第36話 天使なんかじゃない
「(私はねぇ、浅倉くん。嫌な女なんですよ)」
御浜ビーチで彼に告げた言葉を、静乃は心の中でもう一度反芻した。
嫌な女っていうか、もうクソ女だ。クソ女。
自身の醜い矛盾を弾劾する罵声は、いつだって自身の中から生まれるものだ。膨れ上がった齟齬は気づけば無視できない大きさになっていて、彼女の心を蝕んでいた。それもこれも、ぜーんぶ自分のせい。身から出た錆。まったくもって腹立たしい。青春をやり直すんじゃなかったのか? そんな有様でよく言えたものだ。
認めよう。浅倉くんはいいやつだ。彼と秘密を共有できて楽しかった。楽しかったのだ。
自分の秘密を彼が知り、そして彼の秘密を自分が知った。それだけではない。彼女には、彼の知らない秘密がもうひとつあった。それを隠し持っているスリルと優越感を、間違いなく楽しんでいた。降ってわいた非日常の世界。暁人と過ごす時間はそれに近かった。
クソ女め。
彼は白羽エルナを見つけられない。そんなことはわかりきっていたはずなのに。
伏せられたカードを開くたび、予想外の真実が顔をのぞかせる。エルナのファンは暁人だけではなかった。莉央も、ロコも、麗も、あんなキラキラした目で白羽エルナのことを語っている。
次第に、秘密を抱いていた優越感は、秘密を打ち明けられない疎外感と罪悪感に変わっていく。自業自得だ。
それでも暁人は優しかった。いや、もう、みっともないにも程があるけど、これだけは言ってしまおう。彼が優しいのが悪い。彼がもうちょっと自分勝手なら、もっと割り切って接することもできたのに。
そんな暁人に、言えるか? この壮大な自己矛盾を。なーにが大人だ。ダサい。カッコ悪い。これが10代の頃に自分が憧れた大人のあるべき姿なのか? 結局なんにも成長していない。
クソ女め。
極め付けは、ああ、言語化するのも躊躇われるが、極め付けは、そう。橘縁だ。
10歳近くも歳の離れた彼女に、嫉妬してしまった。最悪だ。
すべて自分が招いた結果なのに。当然の成り行きなのに。自分はそれに不満を抱いてしまったのだ。
莉央も、ロコも、麗も、それに暁人までもが、彼女をエルナだと言う。実際、縁の振る舞いはそう考えてもなんの違和感もないものだった。醜い不満が、心の中で大きく膨れ上がった。
縁がエルナのはずはないのに。
「(なぜなら、なぜなら白羽エルナの正体は――)」
言えない。言えるわけない。きっと知られたら、すべてが変わってしまう。だから、言わない。
でも、そうだとしても――友人のために飛び出そうとした彼らを、白羽エルナは見捨てないだろう。だって彼女は天使だから。
暁人は言った。
Vtuberのファンは、自分の理想を画面の向こうに押し付けて、勝手に拠り所にして生きていくのだと。
違う。違うんだよ、浅倉くん。
彼女に理想を押し付けて、拠り所にしているのは、あなた達だけじゃないんだよ。
静乃は信じている。自分たちの旅に、妥協は似合わない。旅の終わりはハッピーエンドがふさわしい。そう信じさせてくれたのは、彼らだ。暁人。莉央。ロコ。麗。彼らとの旅の終わりを、笑顔で迎えたい。だから、静乃は電話をかけた。もしかしたら、致命的に何かを変えてしまうかもしれないけれど。それでも。
きっと、白羽エルナならそうするはずだから。
今、目の前で恐るべき会話が繰り広げられている。
何が恐ろしいのかを言葉にするのは、難しい。ただ、一介のVオタが聞いてはいけない会話であることは、その場にいる誰もが察していた。傍若無人の塊である莉央ですら、この瞬間ばかりはぽかんと口を開けて、ことの趨勢を見守っていた。
『いや……いやいや、待ってえっちゃん。ちょうだいって……あれいくらしたと思ってんの!』
「使ってないんでしょ。最初の配信で撮影した動画ちょろっと流して、それで終わりだったでしょ。なんなら買い取るよ?」
『いや……あれ、でも……! 日本だとほとんど売ってなくてさ……! 手放したらいつ手に入るか……!』
「使ってないんでしょ?」
『だだだだだだって! 東京だと飛ばせないんだもん! 飛ばしちゃいけないんだもん!』
「だから北海道に遊びに来なよって言ったのに! 旅行オフコラボしようって! ぜんっぜん返事しないんだから! くーちゃんの代わりにマネさんに返事したこと何回あると思ってるの!? あと、一昨日の凸待ちも急に決めたよね!?」
『うう、ごめんよぅ……えっちゃん……』
「だからドローンちょうだい」
『あげますぅ……。えっと、どこに送れば良い……?』
「ううん。持ってきて欲しいの。ええと……」
運転中の静乃だが、ちらっと暁人を見た。暁人は一瞬びくっと肩を震わせたが、すぐにその意図を察する。
スマホでGoogleマップを呼び出し、東名高速のあたりを拡大する。「くーちゃん」がどこ在住なのかわからないので、なるべく東京にマップを寄せた。
「ここが良いかな。用賀パーキングエリア。田園都市線の用賀駅からすぐ近くだから」
『え、田園都市線……? 乗り換えだる……』
「今から2時間後くらいに着くから! じゃあね!」
静乃は大声でそう言い放ち、通話を切った。「ふうっ!」と大きなため息をつき、笑顔になる。笑顔とは言いつつも、どこか緊張に強張った、ぎこちない笑顔だった。
「みなさん、ドローン確保の目処が立ちました!」
「そ、そうですか……」
どういう気持ちで聞けば良いんだ。
いや、こう、マジで。どういう気持ちになれば良いんだ。車内の空気はなんとも言えない感じになっていた。落ち込んでいるわけではない。当たり前だ。だが、何から触れれば良いのかわからず、そもそも触れて良いのかさえもわからず、そわそわした、妙に浮ついた空気だけがこの場を支配していた。このまま2時間車内に篭り切るのは地獄である。
「まぁ……!」
口火を切ったのはロコだった。
「ドローンが見つかってよかったんじゃないかな! いやあ、一ノ瀬さんの友達が偶然持っていてよかった!」
あ、そっちでいく感じ?
「いや、でもよ加納。今の電話の相手って間違いなくクロ……」
「だまれぇ! 加納と呼ぶなぁ!」
まったく空気を読まない莉央の口を、ロコが無理やり塞いでいる。
「んだば、なっとぐはしだ」
ラップトップを閉じた麗が、静かに頷いた。
「いやぁ……。ごめんなさい、浅倉くん」
静乃がやや気まずそうに、苦笑いを浮かべている。暁人も、自然と苦笑いになった。
全部の疑問が氷解したような気持ちがあった。
彼女の性格。声質。どうして秘密が明かされたあとも「仲良くなりたくない」と言い張り続けたのか。結局全部、暁人が最初に思った通りだったのだ。
というか、まぁ、今の仕事と収入どうしてるのか、ずっと気になってはいたのだが。いやはや。
「いや……マジで悪い女だね。ノセさん」
「そうですよ。一ノ瀬静乃は、天使なんかじゃないですから」
そうして、静乃はようやく本物の笑顔を浮かべる。
確かに、天使の笑顔ではなかった。これまで何度も修学旅行の中で見てきた、一ノ瀬静乃の笑顔だった。彼女は、何も変わっていない。ならそれで良いか。
暁人は、思っていたよりも自然に、その事実を受け止められていた。
ただ、それでも、意識せざるを得なかった。運転席に座る彼女の、艶かしい肢体を。大人びたパレオの裾から覗く肉付きの良い太ももや、顕になった肩から二の腕にかけてのライン。そして何より、笑顔を浮かべる彼女の横顔。これまでは当たり前に受け入れていた静乃の実在性が、とある真実というフィルターを通して、強烈なプレッシャーとなり暁人に襲いかかる。
「吐きそう」
「わかる」
後部座席でロコが、トラベリオンEXを取り出していた。
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