1部1章 無力の戦場4
「ぐうっ」
左手の小指に激痛が走り、闘司は顔を歪め、本能的な呻き声をあげた。
痛みによって、危機感というものが刺激されたのか、頭は冷静さを取り戻す。
敵だ。
左手の小指のこれは、邪使の攻撃だ!
身を守るために、小指から邪使のソレを剥がそうと、思い切り左手を引く。
「ぐあっ」
先ほどよりも激しい痛みが小指を襲い、堪らず鈍い悲鳴が出た。
痛みに、涙が滲む。
痛みは刻々と強くなっていく。
無数の針に何度も何度も突き刺されているかのような痛みと、硝酸などの劇薬に触れたときの火傷のような痛みだ。
くらくらと、
潤み、歪んだ視界の中、左手小指を襲っていた邪使のエノキ茸みたいなものは、いつの間にか本数が一本から三本に増えていて、第二関節あたりにまで巻きついている。
痛い。
日頃から厳しい訓練に明け暮れていて、隊員以外の普通の人たちと比べたら、どんな痛みにも耐久力があるはずだけれど、それでも痛いものは痛い。
神経系に異常が起きているのか、左手はもうまったく動かせなかった。
自分の身体の一部ではなくなってしまったかのようだ。
「クソ、イテェな! クソヤローがっっっ!」
アサルトライフルから離した右手で、腰に横向きに装備しているマチェットを勢いよく抜き取り、抜き取った勢いそのままに思い切り振り被る。
左手だけに向けていた視線を、ここで初めて、上に向けた。
敵の全容は、エノキ茸のような触手と小さな口の塊、みたいな存在だった。
球体のボディに子供の掌サイズの口が無数にあって。
その無数の口から、大量のエノキ茸のような触手が生えている。
その大量のエノキ茸触手の先端は、それぞれが、か細い指のように分裂していて。
うねうねと、蠢いている。
うねうね、うねうね、うねうね、と。
生理的に受け付けられない風貌だ。
邪使なんて、どんなヤツでも、人類にとっては嫌悪の対象でしかない。
それでも、コイツに対する嫌悪感は、度し難いものだ。
その度し難さのせいか、闘司は怯んでしまう。
ひと際強く、経験したことのないほどの激烈な痛みが襲ったのは、そのときだった。
「がああああああああああっっっ!」
腹の底からの絶叫。
意識して出そうとしてもなかなか出すことのできないほどの叫び声。
涙がとめどなく溢れてくる。
息は熱く、荒い。
頭の芯が痺れ、全身が細かく震える。
何が起きたのかと、水没したような視界で探り、すぐにわかった。
小指がなくなっていた。
左手の小指が、グローブごと千切られ、失われていた。
奪われた小指は、赤黒い触手に絡めとられ、宙を右に左にと泳いでいる。
「う、あ、ごほっごほっ」
吐き気で、むせる。
マチェットを振り被っていた右手が、脳がそうしろと命令を出したわけでもないのに、だらりと垂れてしまう。
カァンという、鋼鉄の刃が道路を打った音。
壮絶な虚脱感に襲われ、思考回路が機能停止状態に陥っていく。
脳の重みを支えられず、首が縮んだかのように、頭が前のめりに沈む。
ぴくん、ぴくん、と脈打つ左手。
小指があった場所から、真っ赤な鮮血が流れていく。
――ボオ、ボボボ、ボォォォォォン。
邪使の触手がゆらゆらと揺れながら伸び、闘司の顎を撫でる。
冷たい。
恐ろしく、冷たい。
人に触れられているのとは、まるで違う。
顎を下から押され、顔を持ち上げられる。
邪使の姿が、また視界に入る。
目はない。
口と、牙と、触手ばかり。
なのに、目が合っているような感覚があった。
千切られた小指が、球体ボディのちょうど真ん中にある口へと運ばれていく。
指先が、無数のギザギザ歯に咥えられた。
食べられていく。
ウサギが短冊切りにしたニンジンを齧るように。
……っざけやがって。ふざけっ、やがって!
