ぐよぐよねこはとけるよ

花森ちと

ミイは窓のなか


 外では雨が降っていた。雨というものはどこかシャワーに似ている、らしい。シャワーはきらい。おかあさんがあたしをお風呂に入れるとき、ひどく大きな音を立ててはずぶ濡れにしてくるから。雨音のせいでシャワーを思い出したあたしは身を丸める。いま、おかあさんは出かけているから、お風呂に入れられることはないけれど。

 庭に植わったひまわりが雨で重くなった頭を垂れている。室内にいるあたしは雨に濡れることはない。家のなかは安全。飢えることも、暑さに倒れることもない。家のなかは安全。あたしは一度も外へ出たことはなかった。

 

 あたしがこの家へ来た日は、気が付くとずっと昔になっていた。それまではペットショップという場所にいた。そこでの記憶は断片的になってしまったけれど、やかましい音楽と、「ぐよぐよねこ」の話は覚えている。

 ぐよぐよねこはとけるよ。そんな噂を教えてくれたのはサイベリアンの先輩だった。彼は売れ残りだったから、あたしたち仔猫より何倍も体が大きかった。

 金曜日の真夜中、ペットショップのねこたちは集会を開くしきたりがあった。それは買われたねこを確認するという目的のもと開かれていた。だけど、大抵のねこは情報共有よりも息抜きをするためだけに、ケージから抜け出しては集会に顔を出していた。つめたい箱に囚われたネコたちは、この夜ばかりは「ねこ」として自由を生きることができたのだ。

 ある春の夜の集会でのこと。先輩は新入りたちを集めては、まるで自らがねこのリーダーであるかのようにふんぞり返り、ねこの掟を教えていた。

「――それじゃあ、これまで話したことの振り返りをしよう。そこの白くてちいさいお前、今まで話したこと三つを言ってごらん」

 このとき先輩が指名した「白くてちいさいお前」というのはあたしの妹で、この子はペットショップで死んでしまった。たった四か月しか生きていなかったというのに。

 妹は死の影を感じさせない、元気な声で朗らかに答えた。

「ひとつめ。ねこたるもの、みだしなみをいつもきれいに。ふたつめ。めがあったときは、おおきくまばたきする。みっつめ。ねこのとむらいはほおをかじる」

「そうそう。四つ目は?」

「よっつめなんて、おそわってないわ」

「本当かい。四つ目は?」

「だから、おそわってないといったじゃない」

 しばらくして、ふてくされた妹は自分の寝床へ帰ってしまった。

「フン。若いねこはああやって、すぐに現実から目を背けるんだ」

 先輩はニヤニヤ嫌な笑みを浮かべると、恍惚とした卑しい目つきで続けた。

「四つ目は『ぐよぐよねこ』についての話だ。もう知っているかと思ったけれど、どうやら知らないようだね。きみたちは世間知らずにも程があるよ。ぐよぐよねこ、というのはね、僕らねこにとっての希望なんだ。それに出会ったら、僕たちは生まれ変わるんだよ。どうして生まれ変わることができるのか。それは誰にもわからない。ただ、ぐよぐよねこは溶けるらしい。それも、どうしてなのかはわからない。でも僕たちはどうして生まれてきたのか、きみたちはきっとわからないだろう? きっとぐよぐよねこの話もそんな類のものなのさ。……そんなことはきっとないだろうが――もしもきみたちが僕より先に売れて、大きなねこの家で暮らし始めても、ぐよぐよねこのことは忘れないでいてほしい。ねことしての常識だからね」

 彼が得意げに説教を垂れている間、あたしの腹は煮えくり返っていた。世間知らずにも程がある。たしかに仔猫だったあたしたちは何も知らなかった。だけど、売れ残りでペットショップしか知らない先輩も、世間知らずと言えるじゃない。

 ぐよぐよねこについての記憶はここまで。

 妹はあの集会のあとに死んでしまった。あたしたちがいたペットショップでは、掟のとおり、ねこの弔いは頬を齧ることだった。妹の頬は、大人の頬よりもずっとやわかったことが辛かった。

 あれから何年も経ったけれど、ぐよぐよねこについての新しい情報は得られていない。ただ、これだけは言える。あたしはもう世間知らずの仔猫じゃない。少なくとも先輩よりは。なぜならあたしがおかあさんに買われたときも、先輩はまだ売れ残っていたから。


 おかあさんがあたしを買ったのは、旦那さんが亡くなったからだったらしい。あたしがこの家に来る日まで、おかあさんはたった独りで悲しみに暮れていたのだ。べつに、おかあさんの家族はあたしだけという訳ではなかった。娘がいた。だけど、おかあさんの娘は何十年も前に家を出て、結婚して家庭を持ち、今は大学生の息子がいるらしい。

