『夜明けに発つ』12/1:文学フリマ東京39
丹路槇
夜明けに発つ(サンプル)
七月七日(木)
バイブレーション静かなの振動が聞こえる。スマホが置かれた畳の上でカタカタと揺れる音はアカモズの地鳴きに似ていた。百舌鳥より細身だが同じように肉食で早贄の習性がある。赤茶の躯体からギチチチと出される濁音を端末からの報せに重ねるとすぐに目が冴えて、自然と体が起き上がった。黒い画面に表示される未登録の市外局番を見て、そうか今日なのか、とぼんやり思う。
通話ボタンをタップしてスマホを耳に押し当て、「はい、もしもし」と応答した。
「急なお電話すみません。浅倉紀子さんのご家族の方でしょうか」
浅倉は最近の紀子さんの苗字で、俺はその姓を使ったことがない。純粋に聞き心地が慣れないから誰においても彼女を錫白紀子と呼んでほしいと今でも思うが、アルバンの紀子さんが「入籍できて本当に良かったのよ」と言っていたので、胸につかえる感覚は自分の腹の中にしまっておいている。
「はい、息子の黎です」
「黎さん、県央第二病院の看護師の小峰です。一昨日からこちらへ紀子さんが入院しているのですが」
「ええ」
「先ほど、呼吸が止まっているのを確認しました」
そう告げられ、今時は亡くなっているとかご臨終とか言わないのだな、と眉を顰めた。呼吸は止まっているが蘇生のための処置が続いているとか、または家族の意思確認のために火急の連絡を取っているとは考えづらい。オブラートに包まれた言葉だ、つまり心肺が停止した事実を察してくれと言われていることを理解する。口調は自然と仕事で使う硬度に整えられた。
「そうですか、分かりました」
「お気持ちは大丈夫ですか。こちらにいらっしゃるのは、落ち着いてからで構いませんので、ゆっくり……それでは、お待ちしております」
日々こうした患者家族とやり取りをして、院内で亡くなったひとの世話をするのが当たり前だろうに、電話口の看護師は俺が思うよりもずっと人間的な体温を感じた。通話を終えてスマホを握ったまま布団の上に佇んでいると、とんと軽く肩を叩かれる。
「レイくん」
向かい合うとやはり瀬崎は俺より頭ひとつ分大きい。いつもの彼は時間になると一瞬でぱっと跳ね起きてすぐにてきぱきと行動するので、今もきっと清明な思考で短い通話をすべて聞いていたのだろう。こちらに向けられる両目の端に刻まれた皺がいつもより多く感じられる。普段は好き放題に膨らみあちこちにはねている彼の癖毛が、今は心なしかしおらしく見えた。通話を終え、スマホを握っていた手をだらりと横に垂らし、ふうと小さく息を吐く。
「おはよう」
見上げた面がそんなにひどいものだったのか、瀬崎はおろおろと目を泳がせていた。そういえば、ひとは自分より先に誰かが似た感情をあらわにしていることに気づくと、安心してこちらの方をひっこめられるものだと知ったのは、この男と一緒に住み始めてからかもしれない。今日も俺はこれに甘えて碌に頑張らない一日を過ごすのだなと溜息した。
「紀子さん……亡くなったって」
本当は「死んだって」と言おうとして、さすがにそれはだめかと咄嗟に言い換えた。瀬崎の腕が伸びてきて、布団に座ったままの体がすっぽり体を包まれる。
「そっかぁ、レイくん」
「うん」
「そっかぁ」
俺の肩に軽く体重を預けられる。広い手のひらが丸まった背中を撫でていた。部屋着にしているTシャツの生地は次の洗濯で穴が開きそうなくらい薄い。どんなに首回りが伸びきって擦り切れても同じ数着を延々と使い続けているのに理由があるのかといちど尋ねたことがあるが、惚けた顔をして、まだ着られるから、としか言われなかった。それを、大事にしているから長く着れるのだろうな、と勝手に思っていた。紀子さんは俺があまり大事にしてやれなかったから、ひとより早く死ななくてはいけなくなってしまったのだろうか。
ぎゅうと強く腕で囲われて、身動きがほとんど取れないままぺらぺらのシャツにしがみつく。「寂しいね」と呟いた瀬崎の声が、いつもみたいに優しくはなかった。
互いに顔を上げる。目の前にある双眸は瞼の縁に大きな水溜まりがあって、少し指でつつけば滴がこぼれ出てしまいそうだった。男はそれを手の甲でぞんざいに拭って短く洟をすすった。口を啄むのかと思って少し待っていると、俺をなだめるように前髪をめくり、平たい額に上唇の尖っているところを軽く押しつけた。
室温の変化を感知したのか、しばらく無風だったエアコンが再び動き出す。左右に首を振りながらリズム運転している扇風機は、まもなく連続運転の八時間を超えるので停止のアラートを点滅させていた。カーテンの隙間から珍しく朝陽が微かに差し込んできている。
梅雨明けは間もなく、今年もきっと曇天の晩を迎えるであろう、七夕の日の朝だった。
ふたりが手早く身支度をしているその間に、今度は病院とは別の番号から電話がかかる。電話帳に登録された名前が表示され、俺はここ数か月の間にこのひとときっと一生分通話しただろうな、と考えながら応答した。
「もしもし、浅倉さん」
「……ああ、黎さん」
きっと、あらかじめそうしなくてはならないと決めていたから俺に電話をかけて寄越したが、今は何も考えられないのだろう、声から呆然としている彼の横顔が頭に浮かぶ。紀子さんが置いていってしまった浅倉の心情を思うと、かける言葉が見つからなかった。