顔を持ち上げられたのは、捕食するところを見せつけるためだったのか。
ナメられている。
コイツは、典型的な、人間を玩具にするタイプだ。
腹立たしい。
こんなにもムカつくことはない。
痛みによって抑えつけられていた怒りが、一気に膨れ上がり、脳内のあらゆる感情を抑え込み、身体を動かすための主導権を得た。
奥歯を噛み締め、フーフーと歯の隙間から熱く荒い息を吐きつつ、マチェットを今出せる力の限りを尽くして握り、思い切り振り被る。
――ボッホォォォォォン。
しかし、振り下ろすことはできなかった。
右手首に巻きついている、数本の触手。
それらが、闘司の一撃を封じてしまったのだ。
力む、闘司。顔が赤く染まっていく。
それでも、右手はビクともしない。
それでも、力は緩めない。
緩めてたまるか。
わかっている。
無駄だってことは。
マチェットなんか使っても。
どれほど勢いよく振るっても。
使い手がマチェットの達人だとしても。
弾丸と同じで、傷一つ与えることはできない。
それでも、やる。
意地だ。
まだ生きている限り、自分は戦うという意地だ。
――ボホッ、ボホホッ、ボォォォォォン、ボォォォォォン。
小指が完全に食べられた。
――ボッホ、ボホホボォォォン。
無数にある口がもう何回目かという鳴き声をあげたかと思えば、闘司の右手首に巻きついている触手がぐんぐんと上に上に伸び始めた。
右手が持ち上げられていく。
右脇が伸び、力が入れにくくなっていく。
次第に握力が弱まっていって、やがてマチェットを放してしまう。
刃が道路を打った金属音が響く。
右横腹が限界まで伸ばされていく。
腰が浮いていく。
両膝が伸びていく。
やがて――全身が地面から離れてしまった。
右手と反して垂れ下がったままの左手から落ちる、真っ赤な血。
それを触手が、道路で弾ける前に、シャア、シャアと掬い取っては、口のどれかに運ぶ。チュウチュウといった音は聞こえてこないけれど、染み込んだものをしゃぶり尽くそうとしているかのような動きに、邪使がもつ無限大の飢えや渇きが表れていた。
――ギュガア! ギュヒヒ! ギュガガガガア!
闘司の背後で、最初に接敵したスライムのような邪使が、醜く喚いている。
――ボホオ! ボォ! ボォ! ボホホホホォォォォォン!
触手邪使の激しい鳴き声は、言い返しているものなのだろうか。邪使の間にも、人と人がするようなコミュニケーションがあるようだから、状況から見てそうなのだろう。
※
チッと、闘司は舌打ちする。
……オレは、このまま、殺されてしまうのか。
……あの子は、無事なのか。
……諦めるな。あの子は無事だ。殺されてたまるものか。
何か武器をと、ポーチを探るべく、触覚が鈍くなっている左手に力を入れる。
――ボォォォォォン。
動きを察知したようで、勢いよく伸びてきた触手が、闘司の左手首に容赦なく巻きつく。さらに、触手は伸びてきて、両足をひとまとめに拘束した。足は膝がくっ付くほど窮屈に縛られてしまい、バタつかせることもできなくなる。
完全に自由を奪ってきた。
とうとう殺しにかかってきたのだと、闘司は本能的に察する。
――ギュガガガ! ギュヒィィィィイ!
スライム型邪使の、先ほど以上の熱のこもった喚(わめ)き声。
そういうことかと、闘司は思い至る。
その人間は自分の獲物だぞ、とでも言っているのだろう。
あの一体目からすれば、この触手邪使さえ現れなければ、二人の人間を捕食できるはずだったのだから。
……クソ。結局、ダメなのか。
どうしもようなく暗いものが、感情を侵し始める。
……魔眼が、魔眼神器がない自分には、誰も守れないのか。
諦めが、じわじわと、身体の内側に広がっていく。
……このまま、ここで、こんなところで、死んでしまうのか。
自分の存在意義の、核というか柱というか、大事なものが錆びていく。
――リィィィィィン
ふと、澄んだ音色が、耳に飛び込んできた。
――ボ、ボッ、ボォ、ボボ。
邪使の様子が、おかしくなる。
蠢いていた無数の触手も、ピタリと、固まっている。
つい今の今まで一本一本が常に上下左右に揺れていたことを思うと、その停止はあまりにも不自然なものだった。
まるで、無理矢理、何かの力によって拘束されているかのように。
それに、今の鳴き声も変だ。
辛そうで、苦しそうなものだったじゃないか?
……辛そう? 苦しそう?
そんなことを思って、そんなことを思ったことに、闘司は声なく笑う。
胸の内に広がっていた諦念に、光りの筋が射し込む。
邪使に対し、辛そうだとか、苦しそうだとか、そんな反応をさせられるものは、この世に一つしかない。
魔眼の力だ。
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