第7話 君の名は希望 ②


「……えっ……え……ええ……えっ!? 嘘だろ!?」


 土曜日の朝。

 重い瞼を擦りながら、ドア上部に付いている時計を見た康太は絶句した。

 時計の針が指すのは1。

 窓の外を見ると、陽の光が容赦なく射し込んでいる。

 つまるところ、お昼に起床したということだ。


「……最悪だ……授業前の最後の土曜日が……」


 ボサボサになった髪の毛を掻きむしりながら、康太は昨夜のことを思い出す。


 昨夜はカリナの階段を降りる音で深夜に起床し、そのままカリナに怒ってしまった。

 その際、今までの鬱憤と深夜ということもあり、ついつい不適切な口調でものを言ってしまった。

 ついでに、外の寒さで眠気を覚ます始末。

 その影響で、結局深い睡眠状態に入ったのは午前の4時頃だった。


「……ま、いいや。とりあえず朝飯食べに行くか……」


 起きてしまった事を考えても仕方ないと切り替えた康太は、おもむろに起き上がり、自室のドアを開けた。


 ◇◇◇


「お、康太くん! 随分おそようだね」

「お前起きるの遅えよ! 筋トレで大事なのは睡眠時間よりも睡眠の質だぜ?」


 階段を降りると、とっくに起床していた虎雅と太陽の2人が康太を出迎える。

 テーブルの上には焼肉弁当とサラダチキンがあり、前者は太陽の前、後者は虎雅の前に置かれている。


「……寝すぎた。気付いたらこんな時間だ」

「寝すぎってレベルじゃねーな。夜更かしでもしてたんだろ、お前」

「夜更かし……か。まあ、そんな所だ」


 わざわざ昨夜の出来事を言う気にもなれず、康太は誤魔化す。


「二人の前に置いてるのは朝飯か?」

「朝飯なわけねーだろうが! 何時だと思ってんだ!」

「……あ。もう昼か」

「あはは、康太くん寝ぼけすぎ。ちなみに僕の前にあるのは遊々園の特製焼肉弁当だよ。こんなの朝から食べれたら死んでもいいね。今は昼だけどあははは」

「それは言い過ぎだろさすがに」

「がはは! 康太の言う通りだぜ太陽。ならベンチプレスで潰れた方が嬉しいわ!」

「虎雅も人の事言えたもんじゃないぞ」

「がはは! うるせえ!」


 一気に騒がしくなるリビング内。

 とはいえ、それは心地の良い喧騒感だ。


「朝飯何食おうか。食材とかはあったっけ?」

「だから昼飯だっての! 食材は俺が買ったバナナしかねえな」

「そうか。一つもらっても?」

「全然いいぜ」

「ありがとう」


 寝起きで重い足取りのまま冷蔵庫へと向かいながら、康太は虎雅とそんな会話を交わす。

 そして、冷蔵庫の前へと着いた時、不意に昨夜の出来事が浮かんだ。


「……」


 康太は中庭へ続く窓へ視線をやる。

 その向こう側には、綺麗な緑色の芝生と純白のリゾートチェア、そのチェアとセットアップになっているテーブルがあった。

 しかし、いつも座って黄昏ているはずのカリナは、そこにはいない。


「……やっぱ言い過ぎたか」


 そう言って、康太は冷蔵庫の中にあったバナナを手に取り、リビング中央に位置するテーブルへと向かった。


 ◇◇◇


「おいしい? バナナ」


 無言でバナナを食べていると、太陽から声がかかる。


「うまいよ。普通に」

「それならよかった。なんか疲れてる顔してたからさ、康太くん」

「ん、そうか?」

「僕の勘違いかも。変に気を使わせたらごめんね」

「あー……いや。寝すぎたからだな、多分」

「そういうことね」

「おう」


 流石は心理学部に入る予定の男だ。

 そんなことを思いながら、康太は太陽と会話を済ませる。

 すると、サラダチキンを食べていた虎雅が「そういや」と前置きして、


「アイツがいねえな。いつも朝から中庭で黄昏てたハズなのに」

「アイツ……?」

「アイツだよ。あの自己紹介しねえ女。毎日欠かさずに黄昏てただろ?」


 虎雅の言葉に、太陽は中庭へ視線を送る。


「……本当だ。いないね」

「だろ?」

「いやてか、なんで虎雅くんは毎日あの子がいる事を知ってるんだ! 怪しい!」

「あのなあ。俺は朝から有酸素運動してえから、毎日早起きしてんだよ」


 ふん、と腕を組みながら、虎雅は言う。


「……なるほどね。今日も虎雅くんの額がちょっとテカってたのはそういう事だったんだ」

「そういう事だよ。んで、毎日起きる度にアイツは中庭で座ってんだけどな。今日はいねえ」

「外出してるとかじゃない? 違うかな?」

「多分それはねえな。玄関に明らかに小さいサイズの靴があったし」


 二人の会話に、康太は参加出来ずにいた。

 否、正確に言えば参加するべきでは無いと判断しての沈黙だ。

 下手な事を言って昨夜の出来事がバレることは避けておきたい。


「……そっかあ。何してんのかな。そろそろ名前が知りたいんだけど」

「大家が言うには超有名人らしいしな。どのレベルでどんな人間なのか気になるぜ。ほんとによ」


 虎雅と太陽の二人は、ため息混じりに「はぁ」と息を吐く。


「……まあ、時間が解決してくれるだろ」


 と、康太が口を開く。


「まあ康太の言う通りだな」

「だね」


 康太の言葉に、二人は納得し頷く。


「虎雅と太陽の二人はさ、好きな歌手とか会いたい有名人とかいるのか?」


