Chapter1 壱つの希望
第4話 厭世
今日もまた無機質な日常が始まろうとしている。
朝起きて、適当に朝食を済ませ、家を出たら、駅に自転車を走らせ快速列車に乗り込む。この苦とも楽ともいえない生活を二年以上続けている。車窓からの景色も散々見せられて飽きてしまった。すれ違う電車も全て覚えてしまった今、電車の中ですることはなく、それでも満員電車の中で揉まれながら目を瞑ることでこの変わり映えのない生活の意味を考えないようにしていた。隣に座る人のイヤホンからは音が漏れている。この音漏れすら思考を遮断してくれることに感謝したくなる。
「いつき、おはよー」
自分の名前を呼ばれたかと思ったら別の学校の女子だった。いつになったらそれに慣れるのだろうか、もう何回も自意識過剰を露呈させている。しかし名前を呼ばれたとしても目を開けるだけだから認識はされていないだろう。
俺の名前が男女共通で使われるものであるために混乱を招いた例は少なくない。
小学校の入学式の後、初めての教室に入った時自分の机が見当たらなかった。名簿は「あいうえお順」になっていると親に聞かされていたから、「有馬」は一か二番だろうと予想していた。なかなか見つからずほかの人たち座り終わるのを待っていると一つだけ席が残った。しかし「いつき」と書かれていた紙は女子であることを示すピンク色だった。つまり名前を見ただけで詳細まで確認しなかった担任の先生が直感的に女子と思ったのだ。
「いつき」くらい男子にいてもおかしくないだろ…
今となってはそう思ってしまうが当時の名前のトレンドはよく分からない。
先程の女子の話し声は気づけばかなり大きくなっていた。今日は随分と盛り上がっているようだ。そんな彼女らにも普段なら思考を遮断してくれる存在として感謝している。しかし時折、こうして話が盛り上がるとテーマは決まって恋愛ネタで出来事もその話し方もほとんど毎回同じである。もう一方の話の聞き方も変わらないからつまらなく思ってしまう。普段の会話の方がまだ自分の知らない世界を教えてくれるようでマシなのだが。
人は何故人を好きになるのだろうか。その先に待っているのは悲しみや苦しみしかないというのに。皆そうだ。恋愛をすれば幸せになるはずだと信じてその世界に飛び込んでいく。でも実際幸せになっているだろうか。
すぐそこの女子高生の話を聞いていれば、相手の愚痴しか出てこない。最初こそ浮かれた口調で話しているが、一ヶ月も経てば同じようにしかならない。
大人も然り、結婚すれば自分の時間は無くなるし子供がいるなら尚更お金と時間が削られていく。どうしてそうなるのだろう。皆恋愛に溺れて何も見えていない。
本当に何も、見えていない。
学校の最寄りの駅に到着し人の流れに身を任せながら改札まで歩いていく。比較的大きな駅であるために利用者が多く、少しの移動でもストレスが溜まるからただ無心になって歩くのが一番いい。
学校の授業も無機質なものにしか感じられなかった。皆やけに熱心に板書を写しているが、果たして学校の授業は為になるものと言えるのだろうか。小学生の頃は学校で色々なことを学ぶのが楽しかった。知らないことを柔らかく教えてくれる先生が好きだった。学校のカリキュラムから自分で発展させて学んでいくことも少なくなかった。
でもいつからだろう。いつからか学校の授業はつまらないものに変わっていた。自分の中でどこが転機だったか考えても全く思い当たらない。
最初はそうなってしまったことに危機感を覚えていた。しかし段々とそれは当たり前のことになっていってしまった。
やがて日常の何もかもがつまらなくなり、ついに末期なのかと思い始めたのも束の間、その危機感すら消えていった。
同時に人との関わりが減った。いや、無くなったと言っても間違えではない。親とは業務的なことでしか口を利かないし、家の外に出たら誰と話すこともない。それでも一応普通に暮らしているのだから、本当に人との関わりなんて必要ないのかもしれない。
