Chapter2 木に風靡く

第6話 脆い少女

 壁の向こうのものを取れる。そんな非現実的で妙にダサい能力を持っているという事実をもうしばらく忘れていた。十年は経っただろうか。本当に長い間記憶から抜け落ちていた。

 人間が部分的な記憶喪失になるのはその記憶が脳に与えたショックがあまりに大きすぎた時だと言われている。自分にしか使えない能力を持っていることの興奮を思えばどうしてこんなに長い期間記憶の奥底に眠っていたのかわからない。つまり私は本当に大きなショックを脳に受けたということだ。

 しかし一生掘り出されることのないはずだったその記憶はある偶発的な、いやもしかするとずっと前からそうなることが分かっていたかもしれない必然的な出来事によって突然記憶の中に戻ってきた。

 それはまた脳に大きなショックを与える出来事だった。再びこの能力と出来事の記憶が全て失われてしまうほどの。


 * * *


「おはよー」

「あ、楓。おはよー。部活あったの?」

「ちょっとだけね。え、髪崩れてる!?」

「そういう意味じゃないって。とりあえずお疲れ様。」

「うん、ありがと。」

 そうは言ったものの一度気になるといてもたってもいられなくなり、トートバッグの中に埋もれている手鏡を取り出して確認した。何とか耐えているといったところだろう。

 クラスは違うが学校に来る時はいつも会いに来てくれる私の親友。彼女とは小学校の頃から一緒で私のことは何でも知っている。私も彼女のことなら何でも知っている。

「あのさ、楓。」

「うん?」

「また来ちゃったかもしれない」

「あぁ、例のやつ?」

「そう」

 彼女が病弱であることも勿論私はよく知っている。実際小学生の頃から学校にいる日より病院にいる日の方が多い。だから学校に普段通う生徒とはほとんど話すことがないし、彼女がやっとのことで登校した日もあまり他の生徒から話しかけられることは無かった。今思えばそんな彼女が私に心を開いてくれたのは思わず口角が上がってしまうくらい嬉しい事だった。

「今日はもうだめそう?」

「いや、とりあえず帰るまでは大丈夫だと思う。昼休みまた話そ」

「よかった。じゃあ午前中は無理しない程度に頑張ってね」

「うん、ありがと。じゃあまた」

 朝のホームルームの始まりを告げるチャイムが響き渡る。やばっ、と顔を見合わせると何も言わず頷いてお互いの教室に急いで向かった。

 私は走りながらも後ろが気になっていた。振り返ると体に負荷をかけないため歩くことしかできない彼女が私と反対方向の教室に向かっていく。その弱々しい背中を目にしてやっぱり付き添った方がいいと思い走ってきた廊下を引き返した。が、すぐに見回りの先生に止められ結局何も出来ないまま自分の教室に向かった。もう一度後ろを振り返る。彼女はまだ歩いていた。


 昼休みに喋る約束は結局果たされなかった。彼女は午前中に早退してしまったことを放課後になって知った。あぁまたしばらく会えなくなるのか。歯切れが悪く心から後悔した。

 明日は土曜日、病院に顔を出しにでも行こう。


 高校入学後、彼女の体調はそれまでにも増して著しく悪化した。学校には月に一回来れたらいい方だった。奇跡的に学校に来ることが出来ても、放課後まで学校にいることはほとんどない。体調が半日も持たず早退してしまうのだ。私は彼女が学校に通えるようになるために頑張っていることを誰よりもよく知っていた。だからこそそれが報われないのは余計納得がいかなかった。自分事のように辛かった。絶望も味わった。報われない努力もある。口で言うのは簡単だが、それほどに残酷な言葉は無いものだと心から思う。

 負の感情は波動となって遠くまで伝わる。と小さい頃母によく言われた。言霊の話と同じように考えることも前向きでいる方がいいとのことだった。私が抱いた負の感情が彼女に伝わってしまうのは望むところではない。もっと前向きにならなければいけないなと自分に言い聞かせる。軽い文字面で明るく安否確認の連絡を入れ、すぐ帰り道を歩き始めた。

 

 しかし想定以上に返信が早かった。

「今日はごめんね。昼休みなる前に帰っちゃって」

「そんなこと気にしなくていいって!」

「でも久しぶりに楓と話したかったな」

「きっとすぐ学校来れるようになるよ。大丈夫!」

 やり過ぎなくらい明るいメッセージを送ってから少し時間が経った。長文でも打ってるのかと思ったが、この文脈で送る長文なんてあるだろうか。トーク画面をしばらく見ていてもなかなか返信が来ない。とりあえずこれで会話が終わったのかな、と思いトークを閉じてまた歩き始めた。すると数歩歩いたところで通知が鳴る。

「そうだね笑」


 彼女からはこれだけが来ていた。思っていた文章量を大きく下回るその短文に違和感を覚えた。でもそれに触れる言葉は思いつかずそのまま会話を終わらせることにした。

 単に誰かに話しかけられたりして中断せざるを得なかったのかもしれない。むしろそう考えるのが普通だ。ただ彼女がこんな間で送ってきたメッセージが妙に不気味だった。今までそういうことがなかっただけで、ごく普通のやり取りに過ぎないとは思うがどこか心残りだった。

 まあいっか、さっきからいろいろ気にしすぎかもしれない。そう思い、今度こそしっかり歩き出した。


 帰宅後、自分の部屋で少し勉強した後、夕食の完成が告げられたため家族と食事をともにし珍しく早い時間帯に入浴を済ませた。そしてまた自分の部屋に戻り、スマホをいじってダラダラしては、未だに不安の残る彼女とのやりとりを思い出して天井を見つめた。

 ボーッとしていると途端に眠気が襲ってきた。起きている理由も特にないので寝る準備を始める。まだ時計は九時付近を指していた。


 明日の準備を最低限済ませベッドに潜ろうとした時、突然通知音がなった。私は家族や親友以外の通知はすべて切った状態にしているため、この時間になった通知なら百パーセント親友からだと思った。そして実際にメッセージは彼女から来ていた。


「今時間空いてる?」

「うん、めちゃくちゃ暇だよ~。暇すぎて寝ようかと思ってた」

「さすがに早すぎでしょ笑」

「まあね笑 で、どうしたの?」

「あ、そうそう。特に要件とかはないんだけど声聞きたいなと思って」

「通話?全然OKだよ~」


 正直何もOKではなかった。普段の私ならあまり違和感を抱くことはなかったかもしれない。しかし日中のやりとりでモヤモヤしていた私はこの通話の誘いすら不気味だった。彼女も寂しくなったのだろう。それは理解できる。でも少なくとも今まで入院中に通話を誘ってくることはなかったし、そもそも明日にはどうせ退院できるのにそこまで寂しくなるだろうか。それに病室で夜に長電話は現実的に厳しいのではないか。あるいは短時間で済ませるつもりなのか。でも要件が無いなら短く終わるとは考えにくい。いずれにしてもメッセージ上の私の態度と現実の私の思考はほとんど一致していなかった。

 しかし色々考えたところで結局話さなければ分からないこともある。あれこれ足踏みしているうちに向こうからかかってきてしまったので心の準備ができないまま応答した。

「もしもし?」

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