第2話 沈み込む腕

 変な感触だった。ガラスに触れているはずなのに手には何も感じない。むしろ手首のあたりに違和感を覚えた。私はしばらくその状態で固まった。そしてやっとのことで自分の手がショーケースの中にあると気づいた。慌てて手を引き抜いたが冷や汗が止まらなかった。もう一度手を伸ばす。やっぱりショーケースの中に沈んでいく。この不可解な現象を説明することは小学生にすらなっていない私には難しかったし多分成長した後でも同じだと思った。その場に留まることができなくなり、心を落ち着かせるために店内を歩き回った。

 今までは新色絵の具コーナーしか見ていなかったが、よく見るとこの店は本当に広い。"絵の具の聖地"とも呼ばれるが筆・紙・キャンパスにおいても品揃えは他より秀でている気がする。しかもこの店には二階がある。名の知れた画家ではないが美しい風景画から私の感性には理解し難い抽象的なものまで、中には立体造形もあり、数多くの芸術作品が展示されていた。一通り店内を見て回り天ノ川色のことはすっかり忘れていた、はずだったが全く頭から離れない。やっぱり好きなんだ、あの色……。

 一階に戻って再びショーケースを見つめる。ふとよくない考えが頭を過ぎった。今は店に他のお客さんはいない。店主も奥に入っていったきりしばらく戻ってきていない。何のお詫びにもならないだろうが、持っているお金を全てショーケースの上に置き、ガラスに手を伸ばした。何とも言えないガラスの感触が指先から手首、腕へと移っていく。そして手が絵の具に触れた。夢の世界の一端で私は今いけないことをしている。幼いなりに罪悪感もあった。それでも……。

 ここは私の憧れの場所じゃなかったのか、こんなことをして許されるのだろうか、腕をショーケースに突っ込んだままどんどん時間は経っていく。一回掴んだ時にもう取ってしまえばよかった。そうすればこの葛藤から解放されるのに。でもその一歩を踏み出せばこの夢の世界に二度と立ち入ることができなくなるのも分かっている。だからずっとこうしているのだ。


 私は意を決した。手のひらで絵の具を包み、そしてその手をショーケースから引き抜いた。その時の事だった。店の入口の扉が開いて取り付けられている鈴が軽く音を立てた。

「いらっしゃーい」

 奥からゆったりとした店主の声が聞こえた。足音も近づいてくる。私はどうすることもできなかった。天ノ川色の絵の具を握る左手は震えが止まらない。足も震えてきて次第に立つことさえ難しくなった。何をしてしまったのだろう、私は……。

 私はこんなことをしたかった訳じゃないのに、私は……。

 

「楓?」

 聞き慣れた母の声に全身の力が抜けた。私は床に膝をついてそのまま崩れてしまった。その後私はかなり強く叱りを受け、店主にも母と二人で謝罪をし、話し合った結果母が残りの金額を払い天ノ川色の絵の具を買うことになったそうだ。その時の店主の顔には驚きが見え隠れしていたが、絵の具への熱意に賞賛することもあった、らしい。というのも全て後日母から聞いた話で実は床に崩れ落ちた直後からの記憶がない。気付いたら家のリビングに寝転がっていて左手に少しの違和感が残っているだけだった。


 あれから私は何度か壁やガラスの向こう側に手を伸ばそうと試みた。しかし毎回貫通するわけではなく、むしろぶつかることの方が多かった。特に何も考えず適当に伸ばした時は向こう側には絶対届かない。

 どうしてあの時はショーケースの中に手が入ったのか。この現象に何も理解がないまま私は左手を持て余していた。時には友達の前で披露しようとしたこともあったが、未だ人前で貫通したことはない。自分一人でこの秘密を留めておくのは少し不安だった。


 ある日、ついに人前でそれを見せる時が来た。マジックができるという口実のもと大人数の前でガラス瓶に手を入れるという演出を披露することになった。

 私の保育園では時々全員が一言スピーチを行う機会がある。不定期だが今回のテーマは"自分の特技"だった。元気な男の子はベルトを持って自慢げに変身したりしていた。

「特技は無いですが、これから頑張って見つけていきたいです。」

 などという未就学児にしてはずいぶん大人な避け方をしている女の子がいたりもした。


 ついに回ってきた私の番。少し重さのある金魚鉢大のガラス瓶をみんなの前に置く。物珍しげに眺めるともだちと不安げに見守る先生。記録用に回していたビデオカメラを持つ手がほんの少し震えているように見えた。


 私は何も言葉を考えていなかった。無造作に腕を引き、ガラスに向かって精一杯拳を突き出す。ように他の人には見えただろう。そしてその後起こるに違いないガラスの粉砕を想像しただろう。それぞれが目を閉じ、耳を塞ぎ、悲鳴を上げた。空手の技をガラスにぶつけるな、と。特技の見せ方を間違えているぞ、と言う暇なく先生もただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。


 そんな中で私はひたすら祈った。痛い思いはしたくない。

 ……私の腕、どうかガラスを貫きますように……!

 その場の誰もが目を開けられなかった。勿論私もだ。


 ……


 音の無い五秒間が過ぎ去った。さっき変身していた男の子がその沈黙を破る。

「皆!か、楓の腕……!」

 私はそれを聞いてとっさに目を開けた。

「私の腕が……、やったー!」

 ついに証明できた。物を貫く腕のことを。しばらく私を拒み続けた壁がやっと認めてくれたのだと思った。一人騒ぎ立てる私に疑問を抱きながらも触発され部屋全体が歓喜で満たされた。

「すごいね、楓。前言ってたことって本当だったんだ」

 変な子だと思われ続けるのは辛かったから見てもらえてよかった。


 先生が慌てて近寄ってくる。

「楓さん、怪我は無い?おかあさん呼ぼうか?」

「全然大丈夫です!」

「でもその腕…ひょっとして抜けないんじゃ……」

 そう言われて、まだ腕を引き抜いていないことに気づいた。でも何も心配することはない。入れた腕がガラスと一緒に固まってしまうなんてそこまで現実から離れたことは起きない。

「ほら先生、楓は大丈夫!」

 こうして人生初のマジックショー(?)は幕を閉じた。

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