第5話 黒い電車

「こいつ、ナイフを十本以上持ってるぞ!」


 後方車両には殺人鬼がいたのだ。そしてそれはこの車両に近づいてきている。一番危険から遠いところにいる俺でも徐々に危機感を持ち始めた。

「早く運転手を呼べ!」

 誰かが叫んでいた。よく考えると一番近いのは俺じゃないか。でも俺に正義の刀を振りかざす勇気は無かった。隣の人がやってくれるだろう。聞こえないふりをして目を閉じることにした。


 目を閉じてすぐ女性の金切り声が聞こえた。ついに刺されたらしい。さっき殺人鬼はナイフを十本以上持っているという声が聞こえた。一本のナイフだけなら徐々に切れ味が悪くなり、被害の範囲はたかがしれている。しかし大量のナイフがあれば話は変わってくる。


 こんな緊迫して状況で俺は危機感以上に社会への絶望を思わずにはいられなかった。

 誰も抵抗しない。皆この事態を誰かが、あるいは実物泣き何かが収拾をつけてくれることを期待し自分から動こうとはしない。一昔前なら気概のある男たちが結託して殺人鬼に立ち向かっていただろう。でも今は違う。体格の良さそうな男も、見るからに喧嘩腰な男も、もちろんその他の人たちも誰も恐怖に打ち勝てず刺されていく。これが堕落した社会の本当の恐ろしさだと思った。そして同時に行動しようとしない自分自身がここにいる全員と同じ存在にすぎないのだと認めざるを得なかった。


 車内の悲鳴は増して大きくなっていく。正直耳を塞ぎたいくらいだった。窓の外を見るとかなり遠くにいた黒い電車がもうすぐそこにいた。見間違えじゃなかったのだ。

 勢いよくすれ違う。轟音が鳴り響く。

 ――ゴーッッ……――



 最初は自分の耳に異変が起きたのかと思った。しかしそうではなかった。足で床を鳴らせばしっかり音は聞こえる。でも確かにさっきまであった音が消えた。耳を塞ぎたいほどの悲鳴の嵐が一瞬にして。車両後方。見れば殺してきそうな人物など全く見つからない。さっきまで散々俺を押し潰そうとしてきた人々はあろうことか整然と吊り革に掴まって立っている。本当に何が起きたか分からなかった。


 しかし一つ言えることは、あの黒い電車が通り過ぎた瞬間に、あのすれ違う轟音を合図にして全ての音が消えたということだ。そして気付かぬうちに人々が移動していた。壁に一人だけ寄りかかっているのが恥ずかしくなるほど静かな空間でまるで違う世界にいるようだった。


 駅に着くといつも通りの風景が広がっていて人の流れもいつも通りだった。いつも通りの帰り道を自転車で駆け家に帰った。

 後から思えば家での親の態度はいつもと違ったのかもしれない。そのことに気づけなかったのは、そもそも普段から業務的なことしか話していなかったからだった。少し冷たい印象は受けたがそれ以上に俺がいつも冷たい態度しかとっていないため特に変わった気もしなかったのだ。

 帰ったら夕食が既に用意されていて、それを温め直して食べた。親は珍しく入浴を済ませていたので好きな時間に入ることが出来た。結局その日は言葉を交わすことなく終わり、そして朝を迎えたのだった。


 朝、快速に乗った時本当に違う世界に来てしまったことを確信した。昨日まで彼氏の話をグダグダしていた女子高校生はまるでロボットかのように何も話さなかった。その友人も何も喋らない。ただ無表情で真っ直ぐ向いて止まっているだけだった。


 学校、授業が無機質であることに変わりはないが、休み時間に全員が席についている様子は明らかにおかしかった。喋るだけ喋って喧嘩ばかりするのはどこにいったのか。これはこれで居心地が悪かった。


 街中の人々をよく見ていると一人だけ孤立しているかのような気持ちに襲われた。今までは自分から好んで孤独を選んでいた。それなのに向こうから別れを突きつけられたようで少し苛ついた。普段は何の取っ掛りもなく話しかけてきたり、街中でスマホを片手にたむろしていたりするくせに、ただ楽して怠けることしか考えていないくせに。どうして俺が異物として見られなければいけないんだ。お前らどうした?感情失いでもしたのか?

 不意に口から不満がこぼれた。しかしすれ違う人は皆、少し大きく出てしまった俺の声に何も反応を示さない。むしろ「喋るな」と言っているみたいだった。

 結局何をするにも苛立ちと憂鬱とその他負の感情が伴った。昨日までの堕落した世界の方がまだよかったかもしれない。


 とにかく急いで電車に乗ろう。


 いつものように快速に乗り込んだ。昨日の車内での殺傷騒動を思い出す。あれは乗って少しした後の出来事だった。今日は殺人犯が突然出てくるというような状況はとても考えられなかった。そんな奴が現れたら誰もが落ち着き払った表情で

「何、馬鹿なことしているの?」

 とでも言いそうな冷えきった目線を向けるだろう。きっとそいつは圧倒され体が固まったような感覚になるだろう。

 今の俺はそういう状態に近い。


 あの黒い電車が全てを変えた。俺にとって変わる前も後も違和感で溢れた世界だったが、それでも明らかに変わったこの世界で俺はひとりだけ置いてけぼりにされてしまった。


 高層ビルに反射して街を茜色に染める夕陽は今日も健在だった。元の世界を少し恋しく思いながら結局何も変わらない人生を悲観し、遠くを眺めた。その時俺の目に見覚えのあるものが飛び込んできた。


