夕食時の出来事

 モンブラン雑貨店を後にしたアランは食材をしこたま買い込み、屋敷に戻った。そしてクロエと共に大急ぎで夕食の準備に取り掛かる。


 普段は3人分…アランとクロエ、そしてシャーロットの分を用意すれば事足りるので、食事の準備はクロエ1人に任せてある。


 しかし今日からは夫人とアリシア、それに加えて2人に付いてきた使用人の分も含め10人分以上用意しなくてはならない。とてもクロエ1人だけでは手が足りないのだ。


 夫人は特段の事情のない限り、19時ピッタリに夕食の用意が出来ていないと腹が減って飢えた豚のように癇癪を起こす。それまでに彼女の満足する量の食事を用意せねばならぬ。時間との戦いだった。


 ちなみに…夫人に付いてきた使用人たちは皆上級の使用人なので、炊事などの下級使用人の仕事は手伝わない。もちろん洗濯や掃除もそうだ。彼女たちは夫人とアリシアに付き従い、身の回りの世話のみをやる。


「アラン君、お皿用意して!」「クロエ、スープ沸騰してる!」「わわっ! 火を弱めないと!」「皿の準備はOKだ!」「ごめーん! 次お肉切ってくれる?」


 2人はバタバタと厨房で動き回る。目が回るような忙しさだ。


 2人が目まぐるしく動き回っていると、突然「キィ」という音がして厨房の扉が少し開いた。アランとクロエはこの忙しいのに何事かとそちらに目を向ける。


 扉の隙間から藍色の髪と紅色の可憐な瞳が覗いていた。アリシアだ。


「アリシア様、どうなされました?」


 忙しいが、無視するわけにはいかないのでアランは一旦作業を中断してアリシアの元へ駆け寄った。


「2人とも忙しそうだから…何か、手伝えることはないかしら?」


 なんとこの貴族令嬢は仕事を手伝おうとして来てくれたらしい。あの親からよくもこんな優しい娘が生まれたものだとアランは生命の神秘に少し感動した。


 しかし貴族に使用人の仕事を手伝わせるわけにはいかない。そんな事をすれば使用人失格だ。


「アリシア様がそのような事をなさる必要はございません。どうかお気になされず、夕食の時間までごゆるりとお待ちください」


「そう…。アランの役に立ちたかったのに…」


 アランが断ると、アリシアは少しションボリした顔をして厨房から去って行った。その様子を見ていたクロエがジト目で彼を睨む。


「…アラン君、昔からアリシア様にいやに懐かれてるよねぇ」


「…夕食の準備の続きをしよう。早くしないと夫人が怒るぞ」


 クロエが冷やかしてきたが、アランはそれをスルーした。



○○〇



「どんな料理を出されるかと思ったけど、中々イケるじゃない」


「とても美味しいわ。ありがとうアラン」


「ありがとうございます」


 夕食時、屋敷の食堂にて夫人は本日の夕食を貪り食っていた。アリシアもその小さい口で品よく食事を口に運んでいる。どうやら2人のお気に召していただけたようだ。


 シャーロットはここにはいない。「あのクソババアと一緒に食事を取ると気分が悪くなるわ」と言って自分の部屋で食事を取っている。そちらにはクロエが付いていた。


「グビッグビッ…。プファー!」


 夫人がグラスに入っていたワインを一気に飲み干す。アランはすかさず空になったグラスにワインを補充した。


「あ、そうそうアラン。私たち明日王都観光するから名所を案内しなさいよ」


 夫人は酒を飲み、赤くなった顔でアランにそう命令した。


 基本的にアランはシャーロットの専属執事なので彼女の近くにいる事を優先するべきである。しかし夫人の命令を断れば、シャーロットにネチネチが飛ぶ事になってしまう。


 アランは心の中で舌打ちをした。


 ブルースの浮気調査もせねばならぬのに、明日もこの豚の世話をさせられたのでは時間がいくらあっても足りない。


 アランはなんとかシャーロットにネチネチが行かない方向で穏便に断る方法は無いかと考えを巡らせた。


 そして閃いた。断るのではなく、夫人に王都観光自体を止めさせればいいではないかと。都合の良い事件が今起こっている。


「奥様、最近国内で人がいきなり発狂するという物騒な事件が起こっているのはご存じでしょうか? 特に王都はその発生件数が多く、外出するのは危険だと考えられます。私は奥様とアリシア様の身の安全を考慮し、観光はこの事件が解決し、また次回王都にいらっしゃった時にされた方が良いと提案いたします」


 夫人は家の中でこそ態度がデカいが、根は臆病者だ。自分が危険な目に会うかもしれない場所にわざわざ出向くような真似はしないはず。特に彼女の大事なアリシアも一緒とあればなおさらだ。


 こう提案すれば、彼女は恐れを抱いて王都観光を止めるだろうと予測しての事だった。


「そういえば新聞にそんなの載ってたわねぇ。マドレーヌ領は平和そのものだから忘れていたわ。確かに私の大事なアリシアに何かあったら事だし…王都観光は止めておこうかしら」


「それがよろしいかと存じます」


 夫人は狙い通り、王都観光をとりやめた。


 アランは心の中で上手くいったとほくそ笑む。ついでにそのまま領地に帰ってしまえばいいのにとも思った。


「じゃあ明日はフィナンシェ公爵家別邸を訪ねるだけにしようかしら? こっちは絶対行かなきゃダメだから案内お願いね」


「フィナンシェ公爵家別邸…でございますか?」


「そうよ。王都に来たんだからあの子の婚約者であるブルース様に挨拶しておかなきゃ失礼でしょ?」


 どうして夫人が突然王都にやってきたのか疑問だったが、なるほどこれで理解した。


 おそらく彼女は当主ラッセルに請われ、領地を離れられない彼の代わりにブルースとシャーロットの婚約を是非とも維持して貰えるよう念押しに来たのだ。


 何とも必死な。シャーロットの婚約者が浮気するような人間と知っても、それでも婚約を維持したいか、それほど中央政界に出たいかと。


 アランのはらわたは静かに煮えたぎった。だがグッとそれをこらえた。


 同時にこれは不味い事になったと焦る。


 ブルースはこちらが彼の浮気を把握しているとまだ知らない。


 もし夫人が彼の浮気の件を口に出してしまえば…浮気の証拠である手紙などを処分される可能性がある。そうなれば物的な証拠を押さえるのが難しくなってしまうだろう。


 それは絶対に避けなければならなかった。


 アランは急いで夫人に口止めをする。


「聡明な奥様ならお分かりだとは思いますが…ブルース様の浮気の件はくれぐれも口には出さぬようにお願いいたします。向こうもそれを聞いて良い気はしないと思われますので」


 なんとしても公爵家との婚約を維持したい彼女たちからすれば、向こうの機嫌を損ねるような事は絶対にしたくないだろう。こう言えば、彼女は絶対に浮気の件を口にしないはずだ。


「それくらい分かってるわよ。私を誰だと思っているの?」


 アランはそれを聞いてひとまず胸をなでおろした。後は夫人がうっかり口が滑らせない事を祈るばかり。


 ついでに明日公爵家別邸に訪れた際、その構造を下調べしようとも考えていた。



◇◇◇

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