 不意に、康太は2人へそんな質問を投げかける。

 すると、2人は「うーん」と悩んで、


「オレはあの人、筋肉盛男きんにくもりおに会いてえな。超有名人だし色々聞きてえ。黄昏てたのがその人だったりしねえかな」

「全く誰か知らないし、まず男だろそれ」


 虎雅の絶対に叶わない夢を苦笑しつつ、康太は太陽へと視線を向ける。


「僕はそうだなあ、焼肉を開発した人に会いたい。美味しいお肉の焼き方とか、焼肉に合う飲み物とか、聞きたいことがありすぎる!」

「それは絶対に無理だろうな。てかその人も男だろ絶対に」


 虎雅と似たような事を言う太陽に、康太は再び苦笑する。

 すると、太陽が「じゃあさ」と前置きして、


「康太くんはどうなの? 会いたい有名人とかいるの?」

「俺……?」

「うん。康太くん」

「俺か……うーん、そうだな。アイドルに会ってみたい」


 あえて、康太はそんなことを言ってみる。

 カリナへの些細な反省も込めてだ。


「アイドル!? お前アイドルオタクなの!? その感じで!?」


 と、中々にオーバーな反応をしたのは虎雅だ。

 確かに、趣味が筋トレで格好はスキンフェードの男には、無縁の存在なのかもしれない。


「いやいや、そういう訳じゃない。テレビで見るのと同じ容姿なのかなと思ってさ。ただの興味本位だ」

「んだそれ。変なやつだなお前。アイドルって言ったらオレはあの、『NOVA』? にいたしか知らねえ」

「僕も。アイドルには興味無いけど、その子なら知ってる。その子しか知らない」

「……俺もだ」


 やはり、カリナの有名度は段違いなのだと、2人の言葉で康太は痛感する。


「……どんな人間なんだろうな、アイツは」


 無意識に、康太はそんな言葉を発していた。


「さあな。遠い存在すぎて見当もつかねえ」

「虎雅くんの言う通りだね。全く予想も出来ないや」


 真っ当な事を言う2人。

 その言葉に康太が「そうだな」と返事をすると、虎雅は「うし!」と立ち上がり、


「オレはジムに行ってくるわ! 一緒に行くか?」

「僕はやめておく。まずはこのお腹をどうにかしないと、付くものも付かないからね! はは!」

「俺もやめておく。怪我でもしたら初回授業出れなくなるし」

「んだよ、二人とも真面目だな。じゃあオレは行ってくる」

「おう。いってらっしゃい」

「いってらっしゃい!」


 康太と太陽が見送ると、虎雅は心底楽しみそうに玄関へと走っていった。


「じゃあ僕はおかわりの弁当でも買いに行こうかな」


 と、ちょうど弁当を食べ終わった太陽が幸せそうに言う。


「さっき『どうにかしないと』って言ってたばかりだろ」

「あーあー聞こえないあーあーあー」


 そう言って、耳を若干浮腫むくんだ手で塞ぎながら、太陽も玄関へと歩いていった。


 1人になり、途端に開放感が爆発するリビング。


「……さ、俺もやることやらないとな」


 と、康太はゆっくりと机に手を付いて立ち上がりながら言葉にする。


 暴食家と筋骨隆々でさえ、天宮カリナの存在を認知している。

 その2人がカリナに気付いた時、どんな反応をするのだろうか。

 とはいえ、唯一カリナの存在を知る康太が、その本人とギクシャクしているのは2人に悪影響だろう。

 故に、ここで関係を改善しなくてはならない。


「……アイドルに謝罪するってどんなだよ、本当に」


 と、下らないことを言いながら、康太はカリナの部屋へと向かった。


 ◇◇◇


 階段を上がり、左に曲がって突き当たりにカリナの部屋はある。

 ドアは特に装飾されておらず、ただただシンプルに佇んでいる。


「……人格はドアに出るなんて聞いたことないぞ」

 

 女子の部屋と言われても疑ってしまう程に、可愛げが何も無い。


「……」


 そんなドアの前に立ち、康太は深呼吸をする。

 さすがに、思いっきり突入するのは立派な犯罪者となってしまう為、ドアの外から声を届けるプランだ。


「あのー、カリナさん。天宮カリナさん」


 口元に半円の手形をつくり、声の響きを加算させる。

 しかし、中から返事は返ってこない。

 とはいえ、カリナが萎えているならそれは当たり前の反応だろう。


「その、ごめん。俺も昨日は言い過ぎた」


 昨夜の出来事を思い出しながら、康太は進める。


「寝起きで深夜だったからさ、ちょっと自制が効かなかったっていうか。明らかに女子に使う言葉遣いでは無かった」


 尚も返事は無いが、それは想定内だ。


「だからその、本当に悪かった。お詫びにキャンディ奢るから、許す気になったら俺の所に来てくれ。あと、あの二人には何も言ってないから遠慮なく中庭も使っていい」


 反省の念を込めながら、康太は言った。

 ダラダラと謝罪を続けるのは逆効果になってしまう為、そろそろ潮時だろう。


「……これで大丈夫か。キャンディも奢ってやるんだし。流石に元通りになるよな」


「ふぅ」と再び深呼吸をした後、康太はおもむろに振り返り、カリナの部屋の無愛想なドアに背を向ける。

 そしてそのまま、康太は自室へと戻って行った。

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