 …黒い電車だ。

 あれとすれ違えばまた戻れるのか。思わず電車のドアに張り付いた。黒い電車が近づいてくる。そしてそれとすれ違う瞬間またあの轟音が訪れた。

 …ゴォォッ――


 元の世界に戻って欲しいという祈りを込めて目を閉じようとしたとき耳が壊れるくらいの人々の声が突然聞こえてきた。

 慌てて耳元に手を当てる。車内の至る所から意味の無い会話が溢れかえっていた。

 やはり世界を変えた何者かの正体は黒い電車に違いない。二度あることは三度ある。黒い電車は今後もまた現れることがあるのかもしれない。そう思うと少し楽しみでもあった。こんな感情を噛み締めるのは本当に久しぶりだ。何かこれからすごいことが起こるのではないかと謎の期待を抱いていた。


 翌日同じ快速電車に乗ったものの黒い電車は現れなかった。昨日も一昨日も黒い電車とすれ違ったのは帰りの時だったため何も問題は感じていなかったのだが、帰りの電車でもそれとすれ違うことは無かった。なんとか慌てて乗り込んだのにすれ違う電車はアルミ色を基調とした一般的なものだけだった。先頭車両ではないため遠く前方までは見えなかったが降りるまでにすれ違うことはないだろうと徐々に実感し、少し絶望した。


 それからしばらく電車に駆け込む日々が続き黒い電車のことを思う余裕がなくなっていた。電車に乗る時には息が上がり必死な顔を取り繕うことで精一杯だった。運動を辞めて久しく、以前より息が整うまでにかかる時間が明らかに増えていた。そうして荒い息のまま乗り込む時は決まってアルミ色としかすれ違わなかった。降りる時になって毎回思う。もっと早く駅に着かなければ、と。


 あれやこれやと怠ける日々の中、そろそろ本気であの黒い電車と向き合わなければならないと思うようになっていた。あの電車を認識しているのが俺だけしかいない事実に、ある種の義務感を覚えていたからでもあった。次の日の朝、支度を出来るだけ早く済ませ家を出たところ快速電車の来る十分以上前に着くことが出来た。やればできるじゃん、と惰性まみれなはずの自分に少し感心した。前に同じ方面の電車が何本か過ぎていったがいつもの快速電車に拘って待つことにした。時間に余裕があったのでついに初めて朝の先頭車両デビューを果たした。


 朝の街中も夕陽に照らされるそれとはまた違った風情を感じた。晴れて澄み渡った空と少し鋭い日光が気持ちを新鮮なものに取り替えてくれるように感じる。今まで朝は例の女子高生の世間話を聞くという車内に意識を向ける時間帯だったが、こうして外の世界に意識を向けるのも悪くないと思った。陰気な朝の脳に射し込むその光を堪えて遥か遠くを眺める。少しずつ目が慣れていくにつれあの存在に薄々気づき始めた。

 ……黒!

 やっと俺は黒い電車の規則性を解明した。全てが俺を中心に回っているかのような考えはあまり持ちたくなかったが、それしかない。


 俺が先頭車両に乗れば黒い電車は現れる。

 

 遠く離れていた黒い電車はいつのまにかもうすぐそこにいて、心の準備もできないまま大きな音を立ててすれ違った。


 ……ゴォォッ――


 そしてまた音が消えた。聞こえるのは電車と線路の接触音と三分おきに流れる車内アナウンスだけで二度目とはいえやはり一瞬のこの変化には思わずあたりを見渡してしまう。そうするとロボットになったかのような、感情を支配されたかのような人々の瞳が目に入る。こちらを見ることは決してないがこの場の全員から監視されているような心地がしてどうしても気に入らなかった。


 行き方を確立しつつあるこの静かな世界、俺はこの世界を並行世界と呼ぶことにした。実際、もとの世界と並行している世界なのか、あるいは全く別の世界なのか、もしかするとすべてが演技で作り上げられた世界なのか何もわからない。線引きが難しいがいつからか夢を見ているという可能性も捨てていなかった。でもなんとなく並行世界の響きに憧れをもっていたためそうした。


 並行世界での学校を終え帰りの電車ではまた先頭車両に乗った。するとしっかり黒い電車は現れ、大きな音とともにすれ違い次の瞬間人々の声が爆発するように復活した。


 その後も現実世界と並行世界を何度も行き来し、一瞬にして変わる人々の声量にも楽に対応することができるようになっていった。俺は一種の能力を得た気分になった。二つの世界の往来は完全に俺が起こす行動に依存しているからだ。気分が向かないときは先頭車両に乗らなければよい。そうして俺は人生に少しずつ価値を感じ始めていた。


 時には最初に並行世界の行った時と同じように事件が起きかけることもあったり、黒い電車が遠くに見えてもすれ違う前に降りる駅に着いてしまうこともあった。しかし両世界の往来を重ねていくうちにあることに気づき始めた。

 黒い電車をよく見ると毎回同じ少女の姿が見えるのだ。

 すれ違う瞬間少しだけ目が合う。むこうはずっと前から俺を見ていた様子で目を合わせると気まずそうな顔をしながら視線をそらす。そして次の瞬間には世界が切り替わる。黒い電車の中に見える人影は何故か彼女一人だけであとは全身黒の人々で埋め尽くされていた。あの子は誰なんだろう。

 日常の中に謎はまだまだ沢山潜んでいるようだ。

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