紀子さんは前々日に市内の社会保険病院から県央第二病院へ転院したばかりだった。その際に麻酔施術のための同意書に彼が配偶者としてサインしているのだが、病棟での生活の間、看護師のすすめに紀子さんは応じず、鎮痛剤の投与を拒否していた。
昨晩、浅倉は個室で付き添い宿泊できるサービスを利用して院内にいた。連泊はさすがにできないが、あと何日一緒に過ごせるか分からないから。送られてきたチャットの文字列が仕事帰りの思考を揺らす。俺は瀬崎に見舞いに寄るともこのまま帰るともいうのを決めかねて、駅に着くまでの時間で電話をかけた。
行くかどうかはレイくんに任せる、と瀬崎は言った。俺は行った方が良いのは頭で分かっているのだが、あと二日出勤すれば週末だからという気持ちもある、と正直に答えた。春から軽い胃炎みたいな症状が続いていて、仕事を休むほどではないが、やや無理をして平日をやり過ごしているのは否めなかった。小さな良性腫瘍も見つかっていて、秋に内視鏡で切除する予定が決まっている。それまでの辛抱と言い聞かせながら過ごす間、俺は紀子さんを気遣う余裕をそこまで多く持てなかったのだろう。彼女は十年以上闘病しているがん患者で、一方こちらはちょっとポリープができているだけのほぼ健康といっていい体で過ごしていたのだからまったく比較にならないが、日に日に痩せて衰弱していく彼女の姿を見ると、自分も同じように衰弱していずれ死ぬのだという薄暗い感情に浸っていた。
命は早めに尽きた方がいい、と昔から考えていたから、自分が事故や発作でぷっつり事切れる分にはすっきりしていて悪くない。問題は長い治療を要する場合になった時で、それまで俺の世話をしているはずの瀬崎に余計な情を持たせることだった。
ひとりになった瀬崎は当然ここから解放されて自由になるべきだと思う。本人は不満そうな顔をするだろうが、結果として別離は在るべき分岐だったと後になって消化されるはずだ。
しかし今の浅倉を見ていると、きっと俺が望むような美しい関係の剥離は起こらないのだと分かる。体が弱り、意識が朦朧としていく相手を看るにつれ、意識は思い出に縛られていくように見えた。看取りは精神の牢獄だ。嫌な記憶を忘れるのが得意な人間ほど、そこから脱け出すことができなくなる。
電話を切った俺はすぐに来た電車に乗り、いつもと同じ経路で自宅へ帰った。浅倉が病院へ着いたという連絡には、果たして本当に自分がそう思っていたのか分からないまま《ふたりの時間をゆっくり過ごしてください》と返信した。
俺が見舞いに行かないと決めた翌朝、もう紀子さんは呼吸を止めている。
「……亡くなってるね」
浅倉はすっかり燃え滓になった声で言った。
「少し前、病院から俺にも連絡来てた。支度が終わったらそっち向かうから。着く時間分かったらメッセージ入れとく」
「うん、気をつけて」
浅倉さんも。何か必要なものはありますか。こちらが病院に着くまでは、今は何もせず少しでも憩んで。
かけた方は簡単に楽になれるその言葉の総てが、最期まで付き添いをしている彼を辱めているようにしか思えず、声に出す前に捨てた。簡単な返事だけで電話を切って振り向くと、瀬崎が車のキーを持った手をひらひらとしてみせる。
「送ってくれるの」
「もちろん」
「時間へいき?」
「十一時くらいには出ないといけないさ、でも車で動いた方がいいだろうし、夕方またレイくんのところ行くようにする」
財布とハンカチを入れた鞄に印鑑を入れるか迷ったが、錫白の姓で手続するものはもう何もないだろうと思い、引き出しに戻した。家の鍵、ボールペン、ティッシュ、もういいか、持ち物なんて考えなくても。きっと院内の売店や近くのコンビニで小用を済ませられるだろうし、浅倉の家に移動するまでの間に足りないものがあれば買って解決すればいい。
三和土に並んでいるスニーカーをそれぞれ履いて家を出る。違うメーカーのものだが色もデザインもそっくりだったのでお揃いみたいになってしまったのを、浅倉の家の玄関で並んでいたら格好悪いかな、と独り言ちする余裕があった。駐車場に行くまでの間、瀬崎はずっと俺の手を引いて歩く。今度はアカモズと違う、ブンブンと唸り声をあげるスマホの鳴動に、いつもの起床時間を報らされているのだと気づいた。
端末を取り出したついでに、職場へ休みの連絡を入れておく。畔野事務長宛てのメールにふたりの事務員をCCに加え、通夜と葬儀の日程が分かったら追って報せると書き添えて送った。
助手席に乗り込むと、勢いで口を吸われた。ヘッドレストに頭がぶつかった拍子にがちっと歯と歯が当たる。濡れた舌で歯列の尖ったところを舐められながら、粘膜の内側が唾液でぬかるんでいく感覚に耳がぼうっとなった。ちゃんと実体があることを確かめるみたいに、キスを終えた瀬崎が俺の襟足に鼻面を当てて匂いを嗅いでいる。
「瀬崎さん、腹減らない? 着くまでに、バイパス通るだろ。朝マックでも食おうか」
いつもと同じ形状に復活しつつある彼の癖毛ごと頭を手で包みそっと押し返した。運転席でシートベルトを締めると、静かなエンジンの振動がぶるっと尻から伝う。
「……きみ、こういう時本当、太いね」
「食わないとへばるじゃん。もう何時に着いても、この先は一緒」
諦めて吐き出した本音に、瀬崎も何も返さなかった。
(後略)
『夜明けに発つ』12/1:文学フリマ東京39 丹路槇 @niro_maki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます