈っていてね」
「当たり前じゃん。心の中でずっと祈り続けてるよ」
「私ってやっぱり幸せものだな~」
「何よ、それ笑」
「だってこんなボロボロでもちゃんと思ってくれる人がいるんだもん。一人になった時とかしみじみ感じるんだよね」
「すごい嬉しいこと言ってくれるじゃん。私もそう言ってもらえて幸せだよ」
ふふふ、と笑い声が聞こえた。この笑い声は素の声だ。少し安心する。でもここまで来るとこの程度の安心では何も不安は取り除かれなかった。彼女がいつもと違うことは明らかで、私の声も少しずつ震えが大きくなり始めていた。このまま普通に話しているのは厳しいと思い、そろそろ切り出そうとした瞬間。
「ねえ楓?」
彼女が問いかけてきた。
「もう薄々気づいてるんだよね?楓の声なんか変だよ」
……えっ?
背筋が凍った。一瞬、本当に全身が固まって思考が停止した。スマホを握る手が緩み床に落としてしまった。慌てて拾い上げて返事する。
「気づいてる、ってどういうこと?」
「楓の声がさ、すごく気を遣ってくれてるんだなって分かるくらい慎重で」
「……実はね、夕方のやりとりから変な感じはしてたよ」
「さすが楓だなあ」
「だからそういう返事はやめて」
「気づいてくれたのは嬉しかったよ?」
「そういうことじゃなくて。身体は大丈夫なの?今回は相当長引きそうなんでしょ?」
「ううん。今回はもうちょっとで終わるよ」
これを聞いた時、私の解釈が正しければ、私は今すぐにでも動き出さなければいけないはずだった。
ただ決定的な出来事がない中で大胆な行動を起こせるほどの勇気を私は備えていなかった。結局一度勢いで立った席にまた座りなおす。
「ねえ楓、明日ってちゃんと来てくれるのかな。私は明日が私のことを受け入れてくれるか心配だよ」
「なに明日世界が終わるなら、みたいなこと言ってるの。大丈夫だよ。明日はどんな人のことも受け入れてくれる」
「楓は明日が普通に来ると思っているんだよね。ていうか皆そういうもんか。でも私に明日は来ないかもしれない」
「どうして?」
「私って人生の中で病院にいる時間が一番長かったよね。それで最近思ったんだ。」
「何を?」
「私が生きてる意味って本当にあるのかなって」
「……」
「もう黙らないでよ〜。あんまり重く受け止める話じゃないよ」
「ごめんごめん。いきなり言われるとびっくりしちゃって」
「でも自分の生きる意味が分からなくなることって皆にもあるじゃん。ネットとか見るとそういう人ばっかりだし」
「まあそれはそうだけど……」
「楓は、あんまりそういうことは考えない?」
「んー、言われてみると無いこともない気がするかな」
「でしょ?だから心配しないで」
「うん、まあ……」
話の進め方が少し強引な感じがするが納得いかないこともない。でもそれはどことなく表面上だけの納得な気がする。それに、生きてる意味あるのかな、と言った時のトーンはほんの少し下がっていた。彼女の中でしっかり吟味したうえで結局よくあるようなフレーズになってしまった言葉という印象を受けた。それならやっぱりその言葉だけが彼女の本心なのかもしれない。
とするならば……。
「ねえ病院ってこんな遅い時間まで通話したりとかして大丈夫なの?病室に他の患者さんもいるでしょ?」
「ううん、今は近くに誰もいないんだ。」
「本当に誰一人も?」
「うん、誰もいない。きっとこの後も誰も来ないと思うな」
「貸し切り状態ってことね」
「そういうこと。でも、そもそもここには貸し切らなくたって誰も来ないから」
クシュッ!彼女のくしゃみが聞こえた。鼻水をすする音も同時に聞こえる。
あ……。
全てが繋がった。もう手遅れかもしれない。そう一瞬諦めそうになった。でも駄目だ。これから私はとんでもなく重くのしかかる呪いと一緒に生きていかなくてはいけなくなってしまう。自分に向けた自分による呪い、そんなものは抱えられる訳が無かった。
急げ急げ、まだ可能性はある。
彼女に悟られないように電話を繋いだまま物音を立てず家を出た。母に呼び止められる。でもそんなことに時間を費やすわけにはいかない。とにかく走って走った。息は荒くならないように気をつけながらも時々スマホから顔を遠ざけて深呼吸した。その間もずっと本題―が存在するのか不明だが―から少し逸れた話で時間稼ぎをした。
「今病院じゃない場所にいるでしょ」
「うん、そうだよ」
「夜に病院の外は出ちゃ駄目だよ。さっきからくしゃみが何回か聞こえる。寒いなら早く病院に戻った方がいい」
「寒くたっていい」
「どうして?」
「どうせもう少ししたら寒さなんて感じなくなるし」
これを寒さに慣れるという意味で解釈していたら絶対に間に合わなかっただろう。これはつまり人生の分岐点が近づいてきていることを示す。でも正しい解釈ができたところで悪い方の分岐に進む可能性を消せるわけではない。
よく考えてみれば最初からおかしかった。風のなびく音がやけに聞こえるのは窓を開けているのだろうと思っていたがその時には外にいたということだ。今回は相当長引きそうなんでしょ?そう尋ねた時、もうちょっとで終わる、と彼女は答えた。あの時の嫌な予感は現実の状況と一致していた。
もっと早く行動に移していれば……。
「楓、私は死にたいって言う人の気持ちが今まで全くわからなかった」
「……うん」
「もっと好きに生きればいいのに。他人のことも社会のことも世界のことも何も考えず自分の好きなように生きればいいのにってずっとそう思ってた。自己中って言われようが気にしないで、そういうことは余裕のある人に任せておけばいいって」
「……」
「でもさ、実際そういう状況に置かれている人の気持ちはやっぱり自分もそうなってみないと分からないんだよ。私にはまだ経験したことのない苦しみがあるのかもしれないけど、……けど私はもう多分耐えられない。自己中になって何も気にせず生きていくことなんてできない。生まれた時から周りに迷惑かけてきてついに治ったと期待させておきながら結局こうして迷惑をかけ続ける。私は人間として生きるのに向いてなかったんだよ……」
そう言って彼女は電話の向こうで泣き出した。
「ずっと前から罪悪感があったの……」
彼女はそのあとも色々と続けた。しかしこの時の私はなぜか驚くほど冷静を保っていた。無理に反応せず彼女の話を聞きながら走っていた。もう荒くなった息を隠すこともしなかった。
激しく雨が降り始めた。私が彼女を止めようとしていることをずっと前から彼女はおそらく気づいていた。雨の溜まる地面を蹴る音もきっとよく聞こえているだろう。
「……今どこにいるの!」
「もう分かってるくせに」
「当たり前でしょ!確認に決まってるじゃん」
「多分そこであってるよ。わざわざごめんね。来なくたっていいのに……」
そう言って彼女は黙った。
風の音、消防車のサイレン、手がかりはいくらかあったが、何よりも思い出をたどればきっと一つしかないだろう。しかし間に合うだろうか……。
このやりとりを通して彼女の気持ちに変化はあっただろうか。最初よりはわずかに落ち着きを取り戻したように思えた声も実際の気持ちとは全然違うかもしれない。無言の通話中、向こうから時々物音が聞こえた。その度に私は最悪の状態を想定した。でも不用意に安否を確認するのは彼女の溢れ出す感情を触発してしまうかもしれない。今はそっと電話を耳に当てているだけで十分だ。
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