 あたしはおかあさんの娘を「おばさん」と呼んでいる。あんなに老けた人と姉妹だなんて、まだ若い身空のあたしには許せなかったから。

 おばさんは一年に一回しか顔を出さない。おかあさんはいつも寂しそう。おかあさんはあたしを「ミイ」と呼んでは可愛がってくれる。一見、おかあさんは寂しくなさそうだった。だけど、おかあさんが言葉を他人と交わすのは、おばさんが遊びに来る日だけとなってしまったらしい。あたしが大きいねこの言葉を話せたらいいのに。


 雨音はクレッシェンドをかけたように、次第に大きくなっていく。

 あたしは更に丸くなる。大きな音がこわいのだ。いつも不安になると、あたしはおかあさんに擦り寄っていた。だけど、おかあさんはなかなか帰ってこない。あたしを独りぼっちにしたまま、ずっと外出している。おかあさんが帰ってくると、いつも決まって玄関の扉が開く音がする。あたしはずっとその音を待っている。だけど、いくら待っても音はしない。こんなに長く外出していたことはあったかしら。おかあさんったら、あたしを忘れてしまったの? そもそも、おかあさんが出かけたとき、扉が開く音はしていたっけ。

 もし、おかあさんが帰らなかったとしたら。あたしはこの世で独りぼっちになってしまう。あたしの背筋は途端に冷えていく。あたしは独りで生きていくことができない。おかあさん無しで生活していくなんて考えられない。それに、ノラネコになんてなりたくない。ノラネコというのは下品で卑劣な生きものだ。そんなねこにはなりたくない。


「ノラねこになりたくないだって? それはそれは失礼な話だな、お嬢ちゃん。おれだってアンタみたいな飼い猫にはなりたくないよ」

 気が付くと、窓の向こう側にトラ柄の猫がいた。彼は冷ややかな目つきで、あたしをじっと睨みつけている。

「ええ、なりたくないわ。ノラネコなんて野蛮で品のないねこにはなりたくないの」

「ノラねこにも上品なねこはいるのにな。きみは何も知らないね」

「いいえ、あたしは世間知らずじゃないわ。それなら、あなたはねこの掟を知っているの?」

「もちろん知っているとも。ぐよぐよねこのこともね。それじゃあ、きみはぐよぐよねこは何なのか知っているのかい」

「……知らないわ」

「だと思ったよ。ひとつ教えると、ぐよぐよねこは人間だ。きみたちの言う、大きいねこのことだね。きみのおかあさんってヤツも人間なんだよ」

「おかあさんは、ぐよぐよねこなの?」

「それは確認してみないとわからないな。――試しに、浴室へ行ってごらん。そこにたどり着いたらおれを呼んでくれ。おれの名前はトラだ」

「わかったわ。あたしはミイよ」

 トラはあたしの目をみて大きく瞬きすると、雨の中に消えていった。


 浴室はあたしの嫌いな場所だった。なぜならおかあさんがあたしをお風呂に入れる場所だから。それでも、誰も知らないぐよぐよねこの正体を知ってみたかったのだ。


 雨音の響く廊下を進んでいると、どこかで嗅いだにおいがした。身の毛がよだつにおい。このにおいを嗅いだのは、ずっと昔のこと。それに気が付いたとき、浴室へ向かう脚が震えていくのを感じた。このにおいを嗅いだのは、まだあたしがペットショップにいたとき。妹が死んだときにあたしはこの死臭を嗅いだのだ。

 引き返そうと思った。浴室へたどり着いてしまったら、あたしは見たくないものをみてしまうから。だけど、おかあさんのことが心配だった。震える体をなだめては、死臭の方へ進んでいった。



「そうだよ。これがぐよぐよねこだ。死んだ生きものは、魂の輪郭がおぼろげになる。ぐよぐよになるんだよ。きみもおれも、死ぬときはいずれこうなるんだ」

 目の前には地獄が広がっていた。浴槽に横たわるおかあさん。輪郭の溶けたおかあさん。その姿は毒リンゴに冒された白雪姫のようだった。だけど、王子さまがキスをしたって目覚めることはない。おかあさんは死んでいるから。

「きみはこれからどう生きる?」

 すりガラスの向こうに、トラの輪郭がみえる。トラの瞳はみえないけれど、彼はじっとあたしを見定めているのがわかった。

「これからどうしろっていうの」

「外の世界で生きるんだよ」


 外では雨が降っていた。

 雨というのはどこかシャワーに似ている。だけど、体を濡らす雨粒は、シャワーのように温かくはなかった。おかあさんがあたしをお風呂にいれてくれたことを思い出した。おかあさん。もう二度と会えない。だけど、おかあさんはあたしのなかで生きている。

 家を出る前に、あたしはおかあさんの頬を齧った。やさしくキスをするように。肉を飲み込んだ瞬間、おかあさんの血があたしのなかに溶けていくのを感じた。人間を食べたこと。それは人間界との別れであった。あたしはこれから外の世界で生きていくんだ。

 ぐよぐよねこはとけたよ。あたしのなかに。

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ぐよぐよねこはとけるよ 花森ちと @kukka_woods

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