さよならが近づく頃に
益城奏多
Chapter0 届かぬ天ノ川
第1話 憧れの場所
僅かなお小遣いを左手に握りしめて賑やかな商店街を駆ける。さっきまで一緒に歩いていた母は、心が浮つく私を制止するのを諦め、追いかける様子もない。徐々に離れていく母と対照に私の憧れの世界はもうすぐそばまで近づいていた。早くあの店に入りたい。そしてその中に流れる悠久の時間に浸っていたい。いつもは届くことのないその世界の入口に今日は届くかもしれない。私はひたすら歩調を早めていった。
店の入口に立った時ようやく自分の息が大きく弾んでいることに気づいた。商店街から脇道に逸れてさらに奥に進むと突然現れる憧れの世界、最近はほぼ毎日通っている。そこは数多くの種類の絵の具が取り揃えられており、他には絶対に作り出せない神秘的な色が売りの総合画材屋だ。その立地条件のせいかあまり知られていないが、知る人ぞ知る謂わば"絵の具の聖地"のような場所なのだ。
今月も新しい色が入荷した。
その名も"天ノ川色"。
名前だけを聞くと想像しにくい色だが、一目見るとまさに"天ノ川色"という名前にぴったりの色に思えてくる。深い青が一面に広がる空に白や赤、黄などの星々が浮かんでいて、でも景色だけでなく織姫と彦星の切ない恋慕も色に抽出したような、そんな色だ。私はこの色に今まで入荷された新色とは何か違うものを感じた。運命の色と言えば言い過ぎかもしれないが、どうしてもこの色を手に入れなければいけない。そして何か壮大なストーリーを紡ぎ上げて絵に描かなければいけない。という気持ちが沸き起こってきた。
しかし現実はそう甘くなかった。保育園に通う私にもちろん定期的なお小遣いなどない。加えて新色は値が張るのだ。しかもあまり知られていないとはいえ、"絵の具の聖地"だ。新色目当てにかなりの人が訪れる。店に行くたびに少しずつ在庫が無くなっていった。そしてやっとのことで母を説得し少しのお小遣いをもらった。天ノ川色の絵の具は残っているのだろうか。期待と不安を募らせてついに店の前まで来た。錆びた鉄の取っ手に手をかける。ひんやりとした感触を噛み締めながら夢の世界の扉を開け、か弱い一歩を踏み出す。
「いらっしゃい、今日も来たのね。」
その店主の声は相変わらず暖かった。一気に緊張感が解ける。
「あの、天ノ川色の絵の具って……」
「今月の新色ね。こっち来て。」
店主はおそるおそる尋ねた私の言わんとすることをそれが言い終わる前に理解し、売り場に案内してくれた。流石に何日も来ていると顔を覚えてもらえたらしい。私は軽く会釈するだけで何も言わずに店主の後についていった。
「あら、あと一つしかないみたい。」
そう言って店内を見渡す店主。
「まだ早いから他のお客さんいないけど、どうする?今なら好きに買えるよ」
「いくらですか」
そういえば手に握りしめた金額を細かく計算していなかった。
「それがいつもの月だと千五百円くらいなんだけど、今回は頑張って作ったみたいで千八百円にちょっと値上がってるの。」
「プラス消費税ね」
店主はそう付け加えた。左手には千円札一枚と五百円玉一枚を認めたがあとの硬貨は店主に数えてもらうことにした。
「これで足りますか」
持っていたお金を全て受け皿に置いて不足がないことを祈った。一円玉が沢山あったのかもしれない、少し会計に時間がかかっている。それも何回かやり直しているようだ。
仕方なくレジの横の歴代の新色を眺めた。"地球色、ピザ色、……"。やはり独特な名前の色が並んでいる。しかしその中に"天ノ川色"を超える色は無かった。三年ほど前から続いているというこの今月の新色コーナー、毎月新しい色を創り出すのはかなり大変に思われるが、今まで途切れず続いている。時々その季節に合った色が発売され、天ノ川色もその一つだ。季節モノは特に気合いが入っているらしく今回のように値上がることもしばしばある。
「ごめんね。あと百五十円ちょっと足りないの」
店主はお金を私の手に戻して握らせた。それを聞いた私は思わず涙を流しそうになってしまった。明日になったらもう他の人が買ってしまうだろう。そうなればこの運命の色との出会いは儚く終わってしまうかもしれない。店内の展示用として一つ残されているはずだが、実質的にはもう二度と生産されない色なのだ。不幸にも母は今商店街で私を探しているだろう。この店を見つけられるはずがない。考えれば考えるほど悲しくなった。天ノ川色の絵の具が一つ残るショーケースの前に立ち尽くす私をそっとしておこうと思ってくれたのか、店主はレジを離れ店の奥に消えていった。
今日も届かなかった……。
あと少しなのに届かない、私と絵の具を隔てるショーケースのガラスは限りなく分厚いように感じた。それでも諦めきれずショーケースに手を伸ばした。
と、その瞬間。
えっ?……。
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