学校では毎日暇を持て余していた。休み時間より授業時間の方がやるべきことは決まっているから楽だった。休み時間になると、他のクラスの人が来たり、自分のクラスの人がいなくなったり、やけに窓の近くに集まって喋る人がいたり、と多くの声が飛び交う。その中にはもちろん負の感情も存在していて、時にはそれらがぶつかり合うことも起きる。それを見ているとやっぱりこの社会で人間として生きていくことの不甲斐なさを感じずにはいられない。俺はいつからか変わってしまったのかもしれない。でも同時にこの社会も大きく変わってしまったと思う。今の俺が正確なものさしを持っているとは到底言えないが神様の目からみてもきっと変わったように映っているだろう。
大衆は堕落した。そしてそれをいいように利用する政治家も現れた。
一見技術の飛躍的な進歩によりありとあらゆるものが最適化され素晴らしい社会になったのかもしれない。しかし今存在する社会はきっと望まれていた姿とは異なっている。暮らしが良くなって、平和が保たれて、そして圧倒的な近代化が成し遂げられた。それなのに何かが違う。
違和感の理由は今の社会に大衆がついてこれなかったからではないかと思う。あまりにここ数年で暮らしが変わりすぎた。快適さの急激な到来により人類は総じて怠惰になってしまったのだろう。皆ほぼ一斉に堕落したから、自分たちがこのままじゃいけない。そんな意識が芽生えるよりも先に堕落した人々が圧倒的多数派となってしまった。そして気付くことなく、技術の裏に潜む闇に溺れた。彼らは自分たちを堕落した存在とも知らず、社会の運営を存在もしない誰かに任せ、単純作業を機械に押し付け、創造的活動と称して自分たちの怠惰を正当化していく。
一方でそれを利用する近代技術の開発者は一部の政治家と手を組み都合の良い政策を行ってはその懐を潤わせていった。
果たしてこの現状を客観視している者はいるのだろうか?俺が周りの異変に少しずつ気づき始めて間もない頃、この社会の堕落に警鐘を鳴らす者は少なからずいた気がする。テレビでは月に一回程度の頻度でそうした革命家が名乗りを上げ街中に必死に訴える様子が伝えられていた。しかしそれはしばらくすると消えてしまった。それが悪意のある政治家、技術者が鎮圧したからなのか、情報統制が始まったからなのかはまた別の要因なのか定かでは無い。
堕落した社会の実状をおそらく見抜いていたはずでありながら、半ば諦めて傍観していた俺は実はもう堕落した一員になってしまっていたのかもしれない。けれど、そんなことを考えたってもう仕方がないのだ。俺には何もできなかったし、今後も何もできない。
退屈な学校を終え、帰りもまた快速電車に乗る。あまりに人が多すぎたので少し歩いて先頭車両に乗り込んだ。いつも無心で電車に乗るので何両目ということを意識して乗ったりはしない。でも先頭車両に乗ったのは初めてだった。先頭車両の先端、そこはかなり景色が違っているように感じられた。横に流れていく見飽きた風景とは異なり前から流れてくるそれには迫力があった。同じものを見ているはずなのに全然違う。夕日が前方から綺麗に光を届けている。高層ビルに反射した光も相まって俺の目を茜色に染め上げているようだ。これはきっと先頭車両だけに認められた特権なのだろう。
俺はしばらく夕陽に思いを馳せながらいつもと少し違う景色を見ていた。ふと前から走ってくる真っ黒な電車が目に入った。
……あれ、こんな電車あったっけ。
普段から暇つぶしに眺めている電車の中にここまで黒で塗りたくられた不気味なものはなかった。基本的に銀をベースに各路線の色のラインが一、二本引かれているだけだし、限定車両だとしても、もう少し華やかで見栄えのするデザインがなされている。そもそも全面を黒で塗った車両は温度上昇に弱く、その他諸々の理由で絶対に運用に不利なのだ。それなのにこの車両はどうしてだろう。
あれこれ思索に耽っていると急に車内がざわついてきた。先頭車両の先端にいる俺は何も事態を把握出来ていなかったが後方車両で何かが起きているらしい。人がどんどん逃げてくる。火事でもあったのか、悲鳴も聞こえる。とにかく皆必死な形相だ。俺の居場所はせまくなってきた。人が押し寄せてくるのと同時にリュックを手に持ちスペースを確保した。
「こいつ、ナイフを十本以上持ってるぞ!」
俺は誰かが張り上げた声でようやくその状況を理解したのだった。
次の更新予定
2024年11月15日 12:00 毎日 12:00
さよならが近づく頃に 益城奏多 @canata_